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2021年09月14日 イイね!

関ケ原の古戦場跡に行きました

関ケ原の古戦場跡に行きました
1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」の地に行きました。
この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。
「徳川家康」の率いる東軍7万4千が「石田三成」の率いる西軍8万2千に勝ちました。
数で不利なはずの東軍が一体なぜそんなに早く勝利することができたのしょうか?
「関ヶ原の戦い」が起こったのは、1598年(慶長3年)に突如訪れた「豊臣秀吉」の死去から2年後のこと。
天下人の死は、野心や忠誠心など、その周りにいた様々な人の心を揺さぶりました。
このように心を揺さぶったのには理由があります。これは豊臣秀吉が死去する前のお話です。
関ヶ原の戦いの発端は、実はこの戦いが始まるずっと前から起こっていました



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豊臣秀吉(脳内イメージ)


天下統一を果たし関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉は石高を持つ、野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖れ、関白になったのち、豊臣秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。

これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。

これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたが、このグループ分けが不満を生み、五大老と五奉行が豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。


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五大老と五奉行の役割は分かりやすく言うと五大老は国務大臣で、五奉行は官僚のトップといった感じです。
そして五奉行は、豊臣政権の豊臣政権を支え、治安の維持を目指す立場を与えられていました。
豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。
遺言状は主に五大老に宛てた物で、こう記されていました。

「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」

これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。
さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。
つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底で信用していなかったということです。
このように豊臣秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。
その訳は、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」がまだ6歳であったこと。
もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。
しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。


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徳川家康(脳内イメージ)



徳川家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を多くしたり少なくしたりするのに関与したりと、やりたい放題となりました。
やりたい放題の徳川家康に「ちょっと待った!」をかけたのが「石田三成」でした。

「豊臣秀頼を立てるべきだ」と徳川家康に物申したのです。

石田三成が豊臣秀吉に忠義を示したのは、石田三成の出世にその背景があります。
滋賀県米原市の「大原観音寺」には豊臣秀吉がまだ「羽柴秀吉」だった頃の石田三成との出会いが逸話として伝えられています。
豊臣秀吉が鷹狩りをする際に立ち寄った寺が大原観音寺でした。
1574年(天正2年)、佐吉という名前でこの寺に仕えていた石田三成にお茶をお願いしたそうです。

《石田三成が出したお茶》
1杯目は、大茶碗にたっぷりの、少し温かいくらいのお茶を。
2杯目は、1杯目よりも少し熱く、量を半分くらいにして出しました。
3杯目は、お菓子と小ぶりな茶碗に抹茶を注ぎ、茶法の通りに飲むことを勧めたそうです。

この繊細な心配りに、才能を感じ、豊臣秀吉は石田三成を傍に置くことを決意。
このエピソードは「三献の茶」として大原観音寺に伝えられています。

石田三成の才能を高く評価していた豊臣秀吉は、若くて武将としての経験のなかった、仕官して間もない石田三成に三百石の高禄を与えています。

高禄はいわゆるお給料のことで一石は約10万円。
三百石ということは3,000万円をわずか18歳で与えられたということになります。

そして1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。
この戦いでは「織田信長」の死後、家臣であった「羽柴秀吉」と、同じく家臣であった「柴田勝家」(しばたかついえ)の権力争いが激しく衝突し「この戦いで次の天下は決まる!」というくらい重要な戦いでした。

この戦いでは豊臣秀吉の配下であった「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「加藤清正」、福島正則、「脇坂安治」(わきさかやすはる)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「糟屋武則」(かすやたけのり)が大活躍しました。
彼らは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる超エリートの武将達です。


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賤ヶ岳の七本槍



そんな中、石田三成の戦いぶりはそれほどでもなかったそうで石田三成は「戦下手」だったのではないか言われています。

それでも石田三成は上司である豊臣秀吉に贔屓にされていたので周りにはあまり好かれていなかったようです。
これは、石田三成への妬み、恨み、不満などが重なったのが原因だと言われています。

さらに豊臣秀吉が命じた2度の「朝鮮出兵」で、石田三成は朝鮮で戦っている武将と、日本の連絡役としての役割を担っていた際に朝鮮で戦っている武将達からは不満の声が勃発。
石田三成はそれを素直に豊臣秀吉に伝え豊臣秀吉は激怒。
戦略の変更を石田三成に訴えた武将達は領地を減らされるなどの処罰を受けました。
これが原因で石田三成を良く思わない人が増えたのは間違いないでしょう。

さらに豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年に豊臣秀吉は亡くなったが石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。
これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。
それらが重なり1599年、不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。
その時、仲介役となったのが徳川家康です。
これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」へ隠居にて隠居することになります。
石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は爆上がりしました。


