第8話「古い赤い首輪」 
雨上がりの午後。
誠がクロの首元を見ると、赤い首輪から糸が飛び出していた。色も薄くなり、裏側の布が少し擦り切れている。
誠:
「だいぶ古くなったな。新しいの、買おうか」
クロ:
「いらん」
いつもより、短い返事だった。
誠:
「じゃあ、ここだけ縫ってもいいか?」
クロはしばらく黙り、それから誠の膝へ乗った。
外した首輪を裏返すと、不ぞろいな縫い目が並んでいた。
誠:
「前にも、直したんだな」
クロ:
「……あいつがな」
誠は針を持ったまま、クロを見る。
クロ:
「縫うの、へたくそだった」
——昔の、小さな家。
まだ体の小さかったクロが、玄関のタオルの上に座っている。
雨に濡れていたクロを拾った老人が、赤い布を切って首輪を作っていた。指には、小さな絆創膏が貼られている。
老人:
「黒いから、クロでいいか」
幼いクロ:
「もう少し考えろよ」
老人には、「ニャー」としか聞こえない。
老人:
「そうか。気に入ったか」
クロ:
「聞いてないな、この人」
老人は笑って、首輪をそっと着ける。
老人:
「これなら、暗いところでも見つけられる。
お前、すぐ隅っこに入るからな」
不ぞろいな首輪は、少しだけ曲がっていた。
けれどクロは、その夜から、老人の椅子の隣で眠るようになった。
——現在。
クロ:
「文句を言ったつもりだったんだがな」
誠:
「うれしそうに聞こえたんだろうな」
クロは窓の方を向く。
「……悪い気は、しなかった」
——老人とクロの暮らし。
朝、老人が椅子から立つと、クロが先に玄関へ走る。
老人:
「まだ早い。今日は病院から帰ってからだ」
クロ:
「昨日も、そう言ったぞ」
老人:
「はいはい。留守番、頼むな」
帰宅すると、老人は必ず玄関で呼んだ。
「クロ。ただいま」
クロはわざと、すぐには出ていかない。
けれど老人が靴を脱ぐころには、足元にいた。
老人:
「おや。待っててくれたのか」
クロ:
「腹が減っただけだ」
老人は、首輪の赤い布を指で整える。
ある日、老人は山の写真をクロに見せた。
老人:
「元気になったら、ここへ行こう。
車で近くまで行けるんだ」
クロが写真の上へ座る。
老人:
「景色が見えないよ」
クロ:
「俺も連れていくなら、許す」
老人は笑った。
「一緒に行こうな、クロ」
——雨の朝。
老人は、いつもよりゆっくり支度をしていた。
クロが玄関で待っていると、老人はしゃがみ、首元をなでる。
老人:
「少し、病院に泊まってくる。
いい子で待っててな」
老人が立とうとしたとき、クロの爪が袖に引っかかった。
老人はもう一度しゃがみ、丁寧に外した。
「帰ってきたら、散歩に行こう」
玄関の戸が閉まる。
その晩、クロは足音がするたび、戸の前へ行った。
次の朝も、その次の朝も。
近所の人がごはんを置いてくれた。けれど、ごはんを食べ終えると、クロはまた玄関へ戻った。
やがて老人の娘が来た。
椅子の前に座り、声を押し殺して泣いていた。
クロはその膝へ乗る。
赤い首輪を見た娘が、クロを抱きしめた。
「これ、お父さんが縫ったんだね……」
——現在。
誠の手が止まっている。
クロ:
「その人が泣いてるのを見て、分かった。
……でも、戸が開くと、まだ見に行ってた」
クロは、誠の手元にある首輪を見つめる。
「最後の日、袖に爪が引っかかったんだ。
あのとき、離さなければ……って」
誠は針を布へ置く。
誠:
「離したから帰ってこなかったんじゃないよ」
クロはうつむく。
誠:
「最後まで、爪を外してくれたんだな。
お前が痛くないように」
しばらく、二人とも黙っていた。
クロの前足が、赤い首輪に触れた。
誠が縫い終えた首輪を、クロの前へ置く。
古い縫い目は、そのまま残してある。
ほつれたところにだけ、新しい糸が加わっていた。
