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Hataのブログ一覧

2022年03月05日 イイね!

1枚の写真

1枚の写真 久しぶりにオークションで競り合った。
ニキ ラウダがドライブするブラバムBT48アルファロメオのプレス用写真である。
幸運なことに落札できたけれど、1枚のモノクロ写真に3,000円ほどの値が付いたことになった。(TOP画像にはラウダの顔写真もあるが、こちらは出品者が同封してくれたもの)
しかし私は決して高いとは思っていない。
ブラバムBT48の画像は、カラーでもモノクロでもネットでそこそこ手に入る。
それでも私がこの写真を手に入れたかったのは理由がある。

 この仕様はとても貴重なのである。

「プレス仕様」「ローンチエディション」等と呼ばれたこの仕様は、
1979年から始まったグランドエフェクト時代の幕開けを告げるようなインパクトがあった。

 当時のAUTO-SPORT誌にカラーで掲載された写真を見るにつけ、
「これが新時代のF1か!」と興奮したのを覚えている。


1979シーズン開幕前のニューマシン発表風景。
派手な演出などないのがこの時代。
ラウダのレーシングスーツとヘルメットも前年のまま。
背後に移っているクルマが時代を感じさせる。


 ただ、このブラバムBT48、以前もこのブログに書いたが、
衝撃的なフォルムとは裏腹に戦績のほうは見事にズッコケた。
開幕戦では危うくラウダが予選落ちするところだったし、
その後も予選ではシングルグリッドの常連にはなるものの、
アルファロメオV12の信頼性の低さもあってリタイア続きだった。

 それでもなお、私が「歴代のF1マシンでもっとも好きなマシンは?」
と聞かれたら迷わず「ブラバムBT48。それもプレス仕様!」と答えるだろう。



 美しいカラーリング、整然としたフォルム、
そしてアルファロメオV12エンジンとニキ ラウダとネルソン ピケのコンビ。
F1に限らず、クルマは調和の取れたワイド&ローが理想だと思っているので、
このブラバムBT48のフォルムは今観ても心が躍る。


見る角度によってはまったくの「ウイングレス」のようで、
ちょっとカッコ悪かったりもするが、なんとも言えない迫力がある。


 このウイングさえも低く抑えたフォルムは、
デザインしたゴードン マレー氏らしくちゃんとした理由がある。
それまでの平面だったシャーシ下面をウイング形状にしたことで、
それだけで充分なダウンフォースが得られると判断したことによる。
ベンチュリ効果から得られるダウンフォースは、
前後のウイングのような抵抗がなく
上手く機能すればダウンフォースが得られるだけでなく直線の速度も上げられる。
まさに「いいコトずくめ」だった。

 しかし現実には机上の計算通りにはならず、
ブラバムだけではなくどのチームも正解を見出すまで苦労した。
いち早くグランドエフェクトマシンを手掛けたロータスは、
ブラバム以上に困難な状況となり「飛行機だったら墜落していた」と言われるほど
空力の泥沼に嵌ってしまった。


 2022年、F1は新しいレギュレーションになり
およそ40年ぶりにグランドエフェクトカーが復活する。
79年ほどではないにしても各チームで解釈が異なり、
微妙に細部の形状が違う点が興味深い。
一体どこのチームが最適解をいち早く見つけるのか。

話題になっている「ポーポイジング現象」は昔も存在した。
前述のロータスなどは、意欲作の80で凄まじいポーポイジングに悩まされたという。
このあたりの古くて新しい話題に関しては、
また近いうちに書こうかと思っている。

 札幌市内は以前としてドッサリと雪が積もっているが、
少しずつ気温が上がり春の気配を感じる。
F1の開幕も、自分自身の開幕ももう少しだ。
「冬来たりなば春遠からじ」
世の中の暗いニュースが少しでも明るい方へ向かうよう祈るばかりだ。
春はいつでも希望のあるものであってほしい。
Posted at 2022/03/05 17:56:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 70~80年代F-1 | 日記
2021年02月13日 イイね!

