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くまとっどのブログ一覧

2025年04月18日 イイね!

日産 WRC 最後の優勝車

日産 WRC 最後の優勝車私の幼少期だった、1970年代。

日産と言えば「技術の日産」でした。

他社とは一線を画した、技術オリエンテッドなクルマ作り。

「世界の恋人」が流れる企業CMと共に、私の中ではそのイメージが刷り込まれています。

もちろん、今も「技術の日産」ですよ。

その方向が、ドライビング プレジャーから自動運転に代わりましたけれど。


あと「技術の日産」たらしめたる所以、それは海外ラリーでの活躍でしょう。

510型ブルーバードによるサファリ総合優勝は、さすがにリアルタイムで観てはいませんでしたが・・

その後のPA10型バイオレットでのサファリ4連覇は、私にとって正に「技術の日産」の象徴でした。


そんな「ラリーの日産」、そういえば日産のWRC最後の優勝車ってなんだろう?

まさか、このバイオレットではないと思うのですが・・・

サファリ4連覇はグループ 2/4時代。

その後、グループ Bの時代に代わります。

日産車のグループ B車両は、この車両でした。






240RS

クワトロショックで幕開けした、グループB。

勝利の選択肢としては、ターボ + 4WDは必須となります。

そうは言っても、日産、ひいては日本車の場合、グループBは即ちサファリ仕様。

スピードよりも耐久性を重視していました。

2つの技術を同時搭載は難しいけれど、ターボはチャレンジ。

トヨタは、この方法を選択しています。

結果、生み出したグルーブBホモロゲ車両。

それが限定生産された、セリカ ツインカムターボ(TA64)でした。


片や国内初のターボを市販した、日産。

トヨタ同様に、ターボは必須と考えていた様です。

そこで高熱による耐久性問題を検証すべく、実戦にターボのテスト車両を投入。

導き出した結論は、時期尚早としてターボは見送りとなりました。

その為、日産は、パワーを排気量によって得る方法を選択します。

設計されたのは2.4L DOHC4気筒、FJ24でした。

その240RS、サファリでの最高位は、1985年の4位。

それ以外でも1983年ニュージーランドで2位と、残念ながら未勝利で終わります。

それでは、グループAはどうだったのか?

グループAに参戦していたのは、このクルマ。






パルサー GTI-R

WRCスタンダードとも言える、ターボ + 4WD車両を遂に投入します。

軽量コンパクトな2BOXボディに搭載したのは、4連スロットルで武装した2Lターボ、SR20DET。

スペックだけ見れば、他社に引けを取りません。

これだけのクルマを、ラリー経験豊富な日産が投入すれば、今度そこWRC勝利が・・・。

満を持して投入したデビュー戦、1991年のサファリ。

ここでは優勝ならずの5位。

翌1992年では、雪のスウェディッシュで3位と、これが最高位。

パルサーのワークス参戦は、この2年間だけで終了となりました。

コンパクトなボディにハイパワーエンジンは、WRCでは常套手段のはず。

ですが、物には限度があった様でして。

ちょっとコンパクト過ぎたが故に、エンジンルームに隙間なし。

熱の逃げ場もありません。

同じくコンパクトの弊害で、ホイールストロークの確保が難しい。

また大径ホイールも入らないので、ブレーキも小さい。

熟成も新車投入もなく、日産ラリーの歴史はここで途絶えてしまいました。


という事は、日産最後のWRC優勝は、1982年のサファリ?

流石にそれはないだろうなぁ・・・。

いろいろ調べてみると、日産初のGr Aは、パルサーではなかったんです。





200 SX

Gr A移行初年度、1987年。

ターボ + 4WDで参戦したくとも、日産に該当する市販車はなし。

そこでGr Bの240RSと同様に、FRをベースに選択します。

このクルマの国内仕様シルビアには、FJ20ET搭載のRSターボがありました。

という事は、ここで遂にターボ投入?

