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キューブコロコロのブログ一覧

2020年10月19日 イイね!

日本一 義理深いレーサー?

皆さん、こんにちは!

約2か月ぶりのグダグダ行進となりましたが、
皆さん如何お過ごしでしょうか?

さて、プロ野球など見ていると、そのチームで現役を貫く選手がいれば、
新たな可能性を見つけてFAでチーム移籍や、海外へ行く選手もいますが、
クルマやオートバイのレース界ではどうかな?って見ていますと、
こちらでも、チーム移籍などでステップアップしていくドライバー、
ライダーは多いですね。

もちろん、契約更改で、戦力外通告や、希望が合わず、
チームを離れてしまうこともあるので、
仕方なしに、っていう所もあるでしょうけど・・・

そんな中、すごく義理深いドライバーだな、って思うのが、
「日本一 速い男」でお馴染みの、星野 一義さんです。

話は長くなりますが、
マシンはずっと日産車、ヘルメットはアライ、スポンサーは
基本的に「カルソニック(旧・日本ラヂエター)」、
使用タイヤはブリジストンというのが私の中での星野さんのイメージです。

タイヤやヘルメットも
ずっとデビュー時から同じというのは、そうないとは思います。

星野さんのことを書いた本で、星野さん自身が、
「デビュー時からなんの経歴もない自分をサポートし、支えてくれた
 企業さんなので、義理を大事にしている」
というような事を仰っていたように思います。

以前雑誌の記事で、星野さんが頭角を現して、注目されるようになると、
クルマではトヨタ系の有名チームから日産以上のギャラを出すから
うちに来てほしい、とか、

ヘルメットのライバル会社から、今の倍出すから、
契約して欲しいという話もあったのを、すべて断った事があるそうで、
そこには新人だった自分と契約してくれた義理があるからというのが
理由だったそうです。

ヘルメットの時は、
理由を聞いた社長さんは、逆に、
「偉い! 益々(星野さんを)気に入った!」と、その男気を褒めたそうです。

星野さんが1984年当時、現在のスーパー・フォーミュラの前身、
全日本F2に参戦していたころ、
BMW製エンジンを使用していた星野さんは、
将来F1へ進出させようとライバルの中嶋 悟さんをバックアップしていた
ホンダが、F2でも中嶋さんにホンダ・エンジンを供給していて、
差を見せつけられ、勝負が出来ないと判断し、
どうしてもホンダ・エンジンを欲しかった星野さんは、
日産契約のままホンダ・エンジンを使えないということで、
日産のモータースポーツ部門・NISMO(ニスモ)の当時の社長に
日産をやめたいと申し出たそうです。

すると、その言葉を聞きつけた当時の日産の専務が何事かと驚いて
星野さんから直接話を聞いたところ、
日産の契約のままで、ホンダエンジンを使えばいいじゃないか、と、
目の前でホンダ側に電話をかけ、ホンダ側から許可を取るという、
異例の処置がとられたことは有名です。

勿論、星野さんの実力、実績をデビュー時からよく日産が理解していたからこその対応でもあるでしょうけど。

その星野さんでも、一度だけ、例外なことがありました。
1989年、当時人気のあった、グループC・耐久レースで
グループC・世界耐久選手権シリーズの1戦だった、ル・マン24時間に、
スポット参戦が許されていたのを1989年からは、
世界選手権への全戦参戦義務を規定したため、
ル・マンに出るのを目標にしていた日本チームも、
海外にも拠点を作って参戦を開始しましたが、日産ワークスは、
その都合上、使用タイヤをダンロップに統一することになり、
グループC・全日本耐久選手権に参戦していた日産ワークスの1チームだった、星野さんのチームも、
この年と、翌年90年に限っては、それまでのブリジストンではなく、
ダンロップ・タイヤを使用することになりました。

長くなりましたが、今の時代、義理・人情なんて言葉はもう時代遅れ
のような感じに見受けてしまったのが悲しいな、と、星野さんの話を読んで
思いました。

Posted at 2020/10/19 23:20:07 | コメント(2) | トラックバック(0) | 尊敬する偉大な人物伝 | 日記
2018年05月29日 イイね!

工藤 静香さんはバイク、車好き?

皆さん、こんにちは。

沖縄~九州、四国が梅雨入りし、
雨の季節が近づいてきた今日この頃、
皆さん、如何お過ごしでしょうか?

