
先日何気にテレビを見てたら、
”NHK交響楽団のコンサートが広島で開催されます”との宣伝を目にしました。
早速検索してみると、
7/21(祝)に上野学園ホール(旧郵便貯金会館)でN響コンサートがある事が分かりました。
演目は
ブラームスの交響曲第1番と、
シューマンのピアノ協奏曲です。
シューマンのピアノ協奏曲はまだ当ブログで紹介してはいませんが、CDは持っています。どちらも有名曲ですね。
N響の地方公演はメジャーな曲目が選択されるのかな。
早速チケットをゲットしました。楽しみです。
それにしても、ブラームスとシューマン、この取り合わせには思わず唸ってしまいます。
シューマンと妻クララ、ブラームスとの間にはクラシックファンには有名なドラマがあるのです。
WikiやWeb、ChatGPTで調べた事を元手に、
知ったか記事を書いてみます。
コピペな内容ですが生温かい目で見て下さい。興味ない方はスルーお願いします<(_ _;)>
ロベルト・
シューマン(1810-56)

29歳ごろ
ドイツのロマン派作曲家。のちに
ブラームスと出会うころ、彼は
ドイツ音楽界の重鎮と言える存在でした。
裕福な家庭に生まれたロベルトは、父親が音楽教育に熱心だったこともあり幼少の頃より音楽の才能を発揮します。ピアノの腕前は天才的で、10歳の頃には作曲も始めていました。
しかし16歳の時に父が死亡します。母は息子をちゃんとした職業に就かせたいと考え、18歳から法科大学に進学させました。
しかしロベルトは音楽の道も諦められず、当時ドイツで最も有名なピアノ教師であったフリードリヒ・
ヴィークに師事しました。
そのヴィークの次女が後の妻となる
クララ(1819-96)です。

😍ウツクシイ
出会った時彼女はまだ9歳。ヴィークによるスパルタ教育もありこの年ピアニストとしてデビューした天才少女で、12歳の頃にはヨーロッパ各地を演奏旅行するほどになります。
1830(20歳)年に天才バイオリニスト・パガニーニの演奏を聴き、音楽への想いが決定的になったロベルトは母親に手紙でその意志を告げます。この頃はヴィークの家に住み込みで指導を受けていました。
母はヴィークに息子の才能について意見を求めました。ヴィークは
「無理矢理法律家にすることは愚かなこと」と回答し、母親も音楽家になることを認めました。
ヴィークはピアノの師であると同時に、
音楽家シューマンを生み出した恩人でもあるのですね。
一方でかなり厳しい指導だったため、もう指導を受けるのを止めたいとも思っていたようです。
↓フリードリヒ・ヴィーク 確かに厳しそう😅
1831(21歳)年、ロベルトは練習のしすぎ?で右手を壊してしまい、ヴィークの家を出ました。
これ以降、ピアニストの道を諦め、
作曲と音楽評論の投稿に力を入れるようになります。同年代のショパンを天才が登場したと紹介したり、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任したメンデルスゾーンを絶賛したりしました。
1835年、ロベルト25歳の時、クララは16歳でゲヴァントハウスでの演奏会を成功させ、この頃から二人は恋仲になったようです。
それに気付いたかつての師・ヴィークが
激怒😨
彼にしてみれば、「せっかく
目を掛けてやったのに挫折したうえ、これからピアニストとして飛躍しようとする娘をかっさらうつもりか」ということでしょう。
まあ気持ちは分からないでもない😅
ヴィークはロベルトを出禁にする一方、娘を引っ越しさせ一人での外出禁止、手紙の検閲、ついには偽の恋人を仕立てるなど、ありとあらゆる手を使って二人を引き離そうとします。
ついに二人は・・・😨
つづく<(_ _;)>
Posted at 2025/04/29 22:42:57 | |
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