しかし、この200SX、搭載エンジンはVG30E。

V6 3L、SOHCのNAです。

またしても日産、ターボを回避しています。

NA + FRという、結局は240RSと同じコンセプトを踏襲します。

Gr Bでは、トヨタがセリカ ツインカムターボ(TA64)でサファリ3連覇。

ターボの信頼性は実証済みです。

それでも、またしても日産は、大排気量NAを選択しているのです。


デビュー戦のサファリでは8位。

実戦で熟成を重ねた、翌1988年のサファリでは2位と3位。

そして迎えた、第11戦コートジボアール。

ここはマニファクチャラーズ タイトルが、掛かっていません。

その為、ランチア、トヨタ、フォードと言ったワークスチームは、不参加。

それでも、アウディ クーペクワトロ、マツダ 323(ファミリア)が、プライベートで参戦しています。

ワークスと言えどもFR + NAの200SXでは、決して楽なラリーでがありません。





アフリカの大地で開催される、このラリー。

サファリ同様のタフさが、ここでも要求されます。

そんな過酷な状況の中、序盤からリードをしていたのは200SX。

しかし、アウディ、マツダも、僅差で食らいついて来ます。

先にアフリカの洗礼を受けたのは、ライバル勢。

マツダは駆動系トラブル、アウディはコースアウトと、徐々に遅れが目立ち始めます。

これで200SXも安泰かと思いきや、まさかの牛に激突。

フロント損傷し満身創痍となりながらも、トップで帰って来たのでした。


1988年コートジボアール、ワークス不在とは言え、WRCの1戦には変わりありません。

結局、これが日産車最後のWRC優勝となったのです。

ちなみにこの勝利は、WRCにおけるFR車最後の優勝でもあります。



疑問は解決したものの、ちょっと気になったのは、参戦車両。

V6 3Lの200SXって、どんな素性の車なんでしょう?

TA64セリカの様な、ラリーホモロゲ用の専用車両なんでしょうか?

調べてみたら、こんなものが出て来ました。





これは、200SXのFIAホモロゲーションの公認書です。

形式名はRVS12。





確かにエンジンは、V6 2995ccとあります。





実はこのV6、ラリー専用のホモロゲモデルではなく、北米で市販されているクルマでした。


同じく気になったクルマ、ライバルのアウディ。

車名は「アウディ クーペクワトロ」とありました。

これって所謂、アウディ クワトロ?

でもあれはGr Bでしたので、Gr Aでホモロゲ取れる程は生産出来ないはずでは?

これも調べてみました。






う〜ん、あのラリー常勝のクワトロでは無さそうです。

ブリスターフェンダーではないですし。

やっぱりこれ、あのクワトロとは別物の様です。

クワトロなので4WDなのですが、エンジンはNA。

アウディのGr Aって、セダンの200クワトロしかないと思ってました。



それにしても、日産最後のWRC優勝が37年前とは、ちょっと寂しいですね。

ラリーの日産復活・・・って、今の日産を見ていると、無理だろうなぁ。
Posted at 2025/04/18 10:05:06 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日産 | 日記
2025年01月15日 イイね!

