2018年01月12日
ホテルでワイン会・大戦機あれこれ
・今日は滅茶苦茶冷えた。普段は羽毛布団二枚掛けで寒く感じる事はまずないんだが、ちょっと肌寒かったぐらい。長野県民は統計で「もっとも室温が低い部屋で寝ている」んだそうだが、それでも13度ちょっと。その分電気毛布とかを活用するそうだが、私はあまり好きではなくて使ってない。逆に言うと寒い地域なのに家の断熱性能が他の所より劣るという住宅の後進性が如実に表れているだけだが。
そんな中、ワイン会に出てきた。幸い晴れて風もなく外出ハードルは比較的マシだったとは思うが、それでも辛い。場所は有名な老舗ホテルで、昨年か一昨年に身売りして改装されたと聞いていた。ホールは前と微妙に違うパーテーションになっているとは思うが、まあ普通。そして広いホールを贅沢に使ってくつろぎの空間でのワイン会だった。普段は密集して飲んでいるので、こういう余裕がいいなと。準備する方は大変かも知れないけどね。
ワインは五一(林)のナイアガラのスパークリング、マンズの龍眼の泡、山辺のシャルドネ樽発酵2015,山辺のメルロー2007樽熟成、ボルドー・メドックのシャトー・ラバディ(ブルジョア級)、安曇野ワイナリーの花木花2014というリンゴのアイスワイン。最後におまけで”まじょあかね”という蕪の焼酎が出た。今回はレストランのシェフが地元食材とのコラボという事で部分部分でそういうのを使った料理を出してくれて、ほぼ1品1ワインぐらいの対応で進める事が出来る企画だった。どちらかと言うとワインより料理がメインぐらいのバランスだったと思う(会はソムリエが解説するのでワインメインではあるけどね)。今回の白ワイン比率はナイア4,龍眼14,シャルドネ16で、平均値からすると龍眼タイプの人気が高かった。シャルドネはほぼ平均で、ナイア比率がやはり低いが、前のワイン会の1人よりは多いか。
私が感心したのはやはり山辺のシャルドネで「こんなよかったっけ?}と思うほど香りが華やかかつ新鮮で、丸さと鋭さのバランスがちょうど良かった。また料理の蟹味噌のムースは白ワインの味を逆に何度でもフレッシュに感じさせてくれて飲み飽きなくなる。ただ、蟹味噌の生臭さも表れてしまうので、焼酎などで食べ慣れている人からは不評でもあった。もっと無難な素材のムースだったら万人に受けるかと思う。龍眼はスティルワインだと線が細くて余韻も足りない物になりやすいのだが、マンズのは泡にする事で残糖や酵母臭っぽさも足して、ものすごい美味かったから、これに人気が出るのも分かる。ナイアガラは地元民だとあの香りは食用として知っているのでワインにすると違和感が出てくるし、かと言って青果のように甘口ワインにするとダダ甘いという難しい所だね。だからアイスワインにしてしまった時は地元民でも評価が高い。
山辺のメルローはソムリエはボルドーのメドックのワインと比肩すると誉めていた訳だが、一つはセレクト自体がそうなる方向性のを合わせたのだろうと思う。ちょっとボルドーっぽくない、少し繊細な感じのシャトー・ラバディだから完全に負ける事はなかったが、カベソーがある分アタックからしばらくは不利な印象があった。料理は牛首肉のワイン煮込みで、ホロッホロになるまで甘辛に煮込み、付け合わせなどもすき焼きを強く意識した作りであった。ただ、かなり味が強くて、大和煮に近くなっており、素材とか分かりづらいよね。付け合わせはさすがだったが、要はフレンチですき焼きを作った感。
デザートは蕎麦粉使った林檎ケーキとババロアっぽいの。紅木花がみずみずしい林檎の味であって、ケーキはそれに勝たないようにあえて一歩引いたと言っていたが、それはいらん心配だったのではないかと思う。調子を合わせるんじゃなくて、勝って被せていくぐらいの方がスリリングで面白いと思う。クルミのキャラメルは良かった。
メインとなる料理に関しては、前半の部分があまりに奇をてらいすぎていて技巧的、味も色々混ぜてまとまりがなく、連れの人とも困惑してしまった。料理方法が横文字だらけってのも私はあんまり好きじゃないというか、焼いて別々に出してくれた方が良かった。地元食材とかもどうなんだろ。たとえばイチゴと貝の煮付けがパテで包まれていて美味しいと思う?