クロ:
「……あいつの糸、取らなかったんだな」
誠:
「まだ、ちゃんとつながってるから」
クロは首を伸ばし、誠に着けてもらう。
少し曲がった赤い首輪が、黒い長毛の間へ戻った。
誠:
「山の写真、どんな景色だった?」
クロ:
「遠くまで、山が重なってた。
……あいつ、ずっと見てた」
誠:
「探してみようか。その場所」
クロが顔を上げる。
誠:
「すぐに見つからなくても、何度か行けばいい。
お前となら、途中も楽しいし」
クロは返事をせず、誠の手へ額を押しつけた。
そのまま、少し長く動かなかった。
やがて誠が買い物に出かけ、帰ってくる。
玄関の戸を開けると、クロが足元にいた。
誠:
「クロ。ただいま」
クロ:
「……遅い」
誠:
「待っててくれたのか?」
クロ:
「腹が減っただけだ」
誠は笑い、靴を脱ぐ。
クロも一緒に、部屋へ歩いていった。
古い縫い目は、残したまま。
その先を、新しい糸でつないでいく。
第7話「クロが震えた夜」 





第6話 娘が帰ってきた日 
誠は家族を居間に集め、クロの前にテレビのリモコンを置く。まるで記者会見のマイクだ。
誠:
「今日は、重大な発表があります」
妻:
「先に言っとくけど、もうテントは買わないよ」
誠:
「買い物の話じゃない。この猫……しゃべるんだ」
娘:
「はいはい。クロちゃん、こんにちは」
クロ:
「司会が長い。おやつ、まだか?」
誠:
「今、大事な話をしてるだろ!」
妻と娘が顔を見合わせる。
娘:
「……猫に怒らないでよ」
誠:
「証明する。クロ、好きな食べ物は?」
〈誠に聞こえる声〉
クロ:
「おやつ。あと、お前が隠した予備のおやつ」
〈家族に聞こえる声〉
クロ:
「ニャー」
娘:
「かわいい〜!」
誠:
「いや、今、隠した場所まで知ってるって……」
妻:
「あなたも冷蔵庫の前で、それくらい鳴いてるよ。
『なんかない?』って」
クロ:
「似た者同士だな」
誠:
「お前までそっちにつくな!」
娘:
「そっちって、クロ何も言ってないけど?」
娘がクロをなでる。
娘:
「クロちゃん、うちのお父さん、どう?」
クロ:
「話は長い。写真は下手。パンは焦がす」
誠:
「……優しい飼い主だって」
クロ:
「一文字も合ってないぞ」
娘:
「じゃあ、私のことは?」
クロ:
「おやつをくれる人。大変、信頼している」
誠:
「もう少し実家に帰ってきてほしいって」
クロ:
「それ、お前の感想だろ」
妻:
「その通訳、お父さんに都合よくない?」
誠:
「じゃあ、俺しか知らない秘密を言ってみろ」
クロ:
「昨日、冷蔵庫のプリンを食った」
誠:
「それは言うな!」
妻:
「……私のプリン?」
誠が固まる。
クロ:
「猫のせいにしようとしてたな」
誠:
「してない!」
娘:
「お父さん、誰と取り調べしてるの?」
妻は静かに立ち上がる。
妻:
「しゃべるかどうかは後でいい。
まず、プリンを買ってきて」
クロ:
「会見、終了だな」
娘が笑いながら、クロの顔をのぞき込む。
娘:
「でも、お父さんと暮らすの、楽しい?」
クロは誠をちらりと見る。
クロ:
「……まあな。退屈はしない。
こいつ、最近よく笑うし」
誠は少し照れる。
誠:
「……楽しいって」
クロ:
「そこは、ちゃんと訳すんだな」
娘:
「そっか。よかった」
クロは立ち上がり、誠の膝へ乗る。
クロ:
「で、会見のギャラは?」
誠:
「おやつな。分かったよ」
妻:
「あなた、その猫の言葉しか聞いてないでしょ」
妻が誠を見つめる。
「プリンは?」
誠:
「……今、買ってきます」
猫の言葉は聞こえる。
妻の話は、たまに聞こえない。
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