モータースポーツ専用のZ

モータースポーツ専用のZ2024年の桐生に出展されていました。

初代フェアレディZ S30です。

やっぱりスポーツカーは、華がありますよね。

このZには珍しい事に、モンテバンパーが付いています。





このバンパー、S30がモンテカルロラリー参戦時、4連補助灯を装着する為に作られたものです。

ワークスラリーカーの装備ですが、当時は大森(現ニスモ)でも販売されていたそうです。





エンジンはS20、という事はZ432ですね。

当時日産最強エンジンのS20ですから、それをZに搭載するのも当然かなと。






あれ? このZ、窓にキズがあります。

普通はガラスなので、キズは付かないのですが・・・





えっ! このボンネット、FRPだ。

まさか・・・このクルマって・・・






タダのZ432じゃない! Z432Rだ。

Z432Rは、一応カタログに掲載されている市販車でした。

ですがカタログにはレース、ラリー専用車の為、スペック等は記載は一切なし。

謎多きクルマでした。

そんな特殊用途車両なので、こんな逸話が・・・

購入時にサーキットライセンスの提示を求められるとか・・

車両登録をしない(ナンバーを付けない)前提で販売とか・・

そんな訳で、Z432Rはほぼ現存車両がない、幻のクルマと言われていたのです。


Z432Rですが、30年くらい前、雑誌で現存車しかもナンバー付きがあるらしい? との記事が出まして。

調査の結果、栃木で発見されたというのを覚えています。

とは言え、まさか他にも現存車があったなんて、驚きです。


Z432とZ432Rが、決定的に違うところ。






それが、このエアインテークとコラムカバーのキー穴です。

エアインテークは、レースでは使用しないとの事で、穴が空いていません。

コラム横のキーシリンダー穴も、レース仕様車にハンドルロックは不要なので、ここにも穴が空いていません。

もしレプリカを作るにしても、ここまでは普通やらないでしょう。

と言うか、これは量産時に工程抜きをして作るので、後からは出来ません。

なのでこれは、Z432Rだと思います。






Z432Rは軽量化の為、外板が薄板へ変更しています。

この肉抜き穴は後から加工したものでしょう。

それにしても、凄まじい努力の跡です。






どうやらこのZ、実際にレース参戦していた432Rを、公道仕様にしたクルマの様です。






という事は、このフロントウィンドウの前にある穴、キルスイッチの跡ですね。


S30Zのレースデビューは、このZ432Rでした。

当時最強と言われたC10 GT-Rと同じS20搭載ですから、このZ432Rも快進撃が期待されます。

デビューから3戦目にして、僚友スカイラインGT-Rを破り初優勝。

今後、熟成が進めば、さらなる活躍も出来るでしょう。

ですが3ヶ月後、なぜか別の新たなレーシングZがサーキットに現れます。






ダットサン スポーツ 240Z

当時アメリカ仕様にあったL24を換装した、後に240Zとして市販されるクルマです。

参戦当初はZ432Rと同じボディ。

これがデビューウィンを果たします。

次戦からは、皆さんお馴染みのGノーズを装備した、後の240ZGに代わりました。


それにしても、ほぼ同時期になぜ2台のレーシングZが存在するのでしょうか?

Z432R、開発時からの問題が解決出来ずにデビューしています。

それは、振動。

C10スカイラインでは問題にならなかったのですが、Z432Rではかなり酷いものだったそうです。

ハンドルに伝わる振動で、レース後には手の皮が剥けてしまう程だったとか。

GT-RとZ432R、エンジンはどちらも同じなので、エンジン単体からの振動は同じ。

GT-Rは車体とエンジンを同時開発しているので、振動問題はその開発過程で対策済みだったのでしょう。

ですがZ432Rは、エンジン、車体が別々に開発されたものを合体させたクルマ。

エンジンマウント方法、ボディ形状、重量、固有振動等が原因で、問題が露呈したのかも知れません。

最もそれらも熟成しながら参戦を続ければ、解決の糸口はあったはず。

でもそれをやらずにL24に換装したのは、合併から5年も経っていない、日産、プリンスの確執があったのでは、と思われます。


そもそもZ432Rのレース車開発、追浜ではあまり乗り気ではなかった様です。

彼等には「技術の日産」という自負があります。

いくら合併後とはいえ、村山のエンジンは使いたくない。

グループ7は村山に牛耳られていたので、市販車ベースのハコ車レースまで同じ事をやられる訳にはいかない。

そんな思いもあったのだと思います。


それでもなんとか使って見たものの、振動で問題発生。

それ見たことかと、すぐさま日産製L24に換装。

3ヶ月でレース参戦できたという事は、おそらくZ432Rと240Zは同時開発ですね。


そんないろいろな歴史を背負ったZ432R。

幻と言われるクルマの実車が見られて、良い体験が出来ました。
Posted at 2025/01/15 11:18:09 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日産 | 日記
2022年07月15日 イイね!

