
日々ニュースを見ていると、お金が無くて万引き、タクシー代の踏み倒し、ガソリン代のつけ払い踏み倒しなど重大犯罪ではないにしろ高齢者が生活に行き詰って起こした事件のニュースが後を絶ちません。
加えて自動車運転の誤操作による事故。自爆や高齢者が犠牲になるのであればまだしも、若者や子供が犠牲になるのは全く以て受け入れられません。
人生の終わりに差し掛かった時期にこうした不本意な状況を迎える高齢者は
恐らく若いとき、そして50歳代になっていよいよこれから不本意とはいえ自分が高齢者になり、体力も財力も低下するという事に対して真剣に向き合ってこなかった人が大半だと思います。いわば過信です。
若い命を奪う重大な事故を起こして
、こんな優秀な頭脳を以てしても、年老いた自分を客観的に捉えることが出来ず、自信過剰故に事故を起こしたのだと思います。
都内に住み、車を運転しなくても大した不自由もなさそうなのに自尊心に負けて運転の自粛が出来なかった。
確かに車は便利です。しかし一方で気楽に使えない危うさを持っています。だって生身の人間が歩いている町中に1.5tの鉄の塊が、共用の平面内を移動するのですから。
貴方の働く会社がまともであれば、その職場では非常に厳しくルールが定められ、教育され、そして仕組み上こうした危険物と生身の人間が容易に接触する機会が無い工夫がされているはずです。
ところが道路では人と自転車と車が交差点や道路で容易に接触する状態であり、自転車や歩行する人については、教育すら義務では無いのです。また危険な道具を扱うドライバーも数年に一度、座学を受ければ剥き出しの殺傷力を渡されてまた街に繰り出していきます。
やれる事は「出来るだけ車を使わない事」です。ただそれには覚悟必要です。
車を持つなとは言いません。安易に使うなと言いたいのです。
地方は公共交通が脆弱で、車に頼らざるを得ない?
本当でしょうか? 45年程前 私が高校生だった頃、私の育った田舎町(人口5万)のそれも市街から外れた地域でも通勤・通学の時間帯は一時間に3~4本のバスが出ていて、今とは比べ物にならない程充実していました。公共の交通インフラを弱体化させたのは安易に車に頼った住民たち本人です。
うちの爺さんや母親なんか当時免許も持っていなかった。
だから自転車やバス、時にはリアカー引いて生活したんです。
行動範囲が限られたから、何なら商店も近くに存在した。それが今は車で行きやすい郊外型の大型スーパーに集約されてしまった。
結局は自分で自分の首を絞めただけです。
でも目先の事しか考えていないから若い時車に乗って楽をして、そして将来過疎化する想像もせず、やがて体力や財力が低下してきた時には時すでに遅しです。
従ってまだ軌道修正が効く勤労世代や若者は極力都市部に住い、極力車の使用を控えて居住地区の交通インフラの利用に努めましょう。車を使用するのは持ち運べない様な重く大きな荷物を運ぶ時(歩けない人なども)、大勢で同じ目的地に向かう時、そして交通インフラが無い遠い場所に素早く行く時に良く吟味して利用してください。車は本来人間の能力を大きく超えた不可能を可能にする素晴らしい道具。
車じゃなくても代用可能な事に安易に使ったのが間違いのもと。結局楽したいダメ人間のせいでこうなった。ただ、他人に「賢くなれ」「不便に耐えて先を見通せ」と訴えたり声を大にしても恐らく伝わらないでしょう。その無力感は60年生きてきて痛感します。
情報や教育・文化レベルが何となく国民の総意で高まっていく以外、多くの国民が課題意識を持ち、未来の子供達の為に何か行動を起こすには中々至りません。
私の知る限りこうしたムーブメントが日本で具体的に起きたのは、太平洋戦争後の「反戦・戦争反対」のムーブメントが最大だと思います。国民の多く、大半が「あんな悲惨な戦争は二度と御免だ」と感じ、日本は平和な民主国家を築けたのだと思います。
一方でシリアや南スーダンの様に日々紛争に晒されている地域の住民はそうはならないのがまた不思議です。恐らく敗戦当時の日本よりも遥かに情報が少なく、人々の間で情報共有が出来ていない事が原因ではと思います。そういう意味では情報の遮断や教育の遮断と言うのはリージョナルの独裁者にとって常套手段なのでしょう。ただ情報や教育を遮断すると、経済的に豊かになる力も削いでしまいますから、結果的にその集団は貧困で、その僅かな富を独裁者が独占するので住民の貧困は一層厳しくなります。
こうして国力が低下し、やがて淘汰されるのでしょう。
話が逸れましたが、声を大にして叫んでもそうそうムーブメントは起きないので、地方の過疎化は止まらず、人口は減少し、重すぎる社会保障の負担に耐え切れなくなりますが、社会保障を切ろうとすると選挙で負けてしまう。しかし投票している多くの高齢者はその悪循環が自分達の過去の行いのせいだと気づけませんから、最終的には社会保障制度が削られるのではなく、国が財政破綻して日本円が紙くずになるでしょう。
多くの生活必需品を輸入に依存している日本ではハイパーインフレが発生し、飢え死や熱中症、凍死者が多数でて、高齢者でも動ける人は労働をせざるを得ませんし、動けない本当に脆弱な高齢者や障害者、虚弱な人から多くの犠牲者が出る事でしょう。こうした状況に至ってやっと農業や漁業は見直されます。
何しろ生き物にとって酸素と水は天から落ちてきますが、食べものは自然の恵みだけでは到底足りません。今は海外から格安の食料が輸入されますが、円が紙くずになると国産の食材しか手に入らないわけですから、それまで採算割れしていた国産食料の争奪戦が始まり、小作農家レベルでも採算がとれるようになってきます。それでも貴金属や海外資産等沢山持っている人、これはドル建てでの価値は変わりませんから、円に換算すれば今の金額の何百倍とかになるわけで、それを手放すことで食料を手に入れられます。
困るのは近所の買い物用に揃えた軽自動車と円建て貯金しか持たない人です。軽は海外での需要が弱く、趣味性も低い事から売値がつきません。また使おうにも燃料代がとんでもない事になっていて使えません。借家も追い出され、売る物もなく、農地も持たない人は
もう死ぬか盗人になるしかないですね。
実際太平洋戦争直後の日本はそう言った状況だったのだと思いますし、今回の米騒動もその予兆だと思います。
本当はそこで政府が「大農地改革」を行って、大規模農地に集約して半国有化して運営し、農地を持たない者にも最低限の食料が届くようにすべきでしょう。問題は困っている人と、農地を持っていて困っていない人、どちらの票が多いかです。
可能であれば農業が人気が無く、耕作放棄地が多発している今こそ、農家達を説得して大農地改革を進めるべきと思いますが、今身に迫っていないので恐らく無理でしょう。
そんな訳で未来予測したうえで我が家はどう生き延びるかのプランですが、
①近い将来起きるであろうデフォルトに備え、農地を維持する。(死んだら息子に委ねる)
②存命中にデフォルトになったら、土地を利用して作物作る
③輸入資源に頼っているエネルギーの自家用手段を用意しておく(太陽光/蓄電池/薪)
④冷暖房に頼らない、気候に優れた土地に住む
私の老後の生き方が決まりました。
Posted at 2025/04/19 10:05:36 | |
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