このように家康人気が爆上がり状態で今が運気だと徳川家康が石田三成の暗殺未遂事件の黒幕ではないかという説が浮上。
それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。

このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。
石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。
これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。

徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。

石田三成以外にも、徳川家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将達がいました。



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会津の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)


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とその家老「直江兼続」(なおえかねつぐ)


そこで、徳川家康に1通の手紙を渡そうということになります。手紙はこのような内容です。

「最近の貴方の行ないは目に余ります。秀頼様(豊臣秀吉のあとを継ぐ予定だったご子息)に何か言うことはないですか?」

これが関ヶ原の戦いを勃発させることとなったと言われている「直江状」です。



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この1通の手紙が、徳川家康を怒らせてしまいました。
徳川家康は、石田三成や上杉景勝よりもはるか上の位です。
徳川家康側からすると「目上の者に向かって、その無礼な手紙は何だ!」ということになります。

まぁそれも徳川家康に戦の切っ掛けを作ったということで狸爺がしてやったりと思っていたかもしれません。

徳川家康は上杉景勝に詰問状を送り返し、大坂城への上洛を促すが上杉景勝はそれを一蹴!
これにより、徳川家康は「会津征伐」を決意し大坂城から会津へと出向きます。

この征伐では、徳川家康との力量差が明らかとなりました。
なんと、会津征伐を行なうために天皇の許可を取ったのです。
つまり、国の方針で会津征伐を行なったということ。
これは、「自分は目上であるぞ!」という周りへの見せしめでもあったのです。

用意周到に戦の準備を進める家康は石田三成に不満を持つ武将に寝返るように策略を企てます。

着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。
しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。
このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。

しかし、毛利輝元は「関ヶ原の戦い」で、指揮も戦いへの参加もしていません。しかも、さっさと降参して大坂城を東軍に引き渡してしまいます。
このようなことから、毛利輝元は「東軍の内通者だったのではないか?」という説もあります。

表向きの西軍の総大将は毛利輝元ですが、実際に指揮命令を行なっていたのは石田三成です。
やはりそれが原因なのか、関ヶ原の戦いのさなか、リタイアする者や裏切り者が続々と現れました。

まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。



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「島左近」(しまさこん)


さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。

これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。
このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。

「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。



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「小早川秀秋」(こばやかわひであき)


裏切ったのは彼だけではありません。
その他にも「藤堂高虎」(とうどうたかとら)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。
さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。
このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。

その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出したが東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着した東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。
関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。
石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。

一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。
1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。




以上、実際にこの地に起こった出来事に思いを馳せて関ケ原の古戦場を周りたいと思います。


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徳川家康陣は建物が立ち並び痕跡が殆ど残っていないので石田三成陣跡を探索します。


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島左近ののぼり旗が見えます。


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石田三成本陣を目指し土手を登って行きます。


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本陣に到着しました。
見晴らしがよいのでここなら戦況を見ることが出来そうです。


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説明板があり、ボタンを押すと音声ガイドが流れます。


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石田三成の陣地だけあって石田三成側の視点で音声ガイドが流れているような気がします。


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天下分け目の大合戦

もし石田三成が勝利していたら日本はどうなっただろうと思いを馳せる。

どう考えても265年も続いた徳川幕府のように対内的には全国を統治し,対外的には日本を代表する政府として機能はしなかっただろうなと思いました。



Posted at 2021/09/14 18:43:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | 観光・旅行 | 旅行/地域
2021年09月12日 イイね!

琵琶湖に浮かぶ聖地に行きました

琵琶湖に浮かぶ聖地に行きました
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」
というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。

宝厳寺は琵琶湖に浮かぶ島なのでフェリーで行くしかありません。

長浜港・今津港・彦根港の三箇所からの行けますが私は彦根港から出港することにします。



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彦根港からだと乗船料:大人¥3000・学生¥2400・小学生¥1500 島までの所要時間は、40分となります。


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出港です!


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到着しました。


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巡礼参りには付き物の石の階段です😅


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本堂に到着しました。


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弁才天座像の周囲を真っ赤に彩るのは、願いを叶えてくれると評判の「弁天様の幸せ願いダルマ」です。

このダルマは、手に琵琶を持つ可愛い顔をした弁天様で一つ一つ手書きで描かれているため、お顔が一つ一つ微妙に異なり、表情にもそれぞれ個性があります。

ダルマを手にしたら、お願い事を書いた紙をダルマの中に収めて奉納することで願掛けができます。


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美しい朱色の三重の塔です。


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御朱印を頂くのに人が並んでいます。
今までそんなに人がいなかったので初めての経験です。


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立派な御朱印を頂きました。


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国宝指定の観音堂です。


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かわら投げ

素焼きのお皿を投げて鳥居の間を通れば龍神が願いを叶えて下さるそうで、私も挑戦しましたが全然駄目でした😅


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小腹が空いたので売店に寄ります。


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弁天芋餅と…


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巡礼スィーツでお薦めされていたミルク饅頭も頂きました。


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上品な甘さで美味しかったです😋

さて、帰りフェリーが出港時間になったので帰ることにします。

しかし、そこでトラブル発生!!