あの日、あのとき・・・Vol.2

あの日、あのとき・・・Vol.2 便利な時代になったもので、昔は観ることができなかった70~80年代のF1がフルレースで視聴できる。
確かにダイジェスト版では何度か観たことはあるけれど、やはりフルで観なければ分からないこともあるというもの。

 そこで、まずはラウダのブラバム時代にスポットを当てることに。
ラウダは1977年にフェラーリで自身2度目のチャンピオンになり、翌78年ブラバムに移籍した。

そんなわけで、1978年のF1を開幕戦から観ている。

この1978年というシーズンは、結果を言えばロータスの圧勝だった。
当時、「史上最強」と言われるほどだった。
全16戦中、アンドレッティ6勝、ピーターソン2勝、
そのうち4回は1-2フィニッシュという圧勝ぶり。
第6戦のベルギーGPでは新型のロータス79(アンドレッティ)と
旧型のロータス78(ピーターソン)で1-2フィニッシュをやっている。

まだすべてのレースを観たわけではないけれど、
この常勝ロータス以下はレース序盤で突き放され、
3位以下で抜きつ抜かれつのレースになっているという有様だった。
これはメルセデス1強の、今のF1に似ているとも言える。

 ではロータスはなぜそこまで強かったのか?
理由は明確である。
グランドエフェクトという、今のレーシングカーでは常識となった
「シャーシ下面の空気を利用する」という方法をいち早く導入したからだ。
その効果は凄まじく、数年後には禁止されてしまうほどだった。
当然のことながら、今ではシャーシ下面はフラットとレギュレーションで決められており、
その効果は得られないが、考え方としては今のレーシングマシンにも生きている。

 そんなロータス1強の78年シーズンではあるけれど、
ロータス以外のバトルは見応えもあり、さらにロータスが脱落したレースは拮抗した優勝争いも見られた。

前置きが長くなってしまったが、私が注目したのは第8戦のスウェーデンGP。
今でも語り継がれるエポックメイキングなマシンが登場した。

ブラバムBT46B、ファンカーである。



シャーシ後端部に巨大なファンを装着し、
そのファンでシャーシ下面の空気を強制的に吐き出すというもの。
これはロータスとは違ったアプローチで
グランドエフェクト効果を狙ったものと言える。



この一見かなり異質なマシンは、パドックに姿を現すと注目の的となった。
そしてレースでは常勝ロータスを破り、見事に優勝を飾った。
このレースではロータスの「勝利の方程式」は成立しなかった。
いつもなら序盤で2台のロータス79が飛び出し、
レース中盤にはもう1-2フォーメーションが出来上がっているというものだった。
しかし序盤でピーターソンが脱落したものの、
それでもアンドレッティ一人でも逃げ切れるはずが、
ブラバムを振り切ることができなかった。



 しかしこのレース限りで、ファンカーは禁止となる。
他チームからの抗議、特にロータスのコーリンチャップマンからの
「これが認められるなら、ロータスも次戦からファンを装着する」という
半ば脅迫とも言えるような抗議には、さすがのエクレストンも引き下がらざるを得なかったのだろう。
ラウダの優勝は取り消されることはなかったものの、
ブラバムのファンカーは1戦だけの幻のマシンとなった。

 ただ、長い間、疑問に思っていたことがあった。
このファンカー、そもそもレギュレーション違反であったことは、
デザイナーのゴードンマレーは知っていたのではないか。
「空力パーツは可動してはならない」とレギュレーションには明記されていた。
それを無視してBT46Bを作ったとは思えないし、
バーニーエクレストンがゴリ押ししてくれるという見通しがあったとも考えにくい。