さてさて、いきなりタイトルみて、?って思った事もいるでしょう((笑)

今回は好きなアーティストの1人でもある、
工藤 静香さんについてです。

静香さんは御存知の方も多いと思いますが、

1987年に解散した、「AKB48」の先輩グループにあたる、
秋元 康氏プロデュースの「おニャン子クラブ」のメンバーで、

その解散日である、87年の8月31日に最後のソロデビューを果たしました。

芸能人の方でも、土田 晃之さんが静香さんの大ファンで
親衛隊にも入っていたのは有名ですね。

ただ、私は親衛隊に入るまでは行かなかったんですが、
静香さんの歌が特に好きでした。

高校時代は同じおニャン子だった渡辺 美奈代さん推しの友人と
静香さんのシングル新曲と、うしろ髪ひかれ隊の新曲を予約したらもらえた

握手会のイベント参加券を持って大阪城ホールでのイベントにも行きました。

実際にナマで見た工藤 静香さんはホント、テレビで見るそのまんまでした。

で、当時、公言していたんですが、
本人はクルマ好きで有名でした。

曲もなんですが、ココが更に私のハートをキャッチしました(笑)

当時まだ10代だった静香さんですが、ソロデビュー時、
当時のアイドル雑誌に書いていたインタビュー記事で、
こんなことを書いていたのを覚えています。

「18歳になったらクルマの免許を取りたい!
 で、中古のZと、セブンを買って、毎日とっかえひっかえで乗るの。

 そしてお金を貯めたら、BMWのハルトゲ仕様を買いたい!
 コバルトブルーに、あのシルバーのストライプがとてもカッコいいから。」

という内容だったと思います。

もう筋金いりのクルマ好きです(笑)

Zは当然フェアレディ、セブンはRX-7の事をさしていると思いますので、
当時のクルマならZは130か、Z31、
セブンはSA22型か、FC3Sだろうと思います。

当時まだ17歳くらいだった静香さんが、BMWのハルトゲ知っている段階で
半端ねぇーって思いました。

また、バイク好きでも有名で、バイクは乗っていなかったものの、
ツナギと、ヘルメットを自宅に飾っている写真も雑誌で公開していました。

本人は昔鈴鹿で競技用のバイクにも乗った事があるとインタビューで答えていたのを
覚えていますし、

昔、デビュー前かその頃、
CBX400Fに本人が前、女性の友人がタンデムにまたがって2ケツしている
真似をしたスナップ写真が
雑誌に載っているのを見たことがあります。

当時自分もおそろいのデザインのヘルメットをかぶっていたのを覚えています(笑)
確かアライのヘルメットでした。

見た目もそうですが、彼女の独特のカッコいい雰囲気も
ヤンチャ系な人たちに人気があったようです。

最近フジテレビ系で始まった、月曜深夜に、石橋 貴明さんと、
ミッツ・マングローブさんのコンビで始まったトーク番組、
「石橋 貴明のたいむとんねる」で、
ゲストで出演していた静香さんが、

昔とんねるずと共におニャン子時代や、その後の
時代をともに駆け抜けた「とんねるず」の貴明さんと共に
振り返っていました。

とにかく、静香さんは1988年、
当時化粧品のCM曲「MUGO・ん?・・色っぽい」で人気爆発、

その後シングル曲もヒットを飛ばし、
当時同じく大人気だった「とんねるず」ですが、

当時の静香さんの人気ぶりを貴明さんは「(ブッ)ちぎっていた」と
懐かしんでいましたが、とりわけ、

静香さんのクルマのハンドルさばきが驚いたことを明かしていました。

静香さんによると1989年の秋頃、
「黄砂に吹かれて」がヒットしていた頃に当時、赤いポルシェに乗っていたそうで、
貴明さんが静香さんとお寿司を食べに行った帰りだったか、

静香さんのポルシェに乗せてもらって、
静香さんのシフトさばきを見て貴明さんが、
「マジ、すっげぇ、静香!」って思ったそうです。

勿論MT車ですし、シフトさばきが男勝りだったと言っていました。
静香さんも走り屋気質だったんでしょうね。

静香さんの車好きは本当だった事が解ります。

また、トーク中に、当時、ファンの中にはヤンチャ系の方も多かったようで、
いつの間にか、コンサート終了後にガードを兼ねて送ってくれる
静香さんのファンのいろんなチームの暴走族の方も多かったそうで、

