
つづきです。
クルマには関係ないので、興味ない方はスルーお願いします。
タイトル写真はロベルト・シューマン40歳のころ。なんか暗い😅
1840年クララとの熱愛を成就させたロベルトですが、
次第に精神を病んでいきます。
ロベルトの兄弟もみな短命で、病を得やすい体質だったのかも知れません。
新婚当初は絶好調で、歌曲、室内楽、交響曲など相次いで完成させます、が張り切りすぎたのか?1842年には
過労で倒れます。
1843年、メンデルスゾーンが創設した
ライプツィヒ音楽院に教授として招聘され、このことをきっかけに
ヴィークと和解しました。これで精神的にも安定したかと思われましたが・・・
1844年、クララのロシア演奏旅行に5ヶ月間同伴して帰国後から、
幻聴、不眠、振戦、高所恐怖症、先端恐怖症などに悩まされ、特に幻聴はひどく作曲もままならない状態になりました。
ロベルトは作曲家・音楽評論家としてそれなりに実績を上げていました。音楽評論で紹介したメンデルスゾーンやショパンはセレブになりました。
しかしロベルト自身の収入は上がらず、子だくさんの家計はクララのコンサートに頼る部分が多かったのです。
ロベルトの病気については後世多くの研究者が議論しています。
当時一般的な疾患だった
梅毒(進行した神経梅毒)、あるいはその治療に用いられた
水銀中毒、双極性障害(いわゆる
躁鬱病)などの可能性が上げられていますが、当時のカルテが失われており結論に至っていません。
35歳のとき転地療養のためドレスデンに引っ越し、一時は安定したかと思われましたが、
1847年若くして
メンデルスゾーンが他界。盟友と言える存在だっただけにかなりショックだったようです。

1850年には熱烈に支持していた
ショパンも亡くなり、同世代の才能を相次いで失いました。
これ以降、ロベルトの精神状態は悪化の一途を辿ります。
1850年友人の推薦でデュッセルドルフの音楽監督に就任しますが、精神的症状から楽団員とのトラブル、演奏会での奇行など相次ぎ、ロベルトは孤立していきます。
このような状況下でも数多くの作品を作曲しているのがすごいというか、天才と○○は紙一重というか😨
そんな中、1853年に
運命的な出会いがありました。
ヨハネス・
ブラームスがシューマン夫妻の元を訪れたのです。

←若い頃のブラームス、めちゃ
イケメン!
ブラームスというと、音楽室にある肖像は→

同一人物とは思えない😅
つづく?<(_ _;)>
参考HP
Wikipedia:ロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
Robert Schumannの生涯
良好な男女関係を築く方法 〜シューマンの妻クララの場合〜
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記 〜クララ・シューマンを支えた男性たち〜
Posted at 2025/05/12 19:01:04 | |
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