 その疑問への解答は10年前に入院したとき、
EVO黄色さんが差し入れてくれた本に詳細に書かれていた。



この動画はファンカーの空気の流れを「見える化」している。
マレーの狙いがよく分かる秀逸な動画だと言える。
しかし、これだけだと空力効果を狙った巨大ファンは間違いなく違反である。

そこでマレーはちゃんと違反と指摘された際の反論を用意していた。
レギュレーションには確かに「空力パーツは可動しないこと」と明記されているが、
実は厳密には「空力を主な目的とするパーツ」とある。
つまりマレーの主張はファンがダウンフォースを発生させるのは
あくまで二次的な効果であり、
「本来の目的はエンジンの冷却のため」というものだった。
エンジンの熱をファンを使って車外に排出するのが目的というわけだ。

確かにアルファロメオのフラットエンジンなら、
そのレイアウトからして充分説明がつくし、実際に効果もあっただろう。

しかしその主張は受け入れられることはなかった。

ラウダファンの私としては、あのときファンカーが認められたら
ラウダはタイトルを獲ったかも知れないと思う。
チャップマンは「コレが認められるならロータスにもファンを付けるぞ!」と言ったらしいが、
コスワースDFVを搭載するロータスにブラバムのようなファンを付けるのは困難だろう。

 ただ、いくらラウダファンの私でも、
このファンカーというエポックメイキングが禁止になるのはやむを得ないと思う。
巨大ファンは路面の小石なども巻き上げ、
後方のマシンに容赦なく浴びせることになる。
あのまま使用され続ければ、なんらかの事故が発生していただろう。

1戦限りで、しかも無敵を誇っていたロータスを破っての優勝というエピソードを残したからこそ、
その存在が今もって光り輝くのだろう。






Posted at 2021/02/13 14:05:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 70~80年代F-1 | 日記
2020年12月10日 イイね!

あの日、あのとき・・・

あの日、あのとき・・・ 先日のF1サクヒールGPは波乱の連続で、レーシングポイントのセルジオ・ペレスが「史上もっとも遅い初優勝」という劇的なラストで幕を閉じた。

 ペレス選手には心から「おめでとう!」と言いたい。

 やはりF1にはドラマがある。
ペレスの劇的な初優勝と、グロージャンの大事故が大きな話題となったが、一方でハミルトンの代役で走ったジョージ・ラッセルの活躍も見逃せないものだった。

 しかしリザルトには「ジョージラッセル(AMGメルセデス):9位」だけである。
そこには予選2位から終始レースをリードし、ピットのミスで一旦は中団に沈むが、
再び2位まで浮上したことまでは残らないだろう。

 ただ、ラッセルには未来がある。
この先GPドライバーとして、この先どんな活躍をするのかは誰にも分からない。

 さて、前置きが長くなってしまった。
今回は30年前のレースの話をしたい。

1980年最終戦、ワトキンスグレンで開催された西アメリカGPである。
アルファロメオ179をドライブするブルーノ・ジャコメリは、
ワークスアルファロメオが1979年に復帰して以来
初のポールポジションを獲得した。
ブラバムのエンジンサプライヤーとして復帰したのは’76年だが、
このエンジンのみ供給していた時期では’78年の南アフリカGPで
ニキ・ラウダがポールを獲っている。(ラウダ最後のポール)

このブラバム・アルファロメオは’79年終盤まで続くが、
あまりの信頼性の低さにシーズン途中のカナダGPから、
ブラバムチームとアルファロメオは離婚することに。

 このカナダGP直前のイタリアGPでは、
アルファロメオは1965年以来、実に14年ぶりにF1に帰ってきた。
そして’80年からブルーノ・ジャコメリとパトリック・ドゥパイエの2カーエントリーで本格復帰。
しかし相変わらずV12エンジンの信頼性は低く、
予選はともかく決勝ではリタイア続きだった。
さらにシーズン中盤のドイツGP直前のテスト走行で
ドゥパイエが事故死するなど、苦難の連続だった。

