年寄りの戯言に都内の夜桜を添えて…全てNIKON1 V1(換算50mmF1.8)で撮影しました。

'99年の経営危機下、ルノーからの資本提携を受けゴーン体制下以降、これまで同社から聞こえてきたこと…協業するルノー・日産グループでプラットフォームやパワートレーンの共用化を進めることで開発を集約してスピードの向上。量産効果でコストを抑える経営が始まります。
メリット
→基幹部品の共通化で量産効果が得やすい
→バリエーション部品が減らせ在庫を絞りやすい
→車体上屋と走りの味付けでそれぞれの違いを出していける前提でそれぞれが得意なセグメントの開発に集中する
→市場でのグループ内競合を避けられる
デメリット
→やりたい事とデザイン上の制約が発生する
→意見を集約、調整に膨大な時間がかかる
→生産に取り掛かり量産効果がでるまでの間、調整リソースがかかっているのでコストは…
→スピード感が無く、市場と日産社内での時間が乖離していく
→日産にとっては量販が期待できる小型車の車体開発がルノー任せになり技術蓄積が浅くなる

巷で言われているように、売れないものは廃止する姿勢は、そもそも定期的な代替えが見込まれる美味しい商用バン市場を「売れないから」廃止、補完する新車も用意しないのはあり得ません。
売れないのではなく、ライバルと比較して見劣りして買ってもらえないのが問題でしょう。業種的にメーカー縛りが無いユーザーは、買い換えるならば少し高くても機能的に進化した新しいデザインを選ぶでしょう。法人が経費で買う「道具箱の安価な車」という市場を侮った…日産経営陣は市場を見ないでひたすら「企業価値の向上とその先にある株価」を凝視していました。彼らの大好きな「株」と「車」は一緒です、魅力がない物件は売れない。
個人的には、プロボックスとバッティングしない車体、既存製品でいうとワゴンRワイド的なユーティリティに振ったコンパクトな道具箱みたいなもの、(よく要望で言われるキューブ後継にも繋がるハイト系ユーティリティカー)を用意できないものかと思いました。これを第一世代e-powerで安価に買えるようにする。e-power用のバッテリーから100Vを簡易的に取り出せる装置等(容量が限られているので限定的な使い方にはなるとは思いますが…)職人、営業職が使いやすく居心地の良い車を提案できないものでしょうか?

日産に勤める技術者、工員…名もなき中の人達に忸怩たる思いはあるでしょう。
スカイラインやZに携わりたく、かつての熱狂を肌で知っている世代もまだまだ現役。「俺のセドリック」、「俺のグロリア」、「俺のスカイライン」、「俺のZ」、「俺のブルーバード」、「俺のシルビア」
「俺のマーチ」等々、きりがありませんが…憧れの車を自分の手で作りたい、と希望を胸に日産の作業服に袖を通した人も数多く居られると思います。昔は4年毎にモデルチェンジがありました。それぞれの車種毎で販売成績は山あり、谷ありを繰り返しましたが、新車がリリースされると市場が反応する「熱」が日産には失われたように感じます。「時代と市場の変化」と他責にするのは簡単ですが、自分の中にある熱狂を燃やし続け、市場に思いを込めて提案する、その努力をしてきたのか…特にここ10年は正直なところ感じません。
2月に訪れたノスタルジック2DAYSで往年の名車を目にして感じたのは奇しくも旧車に対する「熱」展示車のシェア40%を越えるのではないかと印象を受けた昭和の日産の名車達…ここを見ても日産に必要なのは「熱」だと思います。