初代ブルーバード

初代ブルーバードなんだか、まただいぶ開いてしまいました。

異例な短さで開けた梅雨、そして連日の酷暑。

エアコン使用もままならない赤貧のわが家において、熱帯夜のブログ作成は苦行以外の何物でもなく。

そうして惰眠をむさぼる内に、書かない事が日常化。

このままでは、貴重な試乗体験も忘却の彼方となりかねない。

ここは一念発起、記憶を反芻しつつ、書き記していきます。

ちょうど涼しくもなった事ですし。




先月の名古屋遠征、2つ目の目的地は、岐阜県可児市。

こちらのみん友さんとも、2年振りの再会です。

ここでも貴重なクルマに試乗させて頂きました。






初代ブルーバードです。

それまでは、商用車も乗用車も同じブランドの「ダットサン」。

ですが、よりキャラクターを明確化すべく、乗用車には「ブルーバード」という名を冠し、別の道を歩ませる事になるのです。

(そうはいっても、それ以降もかなり近い関係ではあるのですが)






このモデルは2度のマイナーチェンジを経た、312型。

そのテールライトの形状から「タケノコ」の愛称を持つモデルです。

年式は1961年と、私よりも少し先輩。

近々手放されてしまうそうなので、その前にと試乗させて頂きました。






車内に車体番号のプレートがあり、生産工場が記されています。

そこに刻まれた工場名は、吉原工場。

静岡県富士市にあったのですが、現在は日産の工場ではありません。

完成車工場の後に、日産のAT工場となり、現在はミッションメーカー、ジャトコとなっています。






足元にある、このスイッチ。

この当時のクルマには、少なからずありました。

名称は、ディマー スイッチ。

ヘッドライトのハイロー切替を、レバーではなく足で操作していたんです。






シンプルなインパネ周り。

今とは衝突基準が異なるので、クラッシュパッドなしの鉄板剥き出しです。

そして当時は一般的な装備、コラムシフト。

前進3速とちょっと寂しい感じもしますが、当時はこちらの方がスマートだと言われていました。






エンジンは、1200cc 4気筒 OHV 55ps。

コストに優れたカウンターフロー式です。

さすがにサイドバルブではありません。






それでは、試乗に出発です。

まずはエンジン始動。

インパネ下にあるキーを捻り、セルを回します。

今のクルマと同じです(最近はスターボタンの方が多いかも)

