1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」の地に行きました。
この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。
「徳川家康」の率いる東軍7万4千が「石田三成」の率いる西軍8万2千に勝ちました。
数で不利なはずの東軍が一体なぜそんなに早く勝利することができたのしょうか?
「関ヶ原の戦い」が起こったのは、1598年(慶長3年)に突如訪れた「豊臣秀吉」の死去から2年後のこと。
天下人の死は、野心や忠誠心など、その周りにいた様々な人の心を揺さぶりました。
このように心を揺さぶったのには理由があります。これは豊臣秀吉が死去する前のお話です。
関ヶ原の戦いの発端は、実はこの戦いが始まるずっと前から起こっていました
豊臣秀吉(脳内イメージ)
天下統一を果たし関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉は石高を持つ、野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖れ、関白になったのち、豊臣秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。
これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。
これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたが、このグループ分けが不満を生み、五大老と五奉行が豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。
五大老と五奉行の役割は分かりやすく言うと五大老は国務大臣で、五奉行は官僚のトップといった感じです。
そして五奉行は、豊臣政権の豊臣政権を支え、治安の維持を目指す立場を与えられていました。
豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。
遺言状は主に五大老に宛てた物で、こう記されていました。
「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」
これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。
さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。
つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底で信用していなかったということです。
このように豊臣秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。
その訳は、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」がまだ6歳であったこと。
もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。
しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。
徳川家康(脳内イメージ)
徳川家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を多くしたり少なくしたりするのに関与したりと、やりたい放題となりました。
やりたい放題の徳川家康に「ちょっと待った!」をかけたのが「石田三成」でした。
「豊臣秀頼を立てるべきだ」と徳川家康に物申したのです。
石田三成が豊臣秀吉に忠義を示したのは、石田三成の出世にその背景があります。
滋賀県米原市の「大原観音寺」には豊臣秀吉がまだ「羽柴秀吉」だった頃の石田三成との出会いが逸話として伝えられています。
豊臣秀吉が鷹狩りをする際に立ち寄った寺が大原観音寺でした。
1574年(天正2年)、佐吉という名前でこの寺に仕えていた石田三成にお茶をお願いしたそうです。
《石田三成が出したお茶》
1杯目は、大茶碗にたっぷりの、少し温かいくらいのお茶を。
2杯目は、1杯目よりも少し熱く、量を半分くらいにして出しました。
3杯目は、お菓子と小ぶりな茶碗に抹茶を注ぎ、茶法の通りに飲むことを勧めたそうです。
この繊細な心配りに、才能を感じ、豊臣秀吉は石田三成を傍に置くことを決意。
このエピソードは「三献の茶」として大原観音寺に伝えられています。
石田三成の才能を高く評価していた豊臣秀吉は、若くて武将としての経験のなかった、仕官して間もない石田三成に三百石の高禄を与えています。
高禄はいわゆるお給料のことで一石は約10万円。
三百石ということは3,000万円をわずか18歳で与えられたということになります。
そして1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。
この戦いでは「織田信長」の死後、家臣であった「羽柴秀吉」と、同じく家臣であった「柴田勝家」(しばたかついえ)の権力争いが激しく衝突し「この戦いで次の天下は決まる!」というくらい重要な戦いでした。
この戦いでは豊臣秀吉の配下であった「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「加藤清正」、福島正則、「脇坂安治」(わきさかやすはる)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「糟屋武則」(かすやたけのり)が大活躍しました。
彼らは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる超エリートの武将達です。
賤ヶ岳の七本槍
そんな中、石田三成の戦いぶりはそれほどでもなかったそうで石田三成は「戦下手」だったのではないか言われています。
それでも石田三成は上司である豊臣秀吉に贔屓にされていたので周りにはあまり好かれていなかったようです。
これは、石田三成への妬み、恨み、不満などが重なったのが原因だと言われています。
さらに豊臣秀吉が命じた2度の「朝鮮出兵」で、石田三成は朝鮮で戦っている武将と、日本の連絡役としての役割を担っていた際に朝鮮で戦っている武将達からは不満の声が勃発。
石田三成はそれを素直に豊臣秀吉に伝え豊臣秀吉は激怒。
戦略の変更を石田三成に訴えた武将達は領地を減らされるなどの処罰を受けました。
これが原因で石田三成を良く思わない人が増えたのは間違いないでしょう。
さらに豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年に豊臣秀吉は亡くなったが石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。
これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。
それらが重なり1599年、不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。
その時、仲介役となったのが徳川家康です。
これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」へ隠居にて隠居することになります。
石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は爆上がりしました。
このように家康人気が爆上がり状態で今が運気だと徳川家康が石田三成の暗殺未遂事件の黒幕ではないかという説が浮上。
それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。
このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。
石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。
これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。
徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。
石田三成以外にも、徳川家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将達がいました。
会津の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)
とその家老「直江兼続」(なおえかねつぐ)
そこで、徳川家康に1通の手紙を渡そうということになります。手紙はこのような内容です。
「最近の貴方の行ないは目に余ります。秀頼様(豊臣秀吉のあとを継ぐ予定だったご子息)に何か言うことはないですか?」
これが関ヶ原の戦いを勃発させることとなったと言われている「直江状」です。
この1通の手紙が、徳川家康を怒らせてしまいました。
徳川家康は、石田三成や上杉景勝よりもはるか上の位です。
徳川家康側からすると「目上の者に向かって、その無礼な手紙は何だ!」ということになります。
まぁそれも徳川家康に戦の切っ掛けを作ったということで狸爺がしてやったりと思っていたかもしれません。
徳川家康は上杉景勝に詰問状を送り返し、大坂城への上洛を促すが上杉景勝はそれを一蹴!
これにより、徳川家康は「会津征伐」を決意し大坂城から会津へと出向きます。
この征伐では、徳川家康との力量差が明らかとなりました。
なんと、会津征伐を行なうために天皇の許可を取ったのです。
つまり、国の方針で会津征伐を行なったということ。
これは、「自分は目上であるぞ!」という周りへの見せしめでもあったのです。
用意周到に戦の準備を進める家康は石田三成に不満を持つ武将に寝返るように策略を企てます。
着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。
しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。
このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。
しかし、毛利輝元は「関ヶ原の戦い」で、指揮も戦いへの参加もしていません。しかも、さっさと降参して大坂城を東軍に引き渡してしまいます。
このようなことから、毛利輝元は「東軍の内通者だったのではないか?」という説もあります。
表向きの西軍の総大将は毛利輝元ですが、実際に指揮命令を行なっていたのは石田三成です。
やはりそれが原因なのか、関ヶ原の戦いのさなか、リタイアする者や裏切り者が続々と現れました。
まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。
「島左近」(しまさこん)
さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。
これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。
このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)
裏切ったのは彼だけではありません。
その他にも「藤堂高虎」(とうどうたかとら)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。
さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。
このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。
その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出したが東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着した東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。
関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。
石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。
一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。
1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。
以上、実際にこの地に起こった出来事に思いを馳せて関ケ原の古戦場を周りたいと思います。
徳川家康陣は建物が立ち並び痕跡が殆ど残っていないので石田三成陣跡を探索します。
島左近ののぼり旗が見えます。
石田三成本陣を目指し土手を登って行きます。
本陣に到着しました。
見晴らしがよいのでここなら戦況を見ることが出来そうです。
説明板があり、ボタンを押すと音声ガイドが流れます。
石田三成の陣地だけあって石田三成側の視点で音声ガイドが流れているような気がします。
天下分け目の大合戦
もし石田三成が勝利していたら日本はどうなっただろうと思いを馳せる。
どう考えても265年も続いた徳川幕府のように対内的には全国を統治し,対外的には日本を代表する政府として機能はしなかっただろうなと思いました。
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2021/09/14 18:43:38