ニスモ武勇伝・ニスモが本気を見せたレース:89年WSPC・ニュルブルクルリンク・500キロ耐久レース
昔読んだレースの裏側を書いたドキュメントで、日産にかんする面白い話があったので、書いて見ます。
かつて、グループC・プロトタイプスポーツカーと言われる、距離に応じて使用できるガソリン量がクラスごとに決められる、耐久レースが大人気でしたが、1982年にスタートして、1989年に一つの大きな規則変更がされました。
当時F1と比べてル・マンを除いて、1000キロや、800キロ等、長距離故に
人気が無かったWSPCはTV放映も少なく、
世界戦規模の全レースをつかさどる、FISA(国際自動車競技連盟)も、
盛り上げる為の対策を講じていました。
その結果、当時のFISA会長は、解決策として「長距離レースをやめて、
ル・マン以外は全て500キロのスプリントとする。」と発案しました。
更に、WSPCのタイトルがかかったル・マン24時間レースも含め、
WSPCに出場するには全戦参加を義務付け、
欠場した場合はペナルティ料を課す規則までつけました。
実はこれは、日本勢に対するあてつけだったとも言われています。
当時日本車勢は、世界戦には資金面から参戦が出来ず、
日本国内でのグループCカーレースに留まっていたした。
WSPCの1戦に、WEC・イン・ジャパン(富士1000キロ耐久)が含まれていて、
当時のFISAの規則ではスポット参戦も許可されていました。
これに全日本耐久選手権タイトルもかけられていたので、日本車、
日本チームもこのWEC、ル・マンにだけ参戦するケースが目立っていました。
そんな都合のいい時だけ顔を出す、日本車に対して
海外メーカーからは批判が出ていました。
同時に高技術で知られる日本車の実力をみたいという、
海外勢の思惑もあったのかもしれません。
この規則変更の為に、今まで10月に行なわれていたWECは廃止され(
全日本選手権のみがかけられ(富士1000キロは継続)、
WSPCの日本戦は、第1戦の鈴鹿戦に設定されました。
勿論、全日本選手権は外されています。
結局、当時ル・マンに出ていたニスモ、トヨタ・チーム・トムス、マツダ・スピードは
この規則に沿う形で全日本戦のほかに並行して海外戦に参戦する為の
海外部隊を設立しました。
マツダは海外のチームにレース運営を委託、トムスはイギリスにトムスGBを、
ニスモはNME:ニスモヨーロッパを設立しました。
この時にNMEの代表になったのが日産から出向してきた日本人、
M氏という人物でした。
彼は体育会系で、部下のためなら身を張って守るタイプと、言われていました。
現場主義で、言うべき事には妥協をゆるさない性格だったとも、言われています。
この彼の存在が、やがては海外勢のなかでも一目をおかれる存在になる事件が
起こりました。
89年のル・マンでは31年ぶりに復活した、ザウバー・メルセデスが復活優勝を
勝ち取り、WSPCでも連勝を記録するなど、意気揚々としていました。
そのル・マンの後に行われた、WSPCのドイツ(西ドイツ)・ニュルブルク・リンク・ラウンドでのお話です。
FISAの収益は、スポンサー料、エントリー料などでしたが、更にこの西ドイツラウンドでは、復活を成し遂げたザウバー・メルセデスの地元でのル・マン凱旋レースの、テレビ中継での演出を約束する話を、ザウバー・チームに持ちかけました。
当然、ベンツも地元でのアピールにつながると言う事で、喜んで多額の寄付を行ったようです。
これだけでもう十分な収益があったFISAですが、ここで欲を出したのがいけませんでした。
当時バブルの絶頂にあった日本からも寄付を申し出ようとしました。
早速日本車勢にも申し出をしましたが、その切り出し方がいけませんでした。
ベンツのように演出を約束するというならまだしも、訳のわからない、賛助金と言う形で申し出をしたそうです。
すると、NMEのM氏は、このFISAの担当者に対して、
「カネを出せと言うなら、それなりの根拠と明細を示して欲しい。 必要費用を支払っているのに、その上訳の解らない名目の費用を出すほど私達はいい加減な会社ではない。」
と、担当者を追い返したそうです。
FISAの担当者は不服そうに帰り、そして地元のテレビ局のスタッフ一同に、よせばいいのに、こう言ったそうです。
「日産はカネを払っていないから、決勝では日産のマシンは映すな」と。
