
「キャー!」っとK子が大声で叫んだ。
「虫がいる!」
僕も虫が嫌いだ。
特に蟻、蠅、蚊、蛾、毛虫など家の中の虫は子供の頃から見つけたらすぐ殺すようにしている。
「どれどれ」
と僕はK子が指差す方を見た。
よく見たら虫ではなかった。小さな蜘蛛だった。
「早く殺してよ」
僕は殺さずに蜘蛛をつまんでベランダへ捨てた。
「もう大丈夫」
僕は蜘蛛は殺さない。
子供の頃祖母に言われたからだ。
「タダシ、蜘蛛は殺しちゃ駄目よ。蜘蛛は害虫を食べてくれるんだから」
K子は僕の婚約者だ。
高校の美術部で一緒だった。
彼女は美大を出てアニメーション制作会社で働いている。
僕は美大には行かずに、大学卒業後出版社へ入って今は美術書の編集をしている。
僕たちは来月結婚する。
二人で揃って出勤した。
僕らの会社は近い。
交差点で「じゃあ、またあとで」と手を振って別れた。
歩き出すと、背後で「ドーン」と大きな音がして悲鳴が上がった。
振り返った僕は走り出した。
交差点にダンプが突っ込んで赤い血が飛び散っていた。
「そんな!」
僕は目の前が真っ暗になった。
本当に真っ暗な闇の中だ。
すると闇から黒い影が出てきた。
よく見ると蜘蛛だった。
「助けてくれてありがとう。お礼に願いを聞いてあげるわ」
そういうと僕に小さなガラス玉をくれた。
僕はそのガラス玉を握りしめて祈った。
また目の前が真っ暗になった。
僕は目が覚めた。
K子の顔が見えた。
「早く起きないと遅刻するわよ」と言って笑った。
「夢だったのか?」
と思いながら手のひらを開けるとそこにはガラス玉があった。
交差点で別れずに彼女の会社の前まで送って
「今夜は外でご飯を食べよう。ここまで迎えに来るから」と彼女に伝えて別れた。
仕事が終わって彼女の会社へと向かう。
すると様子が変だ。
人だかりがして、その先に火の手が上がって黒い煙がもうもうと舞い上がっていた。
野次馬の誰かが言った。
「放火されたらしい」
燃えていたのはK子の会社が入ったビルだった。
やがて消防車のサイレンの音が聞こえてきた。
僕はその場にへたれ込むと、ポケットからガラス玉を出してまた強く握った。
僕は喫茶店にいた。
そこにK子が笑いながらやってきた。
「おまたせ。久しぶり!」
「え?」
「仕事はどう?」
「まあ、あまり変わらないよ。君のアニメの仕事はどう?」
「実は私先月会社を辞めたの。今度結婚することになって」
「え?」
「だから今日はタダシにそのことを報告しようと思って呼んだのよ」
「結婚式来てくれるよね?」
「ああ、もちろん行くさ・・。おめでとう」
「ありがとう。よかった。タダシには絶対来てもらいたかったから」
「じゃあ私行くね」
「うん」
そう言うとK子は笑顔で出ていった。
僕は彼女の後ろ姿を見送りながら、またポケットに手を突っ込んだ。
「おかえり」
玄関を開けるとK子が言った。
「ただいま」
「疲れたでしょう。ご飯にする?それとも先にお風呂入る」
「お腹すいたからご飯食べようかな」
「わかった」と言う妻の顔を見たら顔色が悪かった。
「具合悪いの?」
「うん、ちょっと昨日から体調が悪いの。少し休めば治るから」
僕は胸騒ぎがして「明日病院へ行こう」と言った。
精密検査をする必要があると言われて彼女は数日間検査入院することになった。
「大丈夫よ。少し休養になるわ」
「うん、そうだね。また明日会社の帰りに寄るから」
翌日外での打ち合わせが終わると同行していた同僚のM子が僕に言った。
「あーお腹すいた。タケダ係長、ご飯行きましょうよ」
「お疲れ様。悪いけど行くところがあるんだ」
「おうちにご飯ないんでしょう。たまにはいいじゃない?」
「う〜ん。じゃあ、ちょっとだけ」
僕は早く切り上げようと思ったがそうはならなかった。
M子と別れたら病院の面会時間はとっくに終わっていた。
翌日仕事帰りに病院へ行った。
「ごめん、昨日は残業で遅くなってしまって」
「ううん、いいのよ。お疲れ様」とK子がやつれた顔で言った。
すると主治医が病室にやってきて
「タケダさん、ちょっとこちらへ」と僕を別室へ案内した。
K子は末期がんだった。
「先生、余命は?」
「申し上げにくいがあと1ヶ月くらいかと」
「そんな!」
K子の葬儀が終わって、僕はやっと悟った。
「そうか」
ポケットのガラス玉を握りしめた。
そこは高校の美術室の前だった。
同じクラスのK子がやってきて
「タケダ君、美術好きなんでしょ。一緒に美術部へ入ろうよ」と誘った。
僕は答えた。
「ごめん。吹奏楽部に入るんだ」
「な〜んだ。残念ね。じゃあ頑張ってね」
と明るい顔でK子は言うと美術室へ入って行った。
K子の後ろ姿を見ながら涙が出た。
「さよなら・・・」
心のなかでそう言うと、ポケットの中で握りしめていたガラス玉が割れる音がした。
これでやっと正解だったようだ。
手を開いてみたらそれはガラス玉ではなく、小さな蜘蛛の死骸だった。
#ショートショート
Posted at 2022/01/21 11:45:57 | |
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