
先日、
MINI原人の吾輩ハ猫デアルにて夏目漱石のユーモアを紹介いたしましたが、今年は漱石没後ちょうど100年に当たるそうです。 新選 名著複刻全集近代文学館(1970年刊行)には短編集永日小品のうち「山鳥」の漱石直筆の原稿の復刻が収録されていますので、ご紹介いたします。
「山鳥」が書かれたのは明治41年(1908)頃、漱石は既に文壇の重鎮にて、その居「漱石山房」には多くの文士・著名人たちが親しく訪ねてきていました。あまりに多くの来客があるので文筆活動の妨げにならぬよう「木曜日の午後三時からを面会日」と定めていたようです。
漱石山房の玄関: 来客はツタをがさごそと掻き分けて呼び鈴をならしたとのことです。

おかりしました。
漱石は「漱石山房」の印字がある原稿用紙を用いていました。
永日小品 漱石
山鳥 上
五六人寄って、火鉢を囲みながら話をしてゐると、突然一人の青年が來た。名も聞かず、會った事もない、全く未知の男である。紹介状も携へずに、取次を通じて、面會を求めるので、座敷へ招じたら、青年は大勢ゐる所へ、一羽の山鳥を提げて這入って来た。初對面の挨拶が済むと、其山鳥を座の真中に出して、国から届きましたからといって、それを当座の贈物にした。
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1908年1月の末の木曜日(おそらく1月23日)いつものように数人の文士たちが漱石山房に集まり、座敷の火鉢を囲んで文学論議をしていると、市川文丸という青年が山鳥(
雉)を土産物としてぶらさげてやってきました。この青年は田舎から出てきて文学を志しているようです。
其日は寒い日であった。すぐ、みんなで山鳥の羹を拵えて食った。山鳥を料る時、青年は袴ながら、台所へ立って、自分で毛を引いて、肉を割いて、骨をことことと敲いて呉れた。青年は小作りの面長な質で、蒼白い額の下に、度の高さうな眼鏡を光らしていた。尤も著るしく見えたのは、彼の近眼よりも、彼の薄黒い口髭よりも、彼の穿いていた袴であった。それは小倉織で、普通の学生には見出し得べからざるほどに、太い縞柄の派出なものであった。彼は此袴の上に両手を載せて、自分は南部のものだと云った。
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羹とは「
羹に
懲りて
膾を吹く」のアツモノであり、温かいお吸い物(スープ)のことです。
人民中国インターネット版によれば中国の神話上の
堯の時代に中国料理人の始祖である
彭祖(Péng Zǔ)が体力の弱った堯王のために雉羹(キジのスープ)を作って飲ませたところ、見事に回復したという伝承がありますが、野菜が入手困難な1月に漱石たちが作ったのは、むしろ「雉すき」のようなものではなかったかと思われます。
Cookpad の雉すきからおかりしました。
この雉がよほど気に入ったのか、1週間後の1月30日、逝去した
正岡子規門下の俳人である
高浜虚子と
坂元四方太、漱石門下生の
森田草平、
小宮豊隆らがやってきて、最近の俳句について語り合った夜、漱石は皆に雉飯を振舞ったとのことです。
市川文丸という文学を志す青年は東京で大変困窮しながら文学の勉強をしていたようで、持参した猿の掛け軸を質草に漱石から金子を借りるのですが、まったく返すこともできません。そのうち市川文丸は、漱石山房に顔を見せなくなります。その後、漱石のところに金子を借りにきた別の青年がいて、漱石はその青年に猿の掛け軸を渡し、これを返して文丸君からお金を返してもらったらそれを貸してやろうとその青年に提案します。その青年は訪ねてゆき、なんと手ぶらで帰ってきます。
青年は、「行つたんですけれども、とても駄目です、
慘澹たるものです、汚ない所でしてね、妻君が
刺繍をしてゐましてね、本人が病氣でしてね、——金の事なんぞ云ひ出せる
譯のものぢやないんだから、けつして御心配には及びませんと安心させて、掛物だけ
歸して來ました」と言います。
文丸はその後、郷里の青森に引き上げ、漱石のもとに雉を送ってきました。漱石は文丸に礼状をしたためます。
先年の一夕を思ひ出し候
来る人あらば又一椀の羹をわかたん
御用立申候金子については御心配御無用に候 |
漱石はじめ明治のひとたちはジェントルマンだったようです。
参考ページ
1.
NPO法人 漱石山房
2.
サライ【1908年1月30日の漱石】
Posted at 2016/12/14 17:48:07 | |
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