日産好きなみなさんは
、「スカイライン」という言葉を聞いて何を連想しますか?
いろいろありますが
「長谷見 昌弘」氏を思い浮かぶ方も多いはずです。
長谷見さんと言えば、星野さんと並ぶ、日産の名ワークスレーサーですが、
星野さんの2学年上の先輩になるんですね。
私が一番最初に覚えたレーサーが、この、長谷見さんでした。
自ら
「ハセミ・モータースポーツ」を立ち上げ、レース活動や、
ホイールなどのパーツ開発を行っているんですが、
高校時代、モトクロスで頭角を現し、19歳でニスモの前身、日産の大森ワークス入りを果たし、
一度は日産を離れるも、幻になったレーシングカー、日産R383の開発要員として
日産の1軍チーム、追浜ワークスにカムバックしています。
長谷見さんの憧れの存在が、
高橋 国光氏だったそうで、
この世界に入ったきっかけも、高橋 国光氏がいたからだったそうです。
で、追浜に戻った長谷見さんは、高橋 国光氏、黒澤 元治氏、北野 元氏ら、
当時「日産三羽ガラス」と言われた名レーサーたちとともに、日産を支えていくことになりますが、
オイルショックや、公害問題の影響で、R383の開発が中止し、
その後、日本GPすら中止になってしまったため、
結果、ハコスカ2ドア・GTRや、S30フェアレディZでのツーリングカー・レース活動が、
この追浜ワークスのメンバーで行われることになったんですけど、
もしも、R383などのマシンでレースが行われていたら、
ハコスカGTRなどのツーリングカーレースは、
当時、2軍の大森ワークスにいた星野さん達が駆る予定だったそうで、
星野さん自身も後の自叙伝で、
「日本GP」が無くなって、長谷見さん達、追浜のメンバーがGTRに乗るようになってしまって、
自分たちは、B110サニーや、チェリー・X1Rなどでのレースがメインになった、
と書いていました。
長谷見さんはもともとレーサーとしての素質があったといわれ、
昔、初代二スモ社長の、難波氏が、ラリー部門の監督だったころ、
ラリー仕様の510ブルーバードのテストを長谷見さんに任せたところ、
初めて乗るのに、少し乗ったら簡単に乗りこなしてしまった、という事を
何かの本で書いていたのを覚えています。
その後、日産ワークスが活動を停止しますが、
長谷見選手自身はレース活動をつづけ、1980年には、
前人未踏の4冠王を達成するなどの活躍を見せています。
そんな長谷見さんに、最も深いかかわりがあるのが、
1982年に登場した、トップ画像の、
R30スカイラインRS・ターボシルエットでしょう。
マシンの事は今度また触れますが、
長谷見さんと言えば、スカイライン、そして日産の欠かせないレーサーの一人というのは
間違いないと思います。

●上は、83年に、R30スカイtラインが後期型になり、RSが鉄仮面顔になったのに
合わせて、シルエット仕様も鉄仮面になった、後期型仕様。
下は、82年に、南アフリカのキャラミ8時間耐久に出場するために製作された、
キャラミ仕様。
長谷見さんは、星野さんと違って、温厚な性格なかんじで、
あまりレースで星野さんのように感情をあらわにする事は無い感じもしますが、
一度怒ると、結構怖いみたいです。
実は、1987年、ル・マン24時間レースに日産が参戦した時、
ル・マンで使用されたガソリンのオクタン価があまりにも低く、
参戦したターボエンジン車が次々に壊れてリタイア続出、
日産車も3台出場して、3台全滅になったんですが、
日産は予選からこのガソリンに苦しめられ、
当時、ル・マンに参戦したマシン、日産R87Eというマシンのエンジンが
異常高温による異常燃焼で、シリンダー内部が溶け、
次々に予選で壊れ、遂には決勝用のエンジンしか残らなくなったという
事態が起きました。
長谷見さんのチームの日産R87Eは、プラグが溶けたりしてエンジンが壊れたケースもあって、
長谷見さんは怒り狂って、自分のマシンのプラグメーカーのスポンサーシールを
剥がしてしまったというエピソードが、モータージャーナリストが書いた、
ル・マンの事を書いた本に、書いてありました。

●マシンは、1986年に、日産が、ル・マンに初参戦した時のマシンで、
長谷見さんの組が乗っていた、日産R85V(マーチ85G・日産)。
16位で初完走を果たしています。
1998年、当時はJGTCと言われていた、GTレースで、
第3戦、西仙台ハイランド戦で、長谷見さんの乗るスカイラインGTRと、
すぐ後ろを走る星野さんのGTRがバトルをしていたんですが、
コーナーか何か、どこかで、星野さんがスピードを落としミスったのか、
無理に突っ込んでしまったのか、減速していた長谷見さんの後ろから
ぶつかってしまって、星野さんのマシンはバンパー破損も何とかレース続行、
対して長谷見さんのマシンは右リアバンパー部が凹んでいて、
シャシーまでダメージが行った様で、結局リタイアしてしまうんですが、
この時の録画中継で、リポーターのインタビューに
「後ろから、星野に強烈にぶつけられたからねぇ。
何とか走れるなら走りたかったけど、ダメージがひどかった。
(星野さんは)何考えてるんだろうねぇ、わかんないよ」
と、言葉こそ落ち着いていましたが、相当怒っているな、ってのは、解りました。
星野さんはこの時のアクシデントでペナルティを課せられてしまうんですが、
星野さんも後に、自分の手記で、この時の事を書いていて、
長谷見さんを怒らせてしまった、と書いていました。
この長谷見さんですが、実は、昔、1度だけ、バラエティ番組にも出ています。
日本テレビ系で、昔放送されていた、とんねるずの、
「生で、ダラダラいかせて」という番組
(番組名の由来は、あまりにも、えっちぃので、書けません。
もっとも、番組自体は全然普通のバラエティでした(笑))
のコーナーで、石橋 貴明さんや、タレント、現役レーサーが混成の
トリオで組んで、カートで対決し、負けたらチームリーダーが
丸刈にされるという、通称「髪切り・デスマッチ」というのがあったんですが、
98年当時、星野一義さん、鈴木 亜久里さん、近藤 真彦さん、野田 英樹さん、
後藤 次利さんなど、カーマニアの業界人、カートに全くの素人の芸能人などが参戦していて、
星野さんが腰を痛めていたことで急遽、代打で長谷見さんが出演したことがあります。
実際、鈴木 亜久里さんが、丸坊主にされてしまいました。
番組では、「モータースポーツ界の、王 貞治」とし紹介されていましたが、
「ちわっ!」と、普通に登場してきた長谷見さんに、
タカさんは
「あのぉ、ガソリンスタンドで働いている人じゃないですよね~?