たまに、どっちがリードするかで、もめるチーム同士もあったようで、
揉めだしたら大変なことになると思った静香さんが思わず移動車から降りて

揉めないでねぇ―!と身を乗り出して、制止しようとしたら、当時の事務所の社長さんに
待て待て待て!(汗;)と降りるのを停められたこともあったエピソードを
話していました。

実は私も知らなかったんですが、静香さんがソロデビューした17歳当時、
雑誌のインタビューで静香さんは夢として、

「広い部屋に住んだら、バイクのホンダCB400FOURを飾るの!」という
返答していたのをミッツさんが紹介していました。

静香さん本人も、ヨンフォアが好きだと言った事を今でもはっきり覚えていたそうで、
貴明さんも、自分たちが若いころのバイクで、
当時の暴走族の方が憧れてたまらなかったバイクですよ、と
言っていましたが、

静香さんは、この少し旧いのがカッコいい、と言っていました。

で、番組スタッフが探したヨンフォアの画像が、旧車会仕様でして、

静香さんも
「いや、これじゃない、これはちょっと行きすぎ(笑) ここまでじゃなくて」と、
笑っていました。

貴明さんも、

「もし、これ(旧車会仕様)が部屋にあったら、本当に好きなんだなぁ~って(笑)」

と、盛り上がっていました。

17歳の女の子がヨンフォアって言葉を普通に知っていて、
それがお気に入りと言えばそりゃぁ、ヤンチャ系の方達はハートを
キャッチされますね。

で、静香さんが憧れていたと思われるCB400FOUR、ヨンフォアは・・



このノーマル状態に近い、オリジナルに近いカスタム仕様でしょうか・・?

では!


Posted at 2018/05/29 11:06:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 尊敬する偉大な人物伝 | 音楽/映画/テレビ
2012年06月08日 イイね!

星野一義さんが出ていた、意外な?CM

かつて、昔はカーレーサーの方がCMに出演するのはよく見られた光景で、
各レーサーの方のスポンサーについてる企業のCMによく出演していました。

自動車関連はもちろん、
今は無いですが、タバコ会社もスポンサーについていた関係で、
タバコのCMにも多くのレーサーが出ていました。

しかし、中には意外な・商品のCMにも出ていたレーサーの方がいました。

その方は、今や重鎮、日本一速くて、アツい男、星野一義氏でした。

恐らく星野さんフリークの方は皆さんご存知のお話だと思いますが、
私も正直、その意外性にインパクトを受け、今も覚えているCMです。

1998年の3月下旬~4月頃に放映されていた、コミック雑誌のCMで、
確か1998年3月末に新創刊された、
「コミック・アルファ」という、ビッグコミックや、ヤンマガと同じ大きさ位のコミック雑誌のCMです。


こんなCMでした。

朝の通勤列車内で、左手にかばんを持ち、右手てつり革を持った
スーツ姿のサラリーマン風の星野さんが、車内から流れゆく外の風景を見ていて、
看板が通りすぎる時、星野さんが、その看板を見て
「あ、コミック・アルファだ!」と、つぶやき、
そこから連続して、目の前を通り過ぎる看板をみて、順に

「あ、○○ ○○だ!、△△ △△だ!・・」と、順番に掲載されている作品の
作者名を読み上げるという設定でした。

もちろん、CM時は看板は作者名や看板が解るようにその都度停まって
視聴者に解るようになっていました。

実はこのCMの担当者は「日本一速い男」でおなじみの星野さんに、
「日本一速い男」ならぬ、「日本一動体視力のいい男」と言う設定で、
列車内から外を流れゆく看板の文字を瞬時に読み取るという設定に
したという事らしいです。

実際CMの最初に、列車内でつり革を持って立つサラリーマン姿の星野さんがアップになり、
「日本一動体視力のいい男」というフレーズが書いてあった気がします。

で、このCMのラストシーンは、創刊前と、発売後の2パターンが用意され、
駅のホームの売店で、サラリーマン役の星野さんが、
売店のおじさんに、
「おじさん、コミック・アルファ」ちょうだい!」というシーンがあり、

創刊前のパターンは、おじさんに、「3月○○日発売だよ」といわれ、ガクッ、と凹むシーン、
創刊後は、おじさんに、「はい、1冊○○円だよ」と言って、
コミック誌を買うシーンが」用意されていたと思います。

このCMを見た瞬間、私も驚きと、星野さんにミスマッチなシーンに思わず笑ってしまったのを
覚えています。

あの、縁石越えをやる星野さんが?
走ると滅茶苦茶早い星野さんが・
デイトナ24時間レースで日本人初の優勝を飾った、星野さんが?

