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まるしのブログ一覧

2025年07月21日 イイね!

やっぱり生はイイなぁ

やっぱり生はイイなぁやっと、ロベルト・シューマンとヨハネス・ブラームスシリーズの伏線回収編。



本日、NHK交響楽団・広島公演に夫婦で行ってきました😄



開演30分前に会場に到着。上野学園ホール(旧・広島郵便貯金会館)です。

1972年開館の、50年以上の歴史あるホール。老朽化を理由に日本郵政公社が2006年に閉館方針としましたが、その後広島市が取得し広島市文化交流会館として運用されています(上野学園ホールはネーミングライツ契約)。
存続された理由は内装が総天然木による音響の良さ。音響効果の優秀さは日本でも有数とされています。



続々と人が入場します。


割と良い席です。
もう少し後ろでも良かったかな。




演目は、シューマンのピアノ協奏曲、ブラームスの交響曲第1番です。
指揮:ダーヴィト・アフカム ピアノ:マルティン・ヘルムヒェン


演奏、どちらも良かったです。
さすがN響、音が正確でブレない。首席奏者のソロパートはさすがの美しさ。
ピアニストのヘルムヒェン氏、音色がまろやかで美しい。シューマンの精神世界を色鮮やかに表現してくれました。
アフカム氏のブラ1、ややアップテンポと抑揚の効いた演出で、重いはずの第1楽章が蕩々と流れていきます。そしてやはり第4楽章、希望と情熱がほとばしる演奏でした。

ライブであること、そして指揮者とソリストによって、CDで聞き覚えた曲とは全く違った印象でした。特にブラ1は感動しました。

奥様は普段あまりクラシックは聴きませんが、「やっぱりN響はすごいね、今日は来て良かった」とご満悦でした😊




やっぱり生はイイなぁ(*´д`*)ハァハァ
Posted at 2025/07/21 22:52:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年06月20日 イイね!

N響が来る ・・・からの、ロベルトとヨハネスの名曲

N響が来る ・・・からの、ロベルトとヨハネスの名曲つづきです。一連の物語はいよいよ最終回。

7/21のN響広島コンサート、プログラムは

シューマン ピアノ協奏曲
ブラームス 交響曲第1番

です。


まずロベルト・シューマン(1810-56)のピアノ協奏曲

当初ピアニストを目指し、世界的ピアニストのクララと結婚し、ピアノ曲の作品も非常に多いロベルトですが、意外にもピアノ協奏曲で完成したのは1曲のみです。
この曲は第1楽章が『幻想曲』として1841年に作曲され、残りの楽章は1845年、ドレスデンで完成されました。つまり31歳から35歳にかけてです。

ヴィークと格闘の後にようやく結婚したのが1840年、しばらく二人でライプツィヒに住んでいました。
新婚で幸せいっぱい・・・とばかりも言えませんでした。次々に子供が生まれ、夫婦とも仕事に育児に多忙でした。
1842年にロベルトは過労で倒れ、この頃より精神的に不安定になってきます。
1844年、クララのロシア演奏旅行に同伴し帰国してから、幻聴や高所恐怖症などに苦しみ作曲もままならなくなりました。転地療養が必要と考え、ライプツィヒ音楽院の教授職を辞し、年末にドレスデンに引っ越しました。

ドレスデンで暮らした1850年まで、徐々にひどくなる精神障害に悩まされながらも創作意欲は旺盛で、ピアノ協奏曲や交響曲第2番を完成させるなど、円熟期と言える時期です。
シューマンのピアノ協奏曲はロマン派時代のもっともすぐれた協奏曲の1つとされています。







そしてヨハネス・ブラームス(1833-97)の交響曲第1番

ずいぶん昔に紹介しましたが、着想から完成までに21年の歳月を費やした渾身の作です。

20歳の時シューマン夫妻を訪れ、親交を結びました。
22歳、ロベルトのマンフレッド序曲に触発され交響曲の作曲に着手します。しかし程なくロベルトは亡くなります。
推敲に推敲を重ね、ようやく完成し初演されたのは1876年43歳の時でした。さらに改訂され翌年に決定稿が出版されています。

ここまで時間を費やしたのは、偉大なるベートーヴェンに対する尊敬の念が強すぎ、自身が交響曲を作曲するからには生半可な物は発表できないと考えたためと言われています。超完璧主義者。
初演で大成功を収め、指揮者ハンス・フォン・ビューローは、”ベートーヴェンの第10交響曲だ”と賞賛しました。
ちなみに、交響曲第2、3、4番も名曲ですが、いずれも半年から1年程度で完成させています😅