ですがこのブルーバード、セル以外の方法でもエンジン始動出来ます。

それが、このナンバープレート上にある穴。

ここからクランク棒を入れて、手動でエンジンを回せば始動出来ます。

このクランク棒の穴、なんだか旧日産のマークみたいですね。



アクセル、クラッチのべダル類は、ちょっと重め。

これは、すぐに慣れます。

ちょっと困惑したのは、ステアリング。

ヒューマンパワーステアリングなのは重々承知していたのですが、大径ステアリングとスローなギアレシオには、ちょっと面食らいました。

交差点を曲がる時には、かなり多めのハンドル操作を要します。

ちょっと忙しいかも?と思えど、これもすぐに慣れました。






走り出して、気付いた事。

シフトチェンジ時に、一切の引っ掛かりがありません。

旧いクルマはとかく、シンクロ劣化によるギヤ鳴りや引っ掛かりは、つきもの。

でも、このブルーバードにはありません。

最近ミッションオーバーホールをしたという訳でも、ないようですし。

という事はこのミッション、かなりシンクロ容量が大きいのかも。

初代ブルーバードと言えば、日本初のフルシンクロミッション。

グリルにはエンブレムが、誇らしげに光っています。

なにぶん日本初の技術なのだからと、とにかく良いものを。

そんな気概が現れたミッションなのかもしれません。






もう一つ気になった事。

タイヤは轍を拾って小刻みにブレている様なんですが、それがハンドルに伝わってきません。

路面の状況が、ハンドルからは分かりにくいのです。

そう言えばこの時代、ステアリングギアはボールナット式が主流。

この機構はギヤ比を大きくして操舵力を小さくし、また路面からのキックバックを伝えにくい特徴があります。

このキックバックを伝えない、昭和30年代当時は非常に大事な意味を持っていたのです。

当時は国道とは言っても、未舗装が一般的で穴ぼこだらけ。

そんな道を現代の様なラック&ピニオン車で走ると、強烈なキックバックに襲われ、直進もままならない状況になりかねません。

そこで当時はボールナット式を使って、ハンドルが取られにくくしていました。






このクルマ、アンテナは左前のフェンダーに収納されています。

ラジオを聴こうとアンテナ先端を掴んで引っ張っても、アンテナは出て来ません。






実はアンテナ、ロックがされているのです。

根元のスリットにキーを差し込むと、ピョコっと出て来ます。

これは当時、アンテナを引き出されては折られる、そんなイタズラが横行していたそうで。

それを予防する為に、ロックが掛かっているのだそうです。



初代ブルーバード、試乗後の感想は「普通のクルマ」でした。

街中では必要にして十分なパワー。

それに驚かされた、強力なフルシンクロ。

3速までしかないミッションとか、エアコンがなくて暑いとか、言い出せばキリががありませんが、60年以上前のクルマなのに、普通に乗れます。

一般道だったら300km離れた群馬まで帰れるかも、そんな気もしました。

ブルーバードにおける「技術の日産」と言えば、やはり510型。

それ以前のブルーバードはまだ過渡モデルなのかな、そんな印象でした。

いやいやブルーバード、初代から「技術の日産」してましたね。

そういった技術で築き上げて来たのが、ビフォーゴーンの日産自動車。

あれから20年余り・・・。

もう戻れる事は、ないんでしょうね。

旧い日産車と接して、なんだか寂しくなってしまいました。
Posted at 2022/07/15 10:41:58 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日産 | 日記
2021年10月22日 イイね!

R380に挑む 幻のフェアレディ

R380に挑む 幻のフェアレディ日産 R380。

1960年代、モータースポーツ黎明期に誕生した、グループ6のレーシングカーです。

その後は、怪鳥R381、6L V12のR382へと進化した事で、日産レーシングカーの礎とも言えるでしょう。

ですがこのクルマ、最初から日産車だったのではありません。

R380が初参戦したのは、1966年 第3回日本グランプリ。

その時の車名は、プリンス R380だったのです。

日産とプリンスが合併したのは、その3か月後の事でした。


この第3回日本グランプリ、日産も打倒R380を目論み、このマシンで参戦準備を進めていました。






日産 A680X


当時のデザイントレンドだった、ロングノーズ&ショートデッキ。

フェアレディZとの近似性も感じられますが、Zの誕生はこの2年後。

それどころかフェアレディの2000cc SR311すら、まだ発売されていません。

そのベースは、日産とヤマハが共同開発したスポーツカー、通称 日産2000GT(A550X)だと言われています。

車体構成は、フェアレディ(SP311)同様のフレーム式。

それにFRPボディを架装しています。






注目のエンジンは、このB680X。

当時最新だったL20をベースに、ヤマハがDOHC化。

2バルブなれど、ツインプラグ仕様となっていました。

パワーは190psと、同じ直6 2000cc 4バルブのR380に肉薄。

十分勝機がうかがえるパフォーマンスを有していたのです。

そうして開発も着々と進んでいた頃、予想だにもしないニュースが飛び込んできたのでした。


1966年8月 プリンス自動車と日産の合併


ここで大きな問題が発生します。

次回の第4回日本グランプリ、日産にはA680XとR380の2台のマシンが存在する事になります。

果たして、2台でエントリーするべきなのだろうか?

ここは勝てる可能性のある1台に、資源を集約させるべきではないか?

