7
レース終了後、コース脇に設けられている駐車場で成海は着替えをしていた。もちろん更衣室などシャレたものは、こんな所には存在しないので、青空生着替えが通常なのだ。しかしながら、いかに成海といえど一端の女子である。そこは男並みの事はできないので、タオルケットで作ったポンチョに身を包み、その中での着替えを行う。そしてあおりを倒した軽トラの荷台に座り、不機嫌そうにオフブーツを脱ぐ。その近くには七菜香の姿があった。
そこへ、MXジャージを着たままの岩野がやってきた。
「どうっスか成海ちゃん。足回りのセッティングの奥深さが分かったっスか?」
などと痛いところを付いてくる。ふくれ顔の成海は、コンバースオールスターハイカット履く。
一息吐きながら、『やれやれ』 といった表情の岩野。
「ナルちゃん、そんなに怒らないで」
七菜香が心配そうな表情で成海をなだめる。
「いや別に怒ってなんか…。ただ下村さんが観てたのに…ブツブツブツ」
更に心の中でもブツブツ呟く。
『あんな邪魔さえなければ…。いや、違う。こんなんじゃダメなんだ。もっと速くならないと !! そうじゃなきゃ、下村さんに喜んで貰えない…』
その時だった。妙な雰囲気の上場見がフラリと現われ、少しラリった様子で横から声をかけて来た。
「おうコラ、このクソアマァ~、人の目の前をチョロチョロとウゼェ走りしやがってよぉ~」
上場見に視線が集まる。明らかな敵意であった。しかし成海は、少しも臆することなく、凛々しい表情で上場見を睨みつけた。
「お~お~怖ぇ~なぁ~」
ヘラヘラとした表情を一変させ、凶悪な蛇顔となる上場見。
「俺のバイクまで壊しやがってよぉ」
その言葉を聞き成海が喰ってかかった。
「ふざけんな ! あれはアンタがアタシに向かって突っ込んできたんだろ !! 」
またヘラヘラとした表情に戻る上場見。
「まあいい。テメエは無理だろうけどよぉ、そっちのメガネのお友達に修理代を払って貰おうかぁ~。あん !? 」
そう言うや否や、上場見は蛇のように素早い動きで、スルスルと七菜香に詰め寄り、右手で彼女の胸を鷲掴みにした。
「ひゃうっ」
七菜香の身体が硬直する。
「ひっひっひ。お前がウチの店(デリヘル)で働けぇ。俺が直々に仕込んでやっからよぅ~」
上場見が、ハ虫類を連想させる細長い舌をベロリと垂らした。
「いやだぁやめてーー ! 」
抵抗する七菜香。しかし上場見はこれ見よがしに胸を揉んできた。
その時、成海の中でブチッと何かが音を立ててキレた。 弾かれた様に身体が動き一瞬で間合いを詰め、間髪を入れずに上場見の右手首へ前蹴りを放った。濡れタオルで叩かれたような音が響く。そこで纏っていたポンチョを脱ぎ捨てながら、怪鳥の鳴き声にも似た気合を一閃いれる。
「シャラーーー !! 」
しなやかに引き締まった、成海の上半身が露わになった。黒いスポーツブラを着用はしていたが、小振りながらも形の良い乳房が見て取れる。
七菜香から上場見が離れ、その間に成海が立ち塞がる。左構えのオーソドックススタイルを取った。
「こおのクソアマがぁ~ !! 」
凶悪な蛇顔に戻る上場見。
「クソは手前ぇだぁーー ! ゲスヤロー !! 」
成海が吼えた。
そんな成海の気合いに呼応したかのように、岩野が上場見に飛び付いた。後ろから抱きつく形となり、左腕を後ろ手に取り押さえる。
「もうやめるっスよ ! 」
「ひっひっひ。なんだぁ~オイ !? 」
上場見はその体勢から、平然と体を右に捻り出した。奴の左腕から岩野の手に “ゴリゴリ” と骨の軋む感触が伝わってくる。そして間もなく、上場見の左肩が嫌な音を立てて外れた。
「何考えてんスか !? 」
岩野は思わず手を離してしまう。
今度は正対した上場見が、岩野のこめかみの辺りに、勢いよく右肘を打ち込んできた。
「グッ」
驚きと意表。まともに肘を食らった岩野は片膝をつき、上場見を見上げた。
左腕はだらんと垂らしたまま、奴はヘラヘラと笑っている。
「痛みを感じてねーんスか !? 」
「ひっひっひ」
更に下卑た笑いをする上場見。
その場にいた全員に冷汗が流れた。が、その時だった。とてつもない威圧感と共に、下村が現われ、成海と七菜香の前に立ち、上場見を睨みつけた。
「何してんだ上場見」
下村の低音の声には相当な凄身がある。
そこで上場見は急に態度を変え、慌てた様子で答えた。
「あっ、いやいやいや下村さん。別にSANTANAと事を構えようなんて気はサラサラ無ぇーんですよ」
下村は更に睨みつけた。
「…じゃあナンだ !? 」
口元を吊りあがらせる上場見。
「いやただね、手ぇ出されたらこっちだって降りかかる火の粉は払いますぜ」