重々しく長い第1楽章から、希望を感じさせる第4楽章へ。暗から明へ。ベートーヴェンの第9を彷彿とさせる構成も”第10交響曲”と言われる所以でしょう。

ある時ブラームスは旅先からクララの誕生日を祝う手紙に短いメロディを添えて送ったのですが、これと似たメロディが第4楽章の序奏でホルンによって奏でられています。
初演にも立ち会ったクララ、この曲を聴いて何を想ったのでしょうか・・・





今からコンサートが楽しみです😊
長々とお読みくださった方、有り難うございました<(_ _)>
Posted at 2025/06/20 17:59:35 | コメント(2) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年06月15日 イイね!

N響が来る ・・・からの、スキャンダル

N響が来る ・・・からの、スキャンダルつづきです。
写真はボンにあるシューマン夫妻の墓です。
ロベルトのレリーフを見上げているのは芸術の女神ミューズ。




ロベルト、クララ、ヨハネスが鬼籍に入り、20世紀になってから1921年、ある暴露本が匿名で発刊されました。



「フェリックス・シューマンの父親としてのヨハネス・ブラームス、ある愛の不思議」

シューマン夫妻の末子・フェリックスの父親が実はヨハネスだというものです。
暴露本はオイゲーニエの書いた回想録を下敷きに、クララを中傷する内容に書き換えていました。



これを書いたのはアルフレート・シューマン
アルフレートはシューマン夫妻の三男フェルディナントの子、つまりクララの孫です。

なぜこのような事態になったのか。
前に書いたとおり、フェルディナントは戦争で傷付いてモルヒネ中毒になり、妻子6人を残して早くに亡くなりました。
残された家族を、当然のようにクララが面倒を見ます。

どうやらこの時に、嫁姑の関係が悪化したらしい😓
真面目で几帳面なクララ、おそらく孫たちの養育について母親に意見したのでしょう。でも演奏旅行で不在の期間も長い。間を取り持つべき父親はいない。
母がクララを嫌えば、祖母と孫たちの関係も悪くなったでしょう。



フェリックスの父親がヨハネスというのは明白な嘘です。いや、真っ赤な嘘か。
ロベルトの日記から、クララの妊娠が明らかになったのは、ヨハネスと初めて会った3日後のことでした😅サスガニムリ

ロベルトの最後の言葉 ”Meine... Ich kenne...”についても、
「私は知ってるぞ・・・」と解釈し、何を知ってたのか?クララとヨハネスの不倫だ!としています。
クララの日記に記されていたこの言葉、もしクララにやましいことがあったなら、そもそも日記に書かないでしょう。
ロベルトとクララの墓碑



若きヨハネスがクララに好意を寄せたのは確かだし、しばらくはクララ一家と同じアパートに住んで家族のように子供たちの面倒を見ていたのも事実ですから、根も葉もない、とは言いきれない。世間に醜聞は広まってしまいました
なので、いまだにクララとヨハネスの関係についての話題が取り沙汰されるのです(このブログも含め)😅



しかし、残された書簡や回想録、当時の資料を研究すれば、クララは節度を持ってヨハネスや子供達に接していたことは明らかです。

逆に、現代まで残るクラシック名曲の背景には数々の人間ドラマがあったことにあらためて気付かされます。
ウィーンにあるヨハネスの墓

最後に、来月N響がプログラムに揚げている、ブラームスの交響曲第1番、シューマンのピアノ協奏曲についてその背景を見ていきたいと思います。



最終回へつづく<(_ _)>





参考HP
Wikipedia:クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか
クラシック音楽奇譚
”恋する作曲家”ブラームスのロマンティシズム
Posted at 2025/06/15 19:20:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年06月09日 イイね!