モータースポーツ活動においても名門NISMOの名が泣きます、'86年からのル・マンに始まり'90年ル・マンで欧州勢の肩に手をかける戦い、NME(欧州ワークス)のポールポジションに始まり、NPTI(米国日産ワークス)のファステストラップ、NISMO(日本ワークス)日本人トリオの5位入賞。背後にトヨタ・チーム・トムスが6位に入りましたが、当時の日産ワークスのレース運びと相俟って国産最上位を日産が奪取したニュースは広く知られています。
残念なのはこの後、ル・マンにおけるチームの内紛や、敗戦処理等の遅れと立て直しが追い付かず、'91年は「手抜きしても勝てる」と言われたル・マンをキャンセル。
SWCの不人気ぶりから、FIAが日産の招待を画策したものの、煮え切らない態度でチャンスを袖にした…この時も社風が足を引っ張りました。
技術部、レース実働部隊は十二分に戦える体制にあったのに…'91年のル・マンはマツダが戴冠。苦杯の溜飲を下げる如く、'92 IMSA デイトナ24時間で圧倒的な優勝を飾り、同年の国内選手権JSPCを無敗で締めグループCは活動を終了します。
紆余曲折、SWC崩壊からGT化に進んだル・マンに'95~'96とR33スカイラインGT-Rをベースにした GT-R NISMO LMで、GTカーの頂点を目指しました。この時の経験が、R35の開発動機になったとエンジニアの水野さんは話しています。
ツーリングカーを改造したGTカーでは時代のスピードに追い付けないことを悟り3ヵ年計画を切り上げ、英国TWRとのジョイントで'97年R390GT1へのスイッチ。ジャガーXJR15のモノコックをベースに製作した車を持込みました。NISMO+TWRのジョイントチームで挑んだ3年目のル・マンはライバルチームからの技術規定に抵触するというトランクの扱いに関する指摘に始まり、クーリング不足からのミッショントラブルに泣かされました。
翌年'98年ル・マンは、限られた予算の中で日産NISMOが主導で鍛え直したR390GT1を持ち込みます。前年と違う信頼性の高い車に仕上がった車でした。あのときのNISMOのレース運びはただ一つ「星野一義をル・マンのポディウムに立たせる」という目標を立て気迫が凄かったです。32号車が壊れても星野さんが走り続けられるようにチーム内でドライバーコンバートもしながら戦ったとの後に知りました。チームの雰囲気もNISMO+TWRながら、日本人が前面に立ったジャパンアタックの強い雰囲気に好感を持ちました。この年復帰したトヨタワークスはF1参戦を見据えたTMGが母体となりはグローバル感が強いものでした。
折しも'98年はライバル勢が新しい切り口のGT1カーを登場させ、2年目のR390には速さが足りない、劣勢の中で信頼性とチームが一丸になって進めたレースは手堅く、最上位3位、出場4台を10位以内でゴールさせました。この結果が次年度のR391への布石になっています。
この時の日産のレースには感動してNISMOにメッセージを送りました。
また、当時の愛車ER34にどこか誇らしくハンドルを握ったものです。上述した「熱」と合わせ「共感」それが日産が歩んできた車作りだと思います。
余談ですが’99年ル・マンに挑戦したR391は一台が予選クラッシュ、もう一台は完走したものの凡庸な結果でがっかりしたものですが、半年後の富士ル・マン1000kmレースでR391は磨きをかけ、トヨタTS020を退け優勝。'00ル・マンの予備予選免除を勝ち取りますが、日産の経営危機でプログラムを終了…。
経営としては褒められませんが、この頃の日産のモータスポーツ活動もまた「熱」を感じるものでした。ワークスがやる意味、下位カテゴリーでもいいので本気で勝ちに行く、今のトヨタGR(ワークス)に感じるのが、この「熱」なのでしょう。

話は自動車産業に戻りますが…
電動化についても政治主導に振り回されました。でも、目先の金と自分たちの都合も含めて盲目的に進めた結果、行き詰まる形に…ルノーとの協業アンペアについても中止が決まったとか。
次世代のシャシー開発はどうか、EV、ICE双方へのコンバートが可能な設計を仕込んでいれば…と思いますが現状はわかりません。そこまで先見の明がある判断をできる役員が、今の日産にいるのか…???
よく「会社は株主のために…」と、言われますが、本来は会社の活動に共感したから資金援助する→株を購入する→会社が得た資金で技術的発展をする→売り上げが上がる→謝礼(配当を)貰う。正論ではこのようになりますが産業、企業を発展させる仕組みのひとつが、いつの間にかギャンブルの金稼ぎ手段になってしまいました。
製造業はモノを作って販売し、稼いだお金で社員が生活を営む、稼ぎが大きくなれば社員も潤い、小さな贅沢が市場に流れ、潤った社会が各企業の市場を潤す好循環を生む社会貢献につながります…と学びました。
今、日産を切り盛りしているゴーンチルドレン達は中途採用で工場実習もしていないでしょう、新卒の叩き上げが残っているのかは分かりませんが、モノつくり現場を肌で感じる必要はあるでしょう、底辺の者が会社を支えているのです、そこはお互いに敬意を払う、行動もそれに準ずる、その上で責任を持ち、結果を出すことで初めて報酬が得られるです。
新社長イヴァン・エスピノーサ氏の経歴を見ると製造業を知っていると感じられないのは残念です。商品企画畑の道を歩いてきたようですが、既にここ数年のセールスで結果はでているのですから。日産は遠からず規模を抑えざるをえないと思いますが、今一度、過去の名車達に触れてみてほしい。先達の作り上げた「熱」をどう取り戻すか、旧車イベントに足を運んで、自分事として、何をできるのか考えてほしいのです。いやらしい言い方ですが、人の琴線に触れた商品は高くても売れるのです。まだICEは作る技術はあるのです、ここを手放してしまったら本当に日産は終わってしまう。
HEVについては協業社からの提供に自社製ICEとのジョイントから始めれば…どうせ研究しようにも特許の壁に当たる…ならば割り切ってそこは提供を受けつつ、磨きをかける余地を残すような契約ができれば◎でしょう。

もう10年以上前になりますがコンセプトカー日産IDXには、ちょっとわくわくしました。コンパクトFRはその時点でも作れなかったでしょうけど…JUKE用のシャシーをベースにオールモード4x4-iで4WD制御を磨いてスポーツコンパクトの起爆剤にするチャンスがあったと思うのですが…あの頃がひとつのターニングポイントだったのかなぁ…とも思います。