検討の結果、この様な判断が下されたのです。






R380を日産ブランドに変更し、II型へ進化させる


この決定を受け、A680Xは開発中止。

一部関係者のみで秘密裏に開発されていたA680Xですが、日産社内で公開される事もなく、その後廃却処分されてしまいました。

ここまで完成していたA680Xを、このまま葬ってしまうのは、あまりに忍びない。

そこで第3回日本グランプリ参戦用に、このマシンが仕立てられたのです。






フェアレディ S


参戦エントリー時の車両形式名は、SP311。

しかしどう見ても、1600cc OHVのマシンとは到底思えません。

エントリーが市販車ベースのGTクラスではなく、プロトレーシングのGPクラスからの参戦なのですから、その高性能ぶりは想像に難くありません。

搭載されたエンジンは、B680X。

開発中止の憂き目にあったA680Xのユニットを、ここに押し込んでいます。

あのフロントフェンダーにある、エアアウトレット。

幻となったA680Xの残像にも思えてきます。

このフェアレディ S、開発中止が決定しているので、勝っても負けてもこれが最後のレースです。



そして迎えた、1966年5月2日、第3回日本グランプリの開幕です。

予選は生憎の雨模様。

ウェット路面では、パワー差の影響は小さくなります。

それにミッドシップのR380は、挙動がナーバスだったのかもしれません。

予選の結果です。






1位 フェアレディ S

2位 トヨタ 2000GT

3位 プリンス R380


ポールポジションは、フェアレディ S。

2位は、これがデビュー戦となった、市販前のトヨタ 2000GT。

純レーシングカー、プリンス R380、ポルシェ906を抑えて、FRの2台がフロントローに並びます。






5月3日の決勝は、快晴。

ドライとなった富士スピードウェイで、R380、ポルシェ906は生き返ります。

ポールからスタートしたフェアレディ S。

1コーナーまでに、R380、ポルシェ908の後塵を拝する事に。

完調とは言えない中で走行を続け、結局、レース中盤にエンジントラブルでリタイヤ。

そして最後のレースを終えたのでした。


日産とヤマハのスポーツカー共同開発。

日産とプリンスの合併劇。

数々の歴史に翻弄された末に誕生した、フェアレディ S。

歴史に「〜たら 〜れば」はありませんが、この時期の日産には色々なストーリーがありますね。
Posted at 2021/10/22 11:54:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日産 | 日記
2021年02月12日 イイね!