で、ある自動車雑誌で98年のル・マンを前に心境などをインタビューされた時、
このコミック雑誌の事も聴かれたようで、星野さんはこう答えていました。

「自分もコミック雑誌のCMは初めてだし、でも、面白いかな?って思って。
実際してみると、新鮮で面白かったよ」と答えていました。

「でも、撮影時は緊張したよ。何しろエキストラ(車内にいた他の通勤客役)の方が
大勢いるでしょ? 俺のミスの為に何度もやり直しってなると、
その為に時間を割いてくれてる皆さんに、迷惑かけちゃうし、申し訳ないから」

で、確か星野さんは殆ど1発でOKを出した、って言っていた気がします。

この撮影時に来ていたスーツは、なんと、アルマーニ製で、
靴から一式、コミック雑誌の会社からプレゼントされたそうで、
おしゃれにもこだわる星野さんは、凄く喜んだそうです。

で、このCMには、星野さんフリークにしか解らない、オチがありました。

CM最後の、駅の売店シーンで、売店のおじさんを演じていた、
髪にポマードをつけ、メガネをかけて、いかにも、売店のおじさんという感じの演者さん、
CMではカメラが引きで撮影していたので、よく見えなかったのですが、
実は、このおじさんは、金子 豊氏だったそうです。

私もこのインタビュー記事を読むまで気が付かなかったんですが、
星野さんが雑誌で、この売店のおじさん役の金子氏に滅茶苦茶ハマった事を言っていました。

「何がおかしかったか、っていうと、売店のおじさん役の金子(豊氏)だよ。
ポマード付けて髪を分けて、ジャンパー着たあの姿が、めちゃくちゃ似あっててさ、
思わず大笑いしてしまったよ(笑)  ほんとに似合うんだもん」

片や日本の名レーサーの星野さん、片やホシノ・インパルや、チームを支えてきた、
大黒柱の金子氏が、サラリーマンと、駅の売店のおじさんと言う、
マニアにはたまらないミスマッチがすごく面白かったこのコミック雑誌のCM、
残念ながら、ビデオが残っていなくて、「ようつべ」にもなかったので、
実物を見てもらえないのですが、恐らく、カーレーサーの方で
クルマ関係やスポンサー関連以外のCMをやったのは、大変珍しかったと思います。

しかも、あの、星野さんですから・・・
Posted at 2012/06/08 11:16:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 尊敬する偉大な人物伝 | クルマ
2011年08月25日 イイね!

「スカイライン」、「トミカ」と言えば・・・長谷見 昌弘氏ですね!

「スカイライン」、「トミカ」と言えば・・・長谷見 昌弘氏ですね!






日産好きなみなさんは、「スカイライン」という言葉を聞いて何を連想しますか?

いろいろありますが「長谷見 昌弘」氏を思い浮かぶ方も多いはずです。

長谷見さんと言えば、星野さんと並ぶ、日産の名ワークスレーサーですが、
星野さんの2学年上の先輩になるんですね。

私が一番最初に覚えたレーサーが、この、長谷見さんでした。

自ら「ハセミ・モータースポーツ」を立ち上げ、レース活動や、
ホイールなどのパーツ開発を行っているんですが、

高校時代、モトクロスで頭角を現し、19歳でニスモの前身、日産の大森ワークス入りを果たし、
一度は日産を離れるも、幻になったレーシングカー、日産R383の開発要員として
日産の1軍チーム、追浜ワークスにカムバックしています。

長谷見さんの憧れの存在が、高橋 国光氏だったそうで、
この世界に入ったきっかけも、高橋 国光氏がいたからだったそうです。

で、追浜に戻った長谷見さんは、高橋 国光氏、黒澤 元治氏、北野 元氏ら、
当時「日産三羽ガラス」と言われた名レーサーたちとともに、日産を支えていくことになりますが、
オイルショックや、公害問題の影響で、R383の開発が中止し、
その後、日本GPすら中止になってしまったため、
結果、ハコスカ2ドア・GTRや、S30フェアレディZでのツーリングカー・レース活動が、
この追浜ワークスのメンバーで行われることになったんですけど、
もしも、R383などのマシンでレースが行われていたら、