石橋君く~ん、クルマ洗ってあげなよぉ~!って、いう人じゃないですよね(笑)」
と、ガソリンスタンドの人呼ばわりされてる始末でした。
この時、長谷見さんが星野さんの代打で入ったチームが、最下位になってしまって、
もちろん、長谷見さんが原因ではないですけど、
誰が坊主になる?って時に、長谷見さんが、いち早く走って逃げて行ったシーンは
笑えました。
さて、長谷見さんは、星野さんと同じ、日産一筋のレーサーだったと思われますが、
意外なところ、1度だけ、日産車以外のマシンでレースをしていたことがあります。
グループC、グループAでは、ずっと日産車でしたし、1994年に始まった、
イギリスの4ドア・セダンのツーリングカー・レース、「BTCC」をお手本にした
「JTCC」が日本でもスタートし、94年、95年と、日産プリメーラで参戦していましたが、
96年に限っては、外国の
「オペル・ベクトラA・後期型」で、参戦しています。
でも、GTシリーズはGTRで参戦し続けていました。
しかし、GTでも、ある異変が起きました。
99年のJGTCに、ニスモはR34GTRのGT仕様をデビューさせましたが、
驚いたのは、R34GTRがニスモから2台、星野さんのチームから1台の参戦で、
これまで、必ず新車が入っていた長谷見さんのチームは、98年型のR33GTRでした。
この頃、サテライトチームだった、エンドレスは、毎年型落ちで、
99年は98年型の、R33GTRなのは、解るんですが、
長谷見さんのチームが型落ちなのはびっくりでした。
99年に長谷見さんが使った、
このマシンは98年に星野さんが使用していたR33GTRだったそうです。
当時、日産は経営不振だったこともあり、ちょうどゴーン氏が日産の社長に
なるころだったので、まぁ、仕方ないかと思いましたが、
翌2000年のJGTCでも、その状態が変わらず、R34GTRの2000年仕様は、
ニスモが2台、星野さんのチームから1台のみで、
長谷見さんのチームからは、99年型のR34GTRの改良型が参戦していました。
これがきっかけで、長谷見さんは2000年シーズンいっぱいで、現役を引退します。
この年は、現:トヨタ・チーム・トムス総監督の、
関谷 正徳氏も引退した年ですが、
長谷見さんは、その理由を、
「型落ちのマシンじゃ、まともにレースが出来ない。
いつか必ず、新車が来ると思っていたけど、これも2年が限度。
だから、引退を決意しました」
と言っていました。
星野さんもこの長谷見さんの引退理由がよく解るらしく、手記で、
「いくらドライバーの腕が良くても、マシンが古くてはどうしようもできない。
自分も長谷見さんの気持ちがよく解る」
と、コメントしていました。
しばらくはGT300で、チーム監督をしてGTには参戦していましたが、
2004年に、久々にGT500へZ33で、復帰してきました。
この時はすごくうれしくて、ニスモ、星野さん、長谷見さんのチームの
バトルが観れると喜んだものです。
2008年にGTRへスイッチして、優勝も飾るなど、長谷見さんのチームは
活躍していましたが、2010年にいきなり、GT300へくら替えになったのは、驚きました。
そして、今年、2011年、長谷見さんの姿はサーキットにはありませんでした。
予定されていた参戦が突然中止になったそうですが、
私個人としては、あまり想像したくないのですが・・・書くのをやめます。
スカイラインと言えば長谷見選手、ぜひサーキットに、
長谷見さんのチームが日産のマシンで、戻ってくることを願っています。
長くなりましたが、最後に、「トミカ」と長谷見さんのスポンサードについて。
長谷見さんのマシンには、スカイラインRSターボシルエットなど、
必ず「TOMICA」のロゴが入っています。
そもそも、当時TOMY(現:TAKARA・TOMY)の社員が長谷見さんの走りに魅了され、
トミーとしてスポンサードを長谷見さんの所に申し出たのがきっかけで、
長年にわたってスポンサードの関係は続いています。
実際、長谷見さんのマシンのミニカーは殆どモデル化しているほどで、
長谷見さん=TOMICAというのがもう常識と言ってもいいかも知れません。