N響が来る ・・・からの、クララとヨハネスの生涯

N響が来る ・・・からの、クララとヨハネスの生涯つづきです。



クララとヨハネス、お互いに認めあい尊敬しあう関係でした。



作曲した楽譜の草稿を送って意見を聞いては推敲する、ということをお互い繰り返していましたが、ふたりとも真面目すぎるキャラのため、衝突することも多々ありました。
特にヨハネスは皮肉屋できつく言ってしまうタイプなので、その態度が非礼だと他人に嫌われることも多かったようです。

ヨハネスの作品を世に広めたいと、彼の曲を積極的に演奏していたクララに対し、
「私の曲の押し売りは止めてください」と言って傷付けたり・・・😅

娘オイゲーニエの日記にも、ヨハネスと意見を戦わせ、キツく言われて涙ぐむクララの様子が書かれています。



大きな衝突は、1868年ごろ、未亡人となったクララが演奏旅行に多忙を極めていた頃、ヨハネスは「演奏活動の一線を退いて、少し楽に暮らしてはどうか」と手紙に書き送りました。
これにクララは激怒😅ジライヲ フンダ
ピアノ演奏はクララにとって生きがいであり癒しでした。稼ぎのためにやってるんじゃない、長い付き合いなのにそんなこともわからないの?という心情でしょうか。
ヨハネスにしてみれば、クララのピアノへの情熱を軽く見たわけでは無いでしょう。つい失言してしまってから慌てる。



わだかまりが晴れないまま、クララはブレーメンで開催されたヨハネスの”レクイエム”初演にしぶしぶ出かけました。
その発表会が大成功を収め、音楽家ヨハネス・ブラームスの名声は確固たるものになりました。

クララはそこで感激のあまり涙を流しました。
曲の出来映えだけでなく、ロベルトとクララが認めた若者がいまや大作曲家となったことへの感慨でしょう。
これでまた和解できたのですが、次の大波が・・・😅





ロベルトの死後、作品を後世に残したいと考えたクララは彼の作品全集の出版についてヨハネスに相談し、協力を求めました。もちろんヨハネスは快諾。
しかし完璧主義者のヨハネスは作業の進捗が遅く・・・自分の健康不安もあり焦ったクララは協力者を増やしました。これにヨハネスは少々気分を害したようです。

一方、交響曲第4番の初稿版と晩年の改訂版、どちらを採択するかで意見が分かれました。
クララは最終完成型である改訂版を採るつもりでした。完成度よりも初稿版の若々しさを推すヨハネスは、全集とは別に初稿版の楽譜発刊を進めていました。
これを知ったクララはキレました😡1891年ごろの事です。

「作者に誰よりも近くにいた方のことですから、あなたの不満については私は何も申しません。一致は到底不可能です。」と突き放しました。
晩年の大ピーンチ😨

またまたヨハネスは大慌て。謝罪の手紙を書き送ったり、新しい作品の楽譜を送ったりしましたが、冷たいクララ。
氷河期が2年ほど続きました。




クララ74歳の誕生日に、意を決しヨハネスは誠意ある手紙をしたためます。

「寛大なあなたの心を失った私は長い間苦しみました」
「友人に対するとき不器用であることを私は自覚しておりますが、あなたはこの私の短所についても長い間忍耐してくださいました」
「(この度のことが)40年わたる忠実なご奉公の後の新たな経験と諦めてしまうのはあまりに残念です」
「あなたとご主人が私の人生の最も美しい経験であり、最も高貴で豊かであったことを今一度申し述べます」
「あなたと彼に捧げる愛情と尊敬の思いは、永遠に私の心を温め、明るく照らし続けることでしょう」

心のこもった文章。LINEのこまぎれメッセージに慣れた現代人には書けません。
これを読み、さすがにクララも和解の手紙をヨハネスに送りました😊

ロベルト・シューマン作品全集・全29巻が刊行されたのは1881年から1893にかけて、ふたりの和解の年に完成しました。
シューマン作品全集(第5巻)
クララ・シューマン編とあるのはクララのネームバリューを物語っています





その3年後1896年、クララは76年の生涯を閉じました。脳卒中でした。
ヨハネスは葬儀に駆けつけようと列車に飛び乗ったものの間違えて鈍行に乗ってしまい、葬儀には間に合わず、埋葬される直前の棺を見ただけだったそうです。
クララはロベルトと同じ墓に葬られました。

埋葬の後のヨハネス

後を追うように翌1897年、ヨハネスも63歳で亡くなりました。肝臓癌でした。
生涯独身のままでした。



これにて終了、と思いきや・・・ふたりが亡くなった後に大事件が😨
まだつづく<(_ _;)>





参考HP
Wikipedia:クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記
クララ・シューマンの生涯と感動
ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか
クラシック音楽奇譚
クララ・シューマンが出会った二人の天才
”恋する作曲家”ブラームスのロマンティシズム
Posted at 2025/06/09 13:19:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年06月03日 イイね!