それを聞き “カッ” ときたのは成海だった。
「ふざけんなぁーー ! お前が先に…」
言いかけ、後ろ手に成海を制する下村。
「文句があるなら俺に言え」
ヘラヘラと笑いながら答える上場見。
「SANTANAに文句なんてありゃあしませんぜ。しかしそっちのお嬢ちゃん達は別ですがね ! ひっひっひ」
「なんだと !? 」
一歩前に踏み出す下村。それを見て後ずさりする上場見。
「おお~~怖い怖い。俺ぁさっさ退散しますわ」
左腕をだらんと垂らしたままの状態で、奴は成海を睨み付けた。
「じゃあまたなお嬢ちゃん達。ひっひっひ」
そう言い上場見はそそくさと退散していった。
しかしながら下村は、そんな奴の後ろ姿を、なんとも寂しそうな表情で見送っていた。
「バイクは良い腕してんのにな…。どこであんなんなっちまったんだろ…」
うずくまる七菜香の肩を抱いていた成海は、複雑な気持ちで下村を見上げていた。
8
その夜。ペンション輪道のガレージで、成海はKX500の整備をしていた。オフ車用レーサースタンドにバイクを載せ、リヤサスのプリロード調整を行っていた。やはり岩野の言葉が成海には響いていたのだ。
だがそれ以上に、『もっともっと速く走れるようになりたい』 そんな気持ちが成海を突き動かしていた。
しかし、そんな衝動とは裏腹に、近くに置かれたラジオからは流行りのラブソングが流れ、なんともゆっくりしたメロディーを奏でている『~♪』
そして甘い2ストオイルの香りが充満するガレージ内には、KTCの大型工具箱、その他にアーク溶接用酸素ボンベ、フライス、旋盤があり、壁にはチャンバーが4本ぶら下がっている。その殆どは源三にしか扱えない代物だが、それなりに知識のある者がその気になれば、かなりの重整備が可能なガレージであることが見て取れる。
成海にとっては心落ち着くスペースであるのと同時に、祖父・源三と、堅い絆が結ばれたガレージでもある。幼い頃からここでたくさんの事を教わった。祖父は本当にあらゆることを伝えてくれた。それは妹の七菜香も同様で、彼女にとっての思い入れのある場所とは、ペンションのキッチンであろう。
両親を失っている彼女達にとって、祖父はあまりにも偉大であった。時には厳しい父親であり、また時には優しい母親のような存在。それに成海にとってはバイクの師匠であり、空手の先生でもあった。
一人で作業をしていると、様々な事が頭を過る。 そんな時であった。入口付近に七菜香が現われた。少し様子がおかしい。
「ナルちゃん…」
少し脅えていた。か細い声で成海を呼ぶ。
異変に気付いた成海が七菜香に歩み寄る。
「どうしたナナ?…まさか胸痛むの?」
パジャマ姿の胸元に、赤くなった痣が見えた。
「ううん…そうじゃないけど…なんだか怖くて…」
言うや否や、七菜香は目に涙を浮かべながら成海の胸に飛び込んだ。
「わたしナルちゃんが羨ましい。強くてたくましくて、バイクに乗るのが上手で…わたしは何にも…」
最後の言葉を遮るように成海が言う。
「ううん。そんな事ない。アタシはね、逆にナナが羨ましいよ。アタシはガサツだけど、ナナは優しくてカワイくて料理が上手で。ナナはお母さんによく似てるよ」
そう諭しながら、幼い記憶に残る、とても優しくて綺麗だった母の姿を思い浮かべていた。それから2人はきつく抱き締め合った。少しの間、七菜香は声を殺して成海の胸で泣き続けていた。
9
次の日の朝。そこにはいつも通りの日常があった。
パイプを吹かしながら濃いコーヒーを飲む源三の姿と、朝食の用意をする七菜香の姿。成海は寝ぼけ眼でそんな風景を見ながら、“ホッ” とした気持ちになっていた。
しかしその穏やかな朝とは裏腹に、テレビから強烈なニュースが流れた。それは指名手配となった上場見のニュースであった。
テレビ 『昨晩午後9時、道警は売春防止法違反の疑いでデリヘル店経営の店長「上場見顎(25)」容疑者を全国に指名手配しました。現在上場見容疑者は逃走を続けており、道警は行方を追っています。その他にも麻薬取締法違反の疑いもあり、逮捕後には容疑を固める方針です』
女のキャスターが硬い表情でニュースを伝える一方、平静を装う七菜香ではあるが、動揺は隠しきれない様子だった。手が細かく震えている。 が、成海は無表情にテレビを見つめながら、努めて興味無さ気に呟いた。
「アイツはもう終わりだね。ナナも気にしなくていいよ。どうせどっかにトンズラして、この辺になんか居やしないんだから」
無言で頷く七菜香。しかしそんな成海も少なからず動揺していた。身体の中で小さな不安が一つ脈を打ち、机の下では脚が一瞬 “ブルッ” と震えた。
つづく