マンハッタンカラー

マンハッタンカラー歴代フェアレディZの中で、私的にはZ32と双璧をなしているモデルです。






S130


その境遇は、なかなか厳しいものがありました。

先代は名車の地位を確立した初代、S30。

大ヒット作の後に来る2代目ですから、そのプレッシャーたるや相当なものだった事でしょう。

結局は、初代に引っ張られる形でのキープコンセプト。

新鮮味に欠けていると言うのが、偽らざる印象です。

それに生まれた時代も最悪でした。

デビューしたのが1978年、まだ排ガス規制の暗黒時代真っ只中。

フェアレディZとて、例外ではありません。

むしろスポーツカーだというだけで、更に風当たりは強かったでしょう。

高性能を声高にうたう事は出来ず。

エンジンも他の日産車と同じ、L20とL28を甘んじて受け入れるしかありませんでした。

それなのに、なぜ私はこのモデルに魅了されるのか。

それはクルマに興味を持ち始めた小学生の頃に誕生した、数少ないスポーツカーだからです。

例えエンジンが、特別なものでなかったとしても。

その低く流れる様なデザイン。

日本車で唯一の2シーター。

そんなS130は、私の眼には華々しく映っていたのです。

確かに動力性能では、排ガス規制前のS30に劣るかもしれません。

ですがS130は、S30に比べてよりワイドになり、ノーズも240ZGの様にロング化。

流麗さを増したデザインに、私はすっかり魅了されました。

更にS130には、それまでなかったTバールーフと、これが新採用されていたのです。






マンハッタンカラー


シルバー&ブラックによる、2トーンカラーです。

この様な塗り分けは、過去に例がなかったと思います。

それにシルバー&ブラックという組み合わせも、このS130が初めてだったかと。

この2色がこんなに合うものなのかと、この時、思わされました。

このマンハッタンカラー、元々は限定車のカラーだったそうです。

それが好評を博し、MMC時にTバールーフと共にカタログモデルとして採用されました。

このマンハッタンカラーには、いくつかのパターンがあります。





これは一般的な配色で、シルバー&ブラックです。





これはシルバー&ブルーです。



また、後期に追加されたモデルには、こうのもありました。





通称、逆マンハッタン。

シルバー&ブラックの配色が逆です。

最後の最後に追加されたターボに、このパターンがありました。

そういえばこのターボも、なかなかZには搭載されませんでしたねぇ。

搭載されたのは、日本初のターボ、L20ET。

当初ターボは「ハイパワー化など、けしからん!」とされて、なかなか認可されませんでした。

そこを「ターボ化する事で、2800ccのパワーを小さく燃費が良い(はず)の2000ccで出せるので省資源」と論法を変更。

なんとか430型セドリック、グロリアで、初認可をされました。

その後、スカイライン、ローレルと順次ターボ化。

フェアレディZは、スポーツカーだからと言う事か、最後の搭載となりました。

さて、話をマンハッタンカラーに戻りまして。

海外に目を向けると、更に別パターンがあります。





ゴールド&ブラックです。

これは生誕10周年の限定車、DATSUN 280ZX 10th ANIVERSARYで採用されたものです。

なんともゴージャスなゴールドですね。

さすがはアメリカンです。

この10th アニバーサリー、エンジンが日本未搭載のL28ETなんです。

パワーは180hp (SAE)と。S130最強。

2000ccターボでも大変だったのですから、2800ccターボなんて、夢のまた夢ですね。





この2トーンカラー、人気はあったと思うのですが、なぜか次モデルのZ31では採用されませんでした。

ブラック&シルバー、あるにはあったのですが、なんか「これじゃない」感があります。

なぜなんでしょうね? Z31で継承しても似合うと思うのですが。

Z31もS130程ではないですが、キープコンセプトでしたからね。



このマンハッタンカラー、S130の印象が強烈です。

ですがもう1台(厳密には2車種)、採用されたモデルがあります。





ガゼール RS(S110)


シルビアと兄弟車になっていた、初代モデルです。

後期追加されたFJエンジン搭載車、RSに採用されていました。

パターンはボンネットが黒い、逆マンハッタンですね。

このモデルもアメリカには「200SX」として、人気を博していました。

その影響もあっての、マンハッタンカラー採用だったのでしょうかね。

カッコいい事に相違ないのですが、S130の様な「コレだ!」感が、少々弱い印象があります。

むしろ、これだったら、単色の方が似合っているのかなぁ。

このクルマのロングノーズ、ショートデッキではありますが、S130ほど流麗という感じではありません。

それとも、逆マンハッタンだから? 

やっぱりマンハッタンカラーは、S130 Zで決まりですね。





昨年、アメリカでコンセプトモデルが発表されました。

そのカラーは、イエロー。

アメリカはMr Kこと、アメリカ日産初代社長、片山豊さんのイメージなんでしょうか。

元々アメリカには、スポーツカー=イエローのイメージがあるそうなので、その影響かもしれません。

もし次期Zがあるのならば、是非マンハッタンカラーもラインナップに加えて頂きたいですね。

きっと似合うと思いますよ。


Posted at 2021/02/12 09:02:22 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日産 | 日記

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「@中島乗り さん UDの意味、時代と共に変わりますね。私が学生の頃、先生からは「ユニフロー ディーゼル」の略だと教わりました。」
何シテル?   05/30 12:53
クルマ、バイク、自転車と、自分でコントロール出来る乗り物が好きです。 それも日本製が好きです。 (自分で買えそうもないものには、興味が持てなくて) ...

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