
縄文杉登山以外の屋久島での写真も
フォトギャラリーにアップしましたので、ご覧ください。
意外と好評(?)だった屋久島シリーズも
最終回です。
だんだん、クルマのブログなのかどうか、分からなくなってきてるので(苦笑)
うんちく最終回は人と屋久杉との関係について。
本来屋久杉は、山岳信仰もあって、ご神木としてほとんど切られることはありませんでした。
戦国時代までは、お寺の建立など、大義名分がある時のみだったようです。
江戸時代になり、薩摩藩の支配が厳しくなると、年貢を納められない屋久島では、杉を伐採して米の代わりに納めるようになりました。
当時はトロッコなどありませんから、伐採した杉は、その場で平木という規格ものの薄板に加工して、人足がかついで運び出したそうです。江戸時代の間に多くの杉が伐採されました。屋久杉の
7割ほどが切られたと言われています。このとき切られた杉は、まっすぐで節のないものが選ばれました。現在残っている長寿の屋久杉は、朽ちたり、節やこぶがあったりして
平木に適さなかったために切られずに生き延びたと言えます。
明治以降は国有林化され、保護しつつ木材資源としての伐採も行われました。戦後は伐採量も増えましたが、自然保護運動もあり、保護区域が拡大され、2001年、伐採は終了しました。
現在屋久杉工芸品として売られているのは、
土埋木(どまいぼく)とよばれる、江戸時代に切り倒されたあと現場に残された倒木や切り株です。平木に加工された部分以外はかなりの量が森の中に放置されています。しかしそれも、あと30年ほどでなくなると言われています。
私たち観光客はトロッコ道や、ある程度整備された登山道を登って、それでも縄文杉まで片道5時間もかかりました。江戸時代の昔は原生林の道無き道をコンパスもなく歩き回り、めぼしい杉を見つけては櫓を組んで切り倒し、平木に加工して担ぎ出すという作業を繰り返していました。山の中に泊まり込んで、気の遠くなるような労力でしょう。そうしなければ年貢を納められない島民にとっては
生きる術でした。生きるためには神々しいような大木でさえ、人力で一つ一つ切り倒し運び出す、人間のすさまじいエネルギーを感じました。
今回縄文杉登山をして感じたのは、人知を越えた
自然の偉大さと、そこで生きてきた
人の凄さでした。
人間が道を誤れば、島一つ丸坊主にすることはたやすいでしょう。
人間のすばらしい
英知を自然とともに生きていくことに向けて欲しいと切に願います。
Posted at 2009/07/14 15:42:14 | |
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