 しかしシーズン後半戦、徐々にマシンのポテンシャルは上がり、
ついに最終戦のUSGPではポールポジションを獲得することに。
2位のネルソン・ピケ(ブラバム)におよそ0.8秒もの差をつけての
堂々のポールポジションだった。



若干ウェットのコンディションながら、ジャコメリはスタートも決め、
序盤はピケからプレッシャーを受けるが、
その後は徐々にその差を広げ始める。
さらにピケがコースアウトしたあとは、まさに独走態勢。
ワークスアルファロメオが1951年以来の優勝か?と思えた瞬間だった。
しかし31周目、その夢は儚く消えた。
力なくグリーンに停められたマルボロカラーの179。
リザルトには「電気系」と記されているが、
このとき既にレースは半分が過ぎていた。

あの日、あのとき、もしアルファロメオのマシンが優勝していたら・・・
もしブルーノ・ジャコメリがトップチェッカーを受けていたら・・・
両者のその後は大きく変わっていたかも知れない。


あのニキ・ラウダが「アルファのエンジンを見ると、
ターボエンジンが小物に見えてしまう。」と言っていたアルファV12。
ただただ「美しい!」の一言に尽きる。


 ただ、このレース、関係者のみならずファンの関心事は
アラン・ジョーンズVSネルソン・ピケのタイトル争いだった。
ジョーンズとピケのタイトル争いはし烈を極め、
決着は最終戦までもつれ込んだ。
ピケは序盤でリタイアに終わり、
この時点でジョーンズのタイトルが確定した。
そしてジョーンズは優勝し、タイトル獲得に花を添えるかたちとなった。

 リザルトには「ジョーンズ(ウィリアムズFW07):優勝」
そしてアラン・ジョーンズがチャンピオンと残っている。
ジャコメリがポールからスタートを決め、
レース中盤までトップを快走したということは
「ラップリーダー(1~31周):ブルーノ・ジャコメリ(アルファロメオ179)」
と一応残ってはいるが、そこには記録には残らないドラマがあったと思わずにはいられない。

 このあと、F1は急速にターボ時代に入り、
それに伴いアルファロメオもターボを選択した。
1.5リッターV8という、いかにもアルファロメオらしいレイアウトだったが、
目立った結果を残すことはできなかった。

 1979年のシーズン途中での復帰から、
ついに1勝もできなままアルファロメオはF1から撤退した。
今現在、アルファロメオレーシングという名前こそ残っているものの、
このチームのマシンが優勝したとしても、
純粋なアルファロメオだと思う人は少ないだろう。

 自然吸気のV12がGPを走るといことは、もう未来永劫ないだろう。
それはもうノスタルジーに他ならない。
それでも、この美しい外観を持ったエンジンが、
美しい音色を奏でサーキットを走る姿をPCの画面越しであっても
今なお観ることができるのは幸せなことだと考えるべきだろう。
Posted at 2020/12/10 23:02:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 70~80年代F-1 | 日記
2019年06月02日 イイね!

Niki Lauda~そのドラマチックな人生 Vol.3

Niki Lauda~そのドラマチックな人生 Vol.3 突然の引退だった。
1979年F1第14戦カナダGP。
初日のフリープラクティスを数周走っただけで
「辞める。引退だ。」の言葉と、ヘルメットを残してラウダは姿を消した。

もちろん事前にブラバムチームのオーナーだったバーニー・エクレストンにそのことは話していたそうだが、なんとも衝撃的な引退劇だった。

 このころ、ラウダは飛ぶことに熱中していた。
自らが飛行機を操縦することはもちろん、
航空会社の経営にも乗り出していた。
そのこととF1での成績不振が微妙にシンクロしたのか、
「同じコースをグルグル回ることがバカバカしくなった。」と感じたという。

一部ネットでの情報では、それまでドライブしていたアルファV12から、
コスワースDFVに変わったことでラウダが失望したなどとあるが、
それは間違いである。
そんな些細なことで引退するような人ではない。