ハコスカGTRなどのツーリングカーレースは、
当時、2軍の大森ワークスにいた星野さん達が駆る予定だったそうで、
星野さん自身も後の自叙伝で、

「日本GP」が無くなって、長谷見さん達、追浜のメンバーがGTRに乗るようになってしまって、
自分たちは、B110サニーや、チェリー・X1Rなどでのレースがメインになった、

と書いていました。

長谷見さんはもともとレーサーとしての素質があったといわれ、
昔、初代二スモ社長の、難波氏が、ラリー部門の監督だったころ、
ラリー仕様の510ブルーバードのテストを長谷見さんに任せたところ、
初めて乗るのに、少し乗ったら簡単に乗りこなしてしまった、という事を
何かの本で書いていたのを覚えています。

その後、日産ワークスが活動を停止しますが、
長谷見選手自身はレース活動をつづけ、1980年には、
前人未踏の4冠王を達成するなどの活躍を見せています。

そんな長谷見さんに、最も深いかかわりがあるのが、
1982年に登場した、トップ画像の、R30スカイラインRS・ターボシルエットでしょう。

マシンの事は今度また触れますが、
長谷見さんと言えば、スカイライン、そして日産の欠かせないレーサーの一人というのは
間違いないと思います。

r30gr51.jpg
スカイライン・キャラミ仕様.jpg
●上は、83年に、R30スカイtラインが後期型になり、RSが鉄仮面顔になったのに
  合わせて、シルエット仕様も鉄仮面になった、後期型仕様。

 下は、82年に、南アフリカのキャラミ8時間耐久に出場するために製作された、
 キャラミ仕様。


長谷見さんは、星野さんと違って、温厚な性格なかんじで、
あまりレースで星野さんのように感情をあらわにする事は無い感じもしますが、
一度怒ると、結構怖いみたいです。

実は、1987年、ル・マン24時間レースに日産が参戦した時、
ル・マンで使用されたガソリンのオクタン価があまりにも低く、
参戦したターボエンジン車が次々に壊れてリタイア続出、
日産車も3台出場して、3台全滅になったんですが、

日産は予選からこのガソリンに苦しめられ、
当時、ル・マンに参戦したマシン、日産R87Eというマシンのエンジンが
異常高温による異常燃焼で、シリンダー内部が溶け、
次々に予選で壊れ、遂には決勝用のエンジンしか残らなくなったという
事態が起きました。

長谷見さんのチームの日産R87Eは、プラグが溶けたりしてエンジンが壊れたケースもあって、
長谷見さんは怒り狂って、自分のマシンのプラグメーカーのスポンサーシールを
剥がしてしまったというエピソードが、モータージャーナリストが書いた、
ル・マンの事を書いた本に、書いてありました。

r85v1.jpg
●マシンは、1986年に、日産が、ル・マンに初参戦した時のマシンで、
 長谷見さんの組が乗っていた、日産R85V(マーチ85G・日産)。
 16位で初完走を果たしています。

1998年、当時はJGTCと言われていた、GTレースで、
第3戦、西仙台ハイランド戦で、長谷見さんの乗るスカイラインGTRと、
すぐ後ろを走る星野さんのGTRがバトルをしていたんですが、

コーナーか何か、どこかで、星野さんがスピードを落としミスったのか、
無理に突っ込んでしまったのか、減速していた長谷見さんの後ろから
ぶつかってしまって、星野さんのマシンはバンパー破損も何とかレース続行、
対して長谷見さんのマシンは右リアバンパー部が凹んでいて、
シャシーまでダメージが行った様で、結局リタイアしてしまうんですが、

この時の録画中継で、リポーターのインタビューに

「後ろから、星野に強烈にぶつけられたからねぇ。
何とか走れるなら走りたかったけど、ダメージがひどかった。
(星野さんは)何考えてるんだろうねぇ、わかんないよ」

と、言葉こそ落ち着いていましたが、相当怒っているな、ってのは、解りました。

星野さんはこの時のアクシデントでペナルティを課せられてしまうんですが、

星野さんも後に、自分の手記で、この時の事を書いていて、
長谷見さんを怒らせてしまった、と書いていました。

この長谷見さんですが、実は、昔、1度だけ、バラエティ番組にも出ています。

日本テレビ系で、昔放送されていた、とんねるずの、
「生で、ダラダラいかせて」という番組
(番組名の由来は、あまりにも、えっちぃので、書けません。
もっとも、番組自体は全然普通のバラエティでした(笑))
のコーナーで、石橋 貴明さんや、タレント、現役レーサーが混成の
トリオで組んで、カートで対決し、負けたらチームリーダーが
丸刈にされるという、通称「髪切り・デスマッチ」というのがあったんですが、

98年当時、星野一義さん、鈴木 亜久里さん、近藤 真彦さん、野田 英樹さん、
後藤 次利さんなど、カーマニアの業界人、カートに全くの素人の芸能人などが参戦していて、
星野さんが腰を痛めていたことで急遽、代打で長谷見さんが出演したことがあります。

実際、鈴木 亜久里さんが、丸坊主にされてしまいました。

番組では、「モータースポーツ界の、王 貞治」とし紹介されていましたが、
「ちわっ!」と、普通に登場してきた長谷見さんに、

タカさんは

「あのぉ、ガソリンスタンドで働いている人じゃないですよね~?
石橋君く~ん、クルマ洗ってあげなよぉ~!って、いう人じゃないですよね(笑)」

と、ガソリンスタンドの人呼ばわりされてる始末でした。

この時、長谷見さんが星野さんの代打で入ったチームが、最下位になってしまって、
もちろん、長谷見さんが原因ではないですけど、
誰が坊主になる?って時に、長谷見さんが、いち早く走って逃げて行ったシーンは
笑えました。


さて、長谷見さんは、星野さんと同じ、日産一筋のレーサーだったと思われますが、
意外なところ、1度だけ、日産車以外のマシンでレースをしていたことがあります。

グループC、グループAでは、ずっと日産車でしたし、1994年に始まった、
イギリスの4ドア・セダンのツーリングカー・レース、「BTCC」をお手本にした
「JTCC」が日本でもスタートし、94年、95年と、日産プリメーラで参戦していましたが、
96年に限っては、外国の「オペル・ベクトラA・後期型」で、参戦しています。

でも、GTシリーズはGTRで参戦し続けていました。

しかし、GTでも、ある異変が起きました。

99年のJGTCに、ニスモはR34GTRのGT仕様をデビューさせましたが、
驚いたのは、R34GTRがニスモから2台、星野さんのチームから1台の参戦で、
これまで、必ず新車が入っていた長谷見さんのチームは、98年型のR33GTRでした。

この頃、サテライトチームだった、エンドレスは、毎年型落ちで、
99年は98年型の、R33GTRなのは、解るんですが、
長谷見さんのチームが型落ちなのはびっくりでした。

99年に長谷見さんが使った、
このマシンは98年に星野さんが使用していたR33GTRだったそうです。

当時、日産は経営不振だったこともあり、ちょうどゴーン氏が日産の社長に
なるころだったので、まぁ、仕方ないかと思いましたが、

翌2000年のJGTCでも、その状態が変わらず、R34GTRの2000年仕様は、
ニスモが2台、星野さんのチームから1台のみで、
長谷見さんのチームからは、99年型のR34GTRの改良型が参戦していました。

これがきっかけで、長谷見さんは2000年シーズンいっぱいで、現役を引退します。

この年は、現:トヨタ・チーム・トムス総監督の、
関谷 正徳氏も引退した年ですが、

長谷見さんは、その理由を、

「型落ちのマシンじゃ、まともにレースが出来ない。
いつか必ず、新車が来ると思っていたけど、これも2年が限度。
だから、引退を決意しました」

と言っていました。

星野さんもこの長谷見さんの引退理由がよく解るらしく、手記で、

「いくらドライバーの腕が良くても、マシンが古くてはどうしようもできない。
自分も長谷見さんの気持ちがよく解る」

と、コメントしていました。

しばらくはGT300で、チーム監督をしてGTには参戦していましたが、
2004年に、久々にGT500へZ33で、復帰してきました。

この時はすごくうれしくて、ニスモ、星野さん、長谷見さんのチームの
バトルが観れると喜んだものです。

2008年にGTRへスイッチして、優勝も飾るなど、長谷見さんのチームは
活躍していましたが、2010年にいきなり、GT300へくら替えになったのは、驚きました。

そして、今年、2011年、長谷見さんの姿はサーキットにはありませんでした。
予定されていた参戦が突然中止になったそうですが、
私個人としては、あまり想像したくないのですが・・・書くのをやめます。

スカイラインと言えば長谷見選手、ぜひサーキットに、
長谷見さんのチームが日産のマシンで、戻ってくることを願っています。

長くなりましたが、最後に、「トミカ」と長谷見さんのスポンサードについて。

長谷見さんのマシンには、スカイラインRSターボシルエットなど、
必ず「TOMICA」のロゴが入っています。

そもそも、当時TOMY(現:TAKARA・TOMY)の社員が長谷見さんの走りに魅了され、
トミーとしてスポンサードを長谷見さんの所に申し出たのがきっかけで、
長年にわたってスポンサードの関係は続いています。

実際、長谷見さんのマシンのミニカーは殆どモデル化しているほどで、
長谷見さん=TOMICAというのがもう常識と言ってもいいかも知れません。
Posted at 2011/08/25 00:17:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 尊敬する偉大な人物伝 | クルマ
2011年07月01日 イイね!

星野一義さん、誕生日おめでとう!!\(^o^)/

星野一義さん、誕生日おめでとう!!\(^o^)/えぇ~、
今日は日付が変わって、7月1日。

で、頭の悪いオイラでも、
覚えていたことがありました。






そう、今日は、私の尊敬する、日産ワークスの重鎮の一人、
「IMPUL」代表でもある、日本一速い男、

星野一義氏の、
64歳の誕生日です!\(^o^)/!

おめでとうございます!(^^)


星野さんの事は語りだせばきりがない位、多くの武勇伝がありますが、
それはまたの機会にします。

星野さんは皆さんもご存じのとおり、「日本一速い男」のフレーズで有名ですが、
星野さんに対して皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?

私は、とにかく、ぶきっちょだけど、アツイ、カッコいい男というイメージがあります。

レースになると、勝たなければ意味がない、勝つためには妥協は許さない、
思うような結果が残せなければ怒り爆発!!っていうのが当たり前だったそうです。

確かに、監督になっても、テレビの録画中継なんかでレース中に怒りのあまり
何かを蹴飛ばしているところもよく映っていました。

現役時代はマシンがトラぶって、リタイアしたりすると、
悔しさと怒りのあまりPITの中でメットをたたきつける、
ハンドルを投げ捨てるなんて茶飯事だったそうです。

で、後になって冷静になると、周囲に
「オレ、あの時すごく荒れてたんだってね・・」と、謝ることもたまにあったそうです。

当時、星野さんのマシンをメンテナンスするメカニックたちも、
すごく神経をすり減らしていたそうで、星野さんが決まった、というセッティングが
あれば、余程の事でない限りそれがどんな状況であれ、
それ以上は触らなかったといわれています。

星野さんの話はまだまだありますが、またの機会を得て書きたいと思います。



星野さん64歳の誕生日、
おめでとうございます!!

いつまでも元気で、
日本一、アツイ男で居てください!!(^^)


画像は、1998年のル・マン24時間耐久レースに出場したニスモの日産R390GT1で、
この32号車は、星野一義さん、鈴木亜久里さん、影山正彦さん3人の日本人クルーが、
見事総合3位で完走したマシンです。

星野さんにとっては、最後のル・マンということで、3位表彰台という、有終の美を飾りました。

オール日本人では、初の表彰台、
日産にとっても、これまでのル・マン参戦で最高位を記録しました。
Posted at 2011/07/01 01:12:38 | コメント(2) | トラックバック(0) | 尊敬する偉大な人物伝 | クルマ

プロフィール

「最近の自動車プラモは、結構内容が濃い・・(^^)」
何シテル?   05/08 08:36
クルマ、オートバイ、鉄道、模型が好きです(^^)
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デザイン、外観に惹かれて購入。 装備もバンながら充分過ぎるこの車、 バンなのに、CVT ...
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愛車ではないですが、パトネタの画像用に設定しました(^^) グレード、形式名は雑誌から ...
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JR西日本・223系・京阪神~北陸地区・新快速、快速普通、関空紀州路・丹波路快速用の高速 ...
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