フェリーが出港しようとしてるのにジェットスキーが近くを走り回っています。

危ないから離れるように船員が注意してるのにそれを無視して走り回っています。


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DQN丸出しですね。

タヒねばいいのに😤

おっと、そんなこと言ってはいけませんね😅




Posted at 2021/09/12 22:03:55 | コメント(1) | トラックバック(0) | 御朱印巡り | 旅行/地域
2021年09月11日 イイね!

西国三十三所第31番札所の長命寺に行きました。

西国三十三所第31番札所の長命寺に行きました。
滋賀県近江八幡市にある西国三十三所第31番札所の「姨綺耶山(いきやさん)長命寺」に行きました。

ここは長寿、諸願成就のご利益がいただける天台宗の寺院です。



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湖畔の参道入り口から、808段の長い石段を上ると、重なり合う美しい諸堂、古代の伝説が残る巨石群、そして琵琶湖の素晴らしい眺望が待っています。


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長命寺の寺伝によれば、第12第景行天皇の時代に、忠臣として知られる武内宿禰(たけのうちのすくね)が、この地で柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」と記し、長寿を祈願しました。このため宿禰は、300年以上の長命を保ち、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇と、神功皇后に仕えたといわれています。

その後、聖徳太子がこの地を訪れた際に、宿禰によって柳の巨木に彫られた文字を発見しました。これに感銘を受けた太子がしばらく眺めていると、突如、白髪の老人が現れ、その霊木で仏像を彫り、この地に安置するように告げました。

早速、太子は千手観音を彫り、伽藍を建立、宿禰の長寿にあやかり「長命寺」と名付けたと伝えられています。


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本殿の東側にある重要文化財の「三重塔」は、長命寺のランドマーク的存在で、安土桃山時代の1597年(慶長2年)に建てられたものです。


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聖徳太子が開基したと伝わる古刹で、絶景を眺めながら長寿祈願をしてきました。

これで100歳まで生きれるかな?😄



Posted at 2021/09/11 19:45:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | 御朱印巡り | 旅行/地域
2021年09月03日 イイね!

靖國神社と護國神社の違い

靖國神社と護國神社の違い
全国にある護國神社の大元が東京都千代田区にある靖國神社


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‥だと思い毎年、靖國神社を訪れ英霊に手を合わせてきた。

しかし、地方へ出張する機会が増え、護國神社へ参拝することが多くなり、詳しく調べると護國神社と靖國神社は、あくまで対等の関係にあることが分かった。

確かに全国の護國神社に祀られている御英霊の多くは靖國神社にも合祀されているが、明治2年6月29日に明治天皇のおぼし召しで東京招魂社として創建された靖國神社とは違い、護國神社は地元の有志たちによって設立されたという違いがある。
全国47都道府県のうち、東京都と神奈川県のみ護國神社がなく、靖國神社が両都県の護國神社の役割も果たしている。
靖國神社に対しては、いわゆる戦犯(私は戦犯とは思っていないが)の合祀に対して参拝に反対する意見もあるが、同神社は全国の護國神社同様、戦没者の御英霊を偲び、遺徳を称え、感謝の誠を捧げる神聖な場所であり、戦争を美化したり、その責任を追及したりする場ではない。


「遺族であるなしに関係なく、生き残った私たちが感謝の気持ちを御英霊に向け、靖國神社と護國神社へお参りすることで、神様の力は強まり、その力が強くなることで日本を守ってくださる」

そういった神聖なる場所が靖國神社であり護國神社なのだ。


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元々は御朱印巡りで全国の神社や寺院を参拝する機会が増え、1年間で100箇所以上旅した私ですが、それだけでは飽き足らず、全国のお城巡りや護國神社巡りをするようになった。

コロナ禍であるため有名所は平日に訪れたりして人混みを避けて御朱印巡りしてきたにも関わらず年間に100箇所は中々のペースだと我ながら思う。

そして訪れる先々で

「一刻も早くコロナが治まり、平穏な日常が取り戻せますように‥」

とお願いしている。



Posted at 2021/09/03 14:38:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思いに耽(ふけ)ること | 日記

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マリアローザです。 多趣味人間なので車以外のことも手広くブログに書いています。 特にお笑いが大好きで、どんな題材でも面白くすることが出来ます。 ...
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