N響が来る ・・・からの、クララの矜持

N響が来る ・・・からの、クララの矜持つづきです。
←クララ15歳 カワイイ





クララは生まれた時から日記を付けており(赤ん坊の頃は父ヴィークが書き😅物心ついてから本人が引き継ぎました)、音楽史上貴重な資料になっています。ヨハネスとクララの間にかわされた書簡もかなり残っています。



それらを検証すると・・・ふたりの間に男女の関係は無かったと思われます。

厳格な父ヴィークに育てられ、クララ自身も真面目で几帳面な性格でした。何よりもロベルトを心から愛し、尊敬していました。ピアノ演奏に真摯に取り組み、子供たちを育てるために必死で働きました。
いくらヨハネスがアプローチしても、彼が入り込める隙間は無かったと思われます。

旧ドイツ100マルク紙幣



ロベルトの死後、クララが子供たちに書いた手紙が残っています。

「真の友のごとく、彼は私の悲しみのすべてを分担してくれました。精一杯努力して、私の心を明るくしてくれたのです。つまり彼はあらゆる意味で私の友でした」

ヨハネスの音楽的才能を愛し、尊敬し、支援に感謝しつつも、良き友人としてのスタンスは生涯変わりませんでした。

ヨハネスも、求愛が受け入れられなくとも、クララから離れることはありませんでした。クララとその子供たちを支援し続けました。





クララのプライベートは多くの試練がありました。

ロベルトとの結婚は長い間父に妨害され、そのロベルトとも死別。
4男4女の子だくさんでしたが、クララは5人の子供たちを見送ることになります😢

長女マリーエ 音楽教師となり、独身を通す。ロベルト亡き後、演奏旅行のため家を空けがちなクララにかわり、幼い弟妹達の母代わりをこなした。クララを支え88歳の天寿を全うした。
次女エリーゼ 若くしてピアノの教授となったが実業家ゾンマーホフと結婚、一時アメリカで暮らす。晩年はフランクフルトにもどりクララを支えた。85歳の長寿。
三女ユーリエ イタリア貴族マリモット伯と結婚しましたが第3子妊娠中に結核にかかり27歳で早世。
長男エミール 1歳で夭折。
次男ルートヴィヒ やや発達障害があり、22歳で精神を病んで入院、そのまま51歳で生涯を終える。
三男フェルディナント 丈夫な子だったが、普仏戦争に従軍中リウマチになり、治療のためモルヒネ中毒になった。妻子6人を残し42歳で早世。
四女オイゲーニエ ヨハネスにレッスンを受け、ピアニスト、音楽教師として活躍しのちにイギリスで暮らす。文才もあり父ロベルトの伝記や自身の回想録を記す。独身を通し87歳の長寿。
四男フェリックス ヴァイオリンや詩作などに多彩な才能を発揮し、ヨハネスが彼の詩に曲を付け歌曲として世に出した。が、結核のため25歳で他界。

女の子ひとりと男の子は4人みな、クララより先に亡くなっています。




演奏旅行で多忙を極めるクララでしたが、それは彼女にとっての生きがいでもありました。
が、クララも齢を重ね、リウマチに悩まされ、手がだんだん動かなくなります。

ヨハネスとも相談し、教職に就くことになりました。
59歳でフランクフルト音楽院の教授に就任し、後進を育てる事に情熱を注ぎます(のちにはマリーエとオイゲーニエも講師に加わります)。
クララの名声は欧州に轟いていたので、優秀な生徒が多数集まり、クララに新たな生きがいを与えました。



このまま安らかな晩年を・・・と願いたいですが、クララとヨハネスの間に隙間風が吹きます。



つづく<(_ _;)>





参考HP
Wikipedia:クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
良好な男女関係を築く方法 〜シューマンの妻クララの場合〜
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記
クララ・シューマンの生涯と感動
ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか
クラシック音楽奇譚
”恋する作曲家”ブラームスのロマンティシズム
Posted at 2025/06/04 19:52:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記

プロフィール

「ロータスの力 ・・・職員旅行3 http://cvw.jp/b/346614/48581781/
何シテル?   08/06 22:20
私はいわゆるスーパーカー世代です。「サーキットの狼」「赤いペガサス」でロータスへのあこがれを刷り込まれ、いつかはロータス...と夢見て、ようやく07年6月、エリ...

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