 ただ、いくら「直線的な決断」のラウダとはいえ、
引退に関しては直前まで悩んだと、後年語っている。

「その日の朝、今日は乗りたくないな・・・と思ったが、
何をバカなことを考えているんだ。」と自分に言い聞かせたという。

しかし実際にヘルメットを被り、ハーネスを締め、ステアリングを握り、
いつも通り走り出したが「これまでのような感動はなかった」と感じた時、
彼は引退を決めた。

TOP画像はその引退を決意したカナダGPでのもの。
それまでノーズ先端にあったALFA ROMEOの文字はない。

 その後、ラウダに関するニュースを目にすることはなかった。
F1GPからニキ・ラウダという名前が消えた。

その間にネルソン・ピケがタイトルを獲得し、
81年にはアラン・プロストがデビューした。
F1はターボ時代に突入し、日本のホンダもエンジンサプライヤーとしてウィリアムズと組んだ。

 しかし81年オフ、ファンとしては待望のニュースが飛び込んできた。

ニキ・ラウダ 復帰

 81年あたりから噂はあった。
ブラバムに戻るか、あるいはマクラーレンが獲得するのでは?等々。
実際にはブラバムの話はなかったらしく、
マクラーレンの他にはウィリアムズからオファーがあった。
もし、ラウダがウィリアムズからの話を受けていたら
ウィリアムズ・ホンダをラウダがドライブしていたことになる。


ヘルメットに注目!マクラーレンで復帰したラウダのヘルメットは、それまでのレッドではなく、ホワイトがベースだった。このテスト時のヘルメットは79年に引退したときのブラバム時代のもの。

 81年オフに行われたマクラーレンでのテスト走行。
このテストに関して、ラウダは意外なことを口にした。

「久しぶりのF1は屈辱的なものだった。
まともに走らせることができなかった。」

あれこれと理由をつけて、頻繁にピットに戻ったという。
それでも後半は調子を取り戻し、無事にテストを終えた。
この経験もあって、食事からトレーニングまで
アルペン競技の元オーストリア代表ウイリー・ドングルに
復帰に向けてのメニューを作ってもらったというのは以前のブログにも書いた通り。

 当時高校生だった私はラウダの復帰に狂喜乱舞した。
夢が現実になった感じさえした。
しかしふと思った。

2年もブランクがあっても勝てるだろうか?

前述のとおり、ピケは既にチャンピオンであり、
プロストの速さも際立っていた。
タイトルこそ獲っていないがヴィルヌーヴもいる。
加えてルノーやフェラーリのターボ勢の速さは脅威だ。
82年当時、マクラーレンのシャーシの秀逸さはよく知られていたが、
エンジンは依然としてコスワースのままだった。

 しかし、私の心配は第3戦のロングビーチGPで解消された。
復帰後わずか3戦目で、ラウダは結果を出した。
実はラウダほどのビッグネームであっても契約書には
「開幕4戦までに相応の結果を出せない場合、
チームは一方的に契約を解除できる」という条項があったという。



「まあ、私の信頼なんてその程度だったのですよ。」
このあたりがドライな欧米文化なのだろうが、
それでもキッチリ結果を出すあたりがこの人らしい。

この年、ラウダはイギリスGPでも優勝しランキング5位となった。
翌年の83年はターボ勢に大きく水をあけられ、未勝利に終わった。
ただ、調べてみると復帰後の2年間は
僚友のジョン・ワトソンのほうが勝利数(3勝)もポイントも上回っている。
それでもラウダが放出されることがなかったのは、
このあとにポルシェターボエンジンが控えていたからだろう。