ホテルのサービスとしては、ちょっとホスト側が肩に力が入りすぎている感じを受けた。滅多にそういう所に行けない身分なので気疲れする貧乏人なのがいけないんだが、もう少し鷹揚でいいんじゃないかと。スタッフの緊張に反比例して、暖房のエアコンの当たりがきつかったり、スプーンが毛羽立っていたりもあったし、準備はしているけど格式は上げていく途中って感じかなぁ。
・その後は飴市の街を少し歩いて帰宅。寒いのでそこまで混雑はしていなかったし、本番は明日なんだろう。そしてJAのアンテナショップに寄ったが、また鍋やってない。イオンのテナントと重複したけど、観光客の通路で客足が伸びたと幹部連中は言っていたが、売り子さんはそれを言下に否定。スルーですよと。そりゃ目玉もないしスルーするだろうよ。またアンテナショップも価格設定が狂ったように高くて、ラジオとかで宣伝もしているけど苦戦していたように先日は見受けられた。経営戦略部門は仕事してないんだろうね。まあ俺の金じゃないからいいんだけど。
・航空機モデルの左翼によくあるライトは着陸灯だそうだ。まあタキシングとかにも使えただろう。これ、日本だと陸軍機にはついているが海軍機にはついてない、という記述が見つかった。確かにゼロ戦にはついてない気がする。その人は海軍は空母運用では灯火があるし、逆に陸軍はあちこちに降りる可能性があるからかと推測されていた。実際はゼロ戦も陸上で運用されていたし、全部の機体を調べてないのでアレだが、一応の説得力はある。
・Ju87は黄色の発色や厚塗りが気に入らなかったので翼端と胴体は1度取ってからサフを塗ってやってみる事に。とりあえず胴体は簡単に取れたのでサフを筆塗りしたんだが、滅茶苦茶べとつくのでムラが出てしまった。結構薄めないといけないらしいな。ただ遮蔽力や発色は桁違いだ。また食いつきも当然いい。翼端はエナメル厚塗りしたら下地からパリパリと剥げてしまったぐらい食いつきが悪かった。というか私の認識だと「水性アクリル」の方が「エナメル」より若干溶剤が濃いと思っていたのだが、どうもエナメルと水性アクリルは溶剤の性質が全く違うだけで、むしろ水性アクリルの方が溶剤が弱い感じがしてきた。つまり、エナメルでウェザリングやる時の下地に水性アクリルが使えるからと言って、溶剤に強い感じではないというか。実際パレット上で乾いた部分を溶剤で溶かしてみたが、エナメルはエナメル溶剤で良く溶けるが水性アクリル溶剤では溶けてくれない。
とりあえず明日サフから黄色の部分をやりなおす事にして、機首などだけマスキング。胴体ももう1度調色しないといけないのが面倒だ。そんなんでJu87は待ちになったので、プラッツのP51Dのもう一機を組む事に。機内色などは同時に塗ってあったので、前の反省を生かしてちゃっちゃと組んでいくが、ちょっと胴体の合いが悪かったり同じ金型なのに修正に手間取る。以前の反省からシートだけは後から入れた。ここは何故かセンターに合わせ印がないんだよね。あとはマスキングでおおよその下準備は出来た。今回のタスキギーエアメンは黒立ち上げではなく白立ち上げのシルバーで塗ってみる予定なので、ベースホワイト塗ってから赤い部分を塗ってマスキングしてシルバーかな。シルバーだときっと赤は隠せないからマスキング2度手間になりそう。幸いタスキギーエアメンはレプリカ画像があって分かるのだが、色は塗った銀色というか、ほぼ灰色であった。D型ではパテで段差埋めをするから塗装仕上げというのに合ってる。あと、黄色ラインも出来れば塗装でやりたい。このサイズのステッカー貼りはもう嫌じゃぁ。
・五式戦闘機の文献を読んでいたら日本のエンジンオイルの話が出てきた。戦中の日本のオイルの品質が悪かったという事は擄獲日本軍機が米国のガソリン・オイル・点火プラグで驚くべき高性能を発揮したという話で聞いた気がする。米軍はペンゾイルに代表されるペンシルバニア産のパラフィン系原油を使えたので、単純な精製でも高粘度指数の純度が高いオイルが使えたのだそうだ。他はスノコ・モービル・アマリー・クエーカーステート・バルボリンなどが工場を構えていたそうな。
一方日本はインドネシアの原油地帯を一時的に占拠していたりしたが、基本的にワックス成分が多くてオイルには向かない地域であった。では日本の軍用機はどうやってオイルを調達していたかと言うと・・・・備蓄である。驚くべき事に、戦前にアメリカ産のオイルをストックしておいて、それを切り崩して使っていたそうだ。しかも廃油を回収して再び精製する再生油とかとんでもない物まで。なので良いオイルストックを持っている部隊は良かったが、そうでない所も出てくる。もちろん国産で良いオイルを精製する方法も研究はしていたようだが、そもそもの技術レベルや規格はアメリカが当時から策定していた(今のSAEみたいなもんか)。やっぱり日本の工業力は底が浅かったと言わざるを得ないが、化学合成油が出てくるのはもっと後だし、高度精製や異性化が一般化しだしたのはここ10年ぐらいのように思う(軍用だと知らんが)。まあインドネシアの原油はオイル原料として見るとペンシルバニアには及ばないが中東よりは良いし、それゆえヨーロッパでは化学合成油の研究が進みアメリカではそれほどでもなかったという話も聞くが。
そして、油と言うと思いつくのは「植物性の油を潤滑油として使ってはどうか?」という事。燃料としては松根油が使われていた事が知られていますが、菜種油なんかはエンジンオイルとして実際売られていました。酸化性能に問題はあるんですが、航空機のエンジンなんざメンテは頻繁に受けるのが当たり前ですし、下手すれば特攻用なので耐久性なんか構わない。再生油で性能を発揮出来ないより、植物油で一時的に高性能を得る方がいいのではないかと。
そして、そういう仮定で調べたらやっぱりあったよ!一部でひまし油をエンジンオイルとして使ったという記録か!というか、昭和13年頃に従来のひまし油と鉱物油のどちらを使うべきかという議論があり鉱物油になったので、それ以前はひまし油が普通にエンジンオイルだったみたいです。で、大戦初期の記録でも軍需品のひまし油が部隊に支給されていたのを食用したとか言う話がありました(実際は下剤に使われるそうで、結果は・・・・)。しかし、当時は鉱物油が飛行機用のオイルであり、おそらくそれ以外の機械用途で使われていた物と思われます。そして、大戦末期には普通にエンジンオイルの代用品としてひまし油を増産していた事が分かっているらしいので、戦闘機用かまでは分かりませんが「使っていた」のではないかと。
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Posted at
2018/01/14 00:22:52
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