つづきです。
1853年、ヨーゼフ・
ヨアヒムの紹介でデュッセルドルフのシューマン夫妻のもとに
ヨハネス・ブラームスがやって来ました。
ヨアヒムは当代一流のバイオリニスト。12歳にしてライプツィヒ音楽院に入学しメンデルスゾーンに師事。師が亡くなったのち17歳からはゲヴァントハウス管弦楽団に所属してこの頃からシューマン夫妻やブラームスと親密な関係になっていました。
当時
ロベルト43歳、クララ34歳、ヨハネスは20歳の若者でした。
ロベルトの前でピアノソナタ1番を演奏し、ヨハネスの才能に驚嘆したロベルトはすぐにクララを呼びに行き
「クララ、まだ聴いたことの無い素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ」と賞賛したそうです。
すぐに音楽評論にヨハネスを絶賛する記事を載せました。これ以降、ブラームスは偉大な作曲家として認知されていきます。
ヨハネスもシューマン夫妻を心から敬愛し、これ以降
家族のような親密さを築いていきます。
しかしロベルトの幻聴は日に日に悪化し、精神状態は極限に達していました。
1854年2月とうとう
悲劇が起こりました。
激しい幻聴に襲われたロベルトは、
ライン川で投身自殺を図ったのです。
漁師が目撃していたため何とか救出されましたが、精神病院に収容されました。当時末子を妊娠中だったクララには自殺未遂の事実は隠されました。
ロベルトが廃人のようになってしまったため、子供たちを養うため
クララは演奏旅行に忙殺されました。留守の間、
子供達の面倒を見たのはヨハネスでした。
ヨハネスはクララ一家の引っ越し先のアパルトマンに部屋を借り、ほぼ同居のような状態で公私にわたり支援し続けました。
1856年7月29日、
ロベルトは46歳の生涯を閉じました。クララがロベルトと2年振りに会ったのは臨終の前日でした。

ボンにあるシューマンの墓
ロベルトの最後の言葉は・・・
”Meine... Ich kenne...”でした。
クララの日記に記されています。
Nur Einmal verstand ich "meine", gewiß wollte er "Clara" sagen, denn er sah mich freundlich dabei an, dann noch einmal "ich kenne"--"Dich" wahrscheinlich.
「私の・・・(クララ)、(君だと)分かっているよ・・・」とクララは解釈しています。
この最後の言葉が、後世のスキャンダル?のネタにされます。が、その話はもう少し先で。
多くの子供たちを残してロベルトは旅立ってしまい、クララは心身共に厳しい状況となりました。
しかし、夫妻の知人、友人が彼女を支えまました。
バイオリストのヨーゼフ・ヨアヒム、フェリックス・メンデルスゾーンの弟パウル、フェリックスと親密でクララとも仲の良かったオペラ歌手のジェニー・リンド、そしてヨハネス。
クララとヨハネスは
恋愛関係にあったのではないかと、よく取り沙汰されます。
実際、1855年頃(ロベルトが精神病院に収容されている時)、ヨハネスはクララに
熱烈なラブレターを何度も書き送っています。
「死ぬほど貴女を愛していますと、文字に書くのではなく、今日、僕自身の口から貴女に申し上げるのを神が許し給わんことを!」
「貴女を思い、貴女の手紙を読み返し、貴女の写真を眺める以外に、何も手につきません。いったい僕をどうなさったのでしょうか?」
もうぞっこんですね😅
それに対しクララは・・・
つづく<(_ _;)>
参考HP
Wikipedia:ロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
Robert Schumannの生涯
良好な男女関係を築く方法 〜シューマンの妻クララの場合〜
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記 〜クララ・シューマンを支えた男性たち〜
クララ・シューマンの生涯と感動
ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか
”恋する作曲家”ブラームスのロマンティシズム
Posted at 2025/05/21 23:07:39 | |
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