 そして迎えた84年、チームにはワトソンに代わって
あのアラン・プロストが加入することになる。
当初、「あの二人がうまくいくはずがない」と言われていた。

 結果から先に言えば、噂はただの噂だったことになる。
二人は師弟関係のようにうまくことを進めていった。

「私がチームメイトから何かを学んだとすれば、
それはニキからだけだった。」

さらに先日のラウダの葬儀に際してこんなこともコメントしている。

「ニキと過ごした84年と85年が、自分にとって最高のシーズンだった。」


 84年、F1史に残る0.5ポイントという
「史上最小ポイント差」でラウダがタイトルを獲得したのは
すでにみなさんもご存じのとおり。
ただ、それはポイント差ももちろんだが、
一度は引退したドライバーの勝利という
歴史上きわめて稀なことだということを忘れてはならないだろう。

あのミハエル・シューマッハでさえも成し遂げることはできなかった。

 フェラーリ復活を担い、そして大事故からの復活。
突然の引退を経て最小ポイント差でのタイトル獲得。
GPドライバーNiki Laudaの経歴は、すべてドラマチックとしか言いようがない。



 僭越ながら高校時代に私が描いたイラストを載せる。
ラウダが「引退していた」80年に描いた。
このあと私自身は絵の勉強を始めることになるのだが、
この絵はそれ以前に描いたものだ。
受験に失敗し、浪人していたのが84年。
ちょうどラウダが0.5ポイント差でタイトルを獲った年だ。
若く勢いのあるプロストを見るにつけ、正直ラウダは分が悪いと思っていた。
しかし実際には最後に笑ったのはラウダだった。
その姿に、当時の自分はどれだけ勇気づけられたか。

10代後半という多感で不安定な時期に
ニキ・ラウダという人は憧れの人であり
支えみたいな存在でもあった。

50を過ぎた今でも、実はその気持ちにあまり変わりはないのかも知れない。
変わったとすれば、頂点と末端の違いこそあれ
私もラウダと同じモータースポーツのフィールドにいるということだ。
Posted at 2019/06/02 18:24:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | 70~80年代F-1 | 日記
2019年06月01日 イイね!

Niki Lauda~そのドラマチックな人生 Vol.2

Niki Lauda~そのドラマチックな人生 Vol.2 ニキ・ラウダというレーシングドライバーを語るとき、必ず挙げられるのが76年の大事故からの「奇跡の復活」だろう。
事故から復活までのストーリーは映画「RUSH」でも描かれており、
ラウダファンでなくても比較的広く知れ渡っている話である。

 「RUSH」での描写はなかなかリアルで、
金属の器具を鼻から入れ、肺に溜まった有害物質を取り出すシーンは、
見ているだけでもその苦しさはいかばかりなものかと思ってしまう。
そもそも指先をちょっと火傷しただけでも数日は痛みが気になるといのに、
あれだけのケロイドが残る火傷を負ったのだから、
ラウダの苦しみは想像を絶する。

 しかし、この人の本当の苦しみは別のところにあったのではないか。

「すべての障がい者もそうだと思うけど、
みんなが普通の人間として受け入れてくれるかどうか不安がある。
それを拒むのは一種の暴力なんだ。」

この言葉からも分かるように、
あの事故のあとラウダはこの「一種の暴力」に遭うことになる。

事故直後「まるで血に飢えた吸血鬼のような」カメラマンたちがラウダを追った。
病院は出入り制限をし、もちろん病室は立ち入り禁止となった。

「それでも一人だけコウモリみたいに入り込んできたカメラマンがいて、
動くことはもちろん声も出せない僕の顔を撮影していった。」

退院後も自宅周辺にマスコミが張り付き、
警察を呼ぶ事態にもなったという。

「例えば片腕にない人にむかって、
ひどい恰好だな、腕はどうしたんだ?なんて言わないだろう?
だったらなぜ僕には言うんだ?」

「ニキ・ラウダとなると、みんな自制心をなくす。」

「そんな顔で人前に出てきて恥ずかしくないのですか?」
という質問すらあったという。

 前年(75年)、圧倒的とも言える強さと速さでチャンピオンになり、
それは同時にフェラーリを復活させることにもなった。
76年になってもその強さは衰えを見せるどころか
開幕からあのドイツGP直前までの9戦は優勝5回、2位1回、3位1回、
リタイアはわずかに1回のみと抜群の安定感と速さを誇った。


