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半ねりのブログ一覧

2020年09月25日 イイね!

久々の柳沢峠、ドチャクソ疲れた

不意に現れた4連休を、食う寝るスプラ食う寝るスプラを繰り返して最終日を迎えてしまったので、人権回復のために本当に久々に柳沢峠に行ってきた。

いつもの青梅のコンビニ。トンボが飛んでいて秋の雰囲気



奥多摩湖。この辺りまでなら結構来ている。前来たときは非常用の洪水吐から放水していたが、今回は水は少なかった。



丹波山村の道の駅。川まで降りて顔を洗い、鹿肉コロッケを食べた。





わらび餅で有名な、はまやらわ。今回は食べなかったけど美味しい。



到着。標高は1470mくらいで2702mの乗鞍を制した(?)私からすれば大したことない獲得標高に思えるが、ドチャクソ疲れた。塩山駅まで降ってあずさ?かいじ?で帰った。



自宅 → 青梅 6:40 → 9:40(3:00)
青梅 → 奥多摩駅 10:00 → 11:00(1:00)
奥多摩駅 → 奥多摩湖 11:00 → 11:30(0:30)
奥多摩湖 → 丹波山村 11:30 → 12:40(1:10)
丹波山村 → はまやらわ 13:10 → 15:00(1:50)
はまやらわ → 柳沢峠 15:00 → 15:30(0:30)
Posted at 2020/09/25 02:09:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年09月20日 イイね!

[本の小並感 137]音速平和 容赦のない資本とテクノロジーの暴力による音速平和な日常

[本の小並感 137]音速平和 容赦のない資本とテクノロジーの暴力による音速平和な日常最初に水無田気流を知ったのは、何かの新聞記事だったと思う。埼玉に住んでいた頃だったから、もう10年近く前だろう。もうその記事の内容は覚えていないが、普段詩など全く関心のない私が、それがきっかけでこの本を買ったのだ。その後、この本を知人に貸して戻ってこなかったが、改めて買った。

太陽の下では
新しいものは何一つ成立せず
名前のついた私の日常は
呼ばれるたびに消えていく


ライオンは名付けられる以前、悪鬼の様な恐るべき超自然的存在であった。だが、ライオンと名前をつけられた途端、それは人間の征服