さて、その話を聞きつけたM氏は、烈火の如く怒り狂いました。
NMEは、ル・マンこそ決勝はリタイアしたものの、出来上がって僅か3ヶ月程度の余裕しかなかったにも拘らず、決勝ではトップを脅かす活躍を見せたマシン、
日産R89Cに自信を持っていました。
日本は元より、海外でも活躍した、日産R89C(画像は国内仕様)
特にニュルでのテスト走行でも好調さを見せ、ガソリンも、決勝では十分に規定量の範囲内で、ベンツをくだして優勝できる計算でした。
しかし、FISAが売って来たケンカに、真っ向から立ち向かう決意をしたM氏はNMEの現場監督を含め、チームクルー、ドライバーに理由を打ち明け、
「いいか、明日のレースは何が何でもぶっ潰してくれ!!」と、
ある計画を指示しました。 スタッフは理由を聞いて喜んで賛成したそうです。
さて、決勝日の話です。ニュルには地元の英雄、ベンツの凱旋レースを見ようと多くのファンが詰め掛けていました。
テレビ中継も大々的に行なわれ、ベンツの演出の準備は整っていました。
そして、いよいよ決勝のスタートです。
予選こそジャガーに先行を赦したベンツですが、僅か数週でジャガーを抜き去ると、2台のベンツは1-2体制でレースをリードして行きます。
ここまではザウバー、FISAの思惑通りでした。
すると、ベンツやジャガー、ポルシェなどの後方からとんでもない速さで、順位を上げてくる、1台のマシンがいました。
ナンバー23をつけた、ニスモ・ヨーロッパの、日産R89Cでした。
とてつもないオーバーペースで、ベンツを走らせるザウバーはもとより、他のチームも日産の異常なペースにあれでは決勝は完走不能だ、一時のパフォーマンスだろう、と思っていたようです。
しかし、ペースを一向に落とさない日産R89Cは、ジャガーを抜き去り、ベンツがトップに立った僅か2,3周後には、そのベンツさえ、抜き去ってしまいました。
実は、M氏の指示は、「いいか、明日の決勝はガス欠になっても、リタイアしてもいい!
全速全開走行でトップに立って、レースをぶっ潰してくれ!」、と言う物だったのです。
普段燃費の為にペースの調節を強いられるドライバーもこの時ばかりは大喜びで、アクセル全開走行だったそうです。
しかもベンツを抜き去って先頭に立った日産は、ペースを落とすどころかペースを上げてベンツを引き離しにかかりました。
この時あってはならない事態にザウバーはパニックだったと言います。 そして困ったのは地元のテレビ局でした。
FISAからあれだけ映すなと言われていた日産車がトップなので、
映さないわけにもいかず、結果日産車はビタ1文払う事無く、
テレビで大映りになっていました。
一方、ベンツの凱旋レースを見に来た地元の西ドイツのファンは意外にも、英雄をやっつけている悪役の日産のレースに大喜びでした。
結局、日産は終盤リタイアしました。
言うまでも無く、規定で使用できるガソリンを全て使い切ってしまってのガス欠でした。
このレースは、ザウバー・メルセデス・ベンツの優勝で幕は降りましたが、ザウバーはプライドをズタズタにされました。
しかも日産は、ビタ1文も出すことなくテレビに大映りになり、FISAのメンツを潰す事に成功しました。
リタイアしましたが、NMEのスタッフは誰も悔しがる事は無く、気分爽快という感じであったそうです。
FISAは次のイギリス・ドニントンパーク戦でNMEに、謝罪をしたそうです。
同時にNMEは、M氏と共に海外勢からも一目を置かれる存在になりましまた。
89年は日産はザウバー・メルセデスとタイトル争いをしましたが一歩及ばず、ザウバにタイトルを持って行かれました。
翌90年、ザウバーは新型のC11をデビューさせ、90年もWSPCのタイトルを奪取し、2連覇を果たしました。
この後、M氏はNMEを去り、ニスモは91年から始まる新規定のマシンの開発の為にWSPC、ル・マン参戦を休止します。
しかし、その後WSPCへの参戦は完全に中止、更に92年いっぱいでWSPC自体が無くなり、NMEも解散する事になりました。
実は、当時ザウバー・メルセデスの監督だった方がこんなコメントを残していました。
「89年のドイツ戦で、とてもプライドを傷つけられました。しかし、あの悔しさがあったからこそ、90年用の、ニューマシンの開発に着手し、90年もシリーズタイトルを取る事ができました。 本当に日産には感謝しています。」と。