75年オフと思われるワンショット。
チームメイトのクレイ・レガッツォーニ、
そして’コマンダトーレ’エンツォ・フェラーリ。
ニューマシンの312T2を前にすべてが順調に思えたが・・・


誰もがラウダの圧勝で終わると信じて疑わなかった。

 そしてあの事故が起きた。
そのあとのことはみなさんもご存じのとおり、
ラウダは6週間後に復帰し、最終戦の日本GPでわずか1ポイント差でタイトルを逃した。

 ラウダは長い間、ニュルブルクリンクでの事故後のことは一貫して同じことを言っていた。

「事故の恐怖はない」

しかし、先日のブログにも書いたように
83年のインタビューでは、復帰第1戦イタリアGPでの心境を露呈している。

「私は恐怖でコチコチだった。
まるで1秒ごとにウンチに行かなければならないと考えるほど・・・」

インタビュアーのヘルベルト・フェルカーが嬉しそうに
「いや~とうとう白状しましたか!
以前はそんなこと、言ってなかったじゃないですか!?」と。

当時、プラクティクス後のインタビューでは
そのときのマシンの状態を話しただけらしい。
そこでもしラウダが本音を言おうものなら、
それに枝葉が付いてまったく違ったニュアンスの記事になったかも知れない。


純粋に速さを求めてレースと向き合った、
当時20代半ばの若者はF1GPという巨大な組織に身を投じ
受けた洗礼はあまりに厳しいものだったに違いない。
特にマスコミに扱いは冒頭にその例を挙げたように
あまりに残酷なものだった。



 事故後、ラウダはキャップとサングラスを放さなくなった。
事故によるケロイドを隠すためというのは
誰の目にも明らかだった。
それがかえってニキ・ラウダというドライバーの
強烈な個性を演出したとも言える。 



これはかなり珍しい1枚。
ラウダもこんなポップなサングラスをしていたことがあったとは。
よく見るとマルボロのマークが見えるところから、
おそらく支給品ではないかと思われる。

 しかし、3度目のタイトルを獲得した84年あたりから、
サングラスをしている姿が少なくなった。
もうほとんどサングラス無しで過ごしていたように見える。
何かラウダの中で変化があったのではないか。

冒頭に書いたようなマスコミによって傷つけられた青年は
年齢と共に苦境を克服していったということなのか。

フェルカー:「朝、鏡を見て思い直すことはありますか?」

ラウダ:「いいえ。これが私の新しい顔です。」



 晩年のラウダ。
こんなおどけた表情もするのは少々意外だが、
この人の写真というのは昔から割と笑顔が多い。

第一期ホンダF1の総監督だった故中村良夫氏のコメントが興味深い。

「話せばニキも冗談を飛ばす楽しい仲間であることは分かるけれど、
しかし明るく開放的なGPドライバーのマジョリティの一員でないことは確かだ。」

さらに・・・
「彼がいささかストイックになり過ぎているように思われるかもしれないが、
ニキ・ラウダとはそういう人である。」

心身共に絶望の淵まで落とされながらも蘇った人。
しかし彼にとってそれは選択の余地のない、
ラウダがよく言う「直線的な決断」だったのかも知れない。
凡人にはできない思考と決断で目的を達成する。
だからこそ、この人は今なお光り輝いて見えるではないだろうか。
Posted at 2019/06/01 23:24:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 70~80年代F-1 | 日記

プロフィール

「@ぼうんのう さん、バッテリーとエアコンまでやれば、走り出してすぐに効果を体感できますよ(^^)」
何シテル?   06/04 11:05
アルファ156 2.5V6で走ってます。 家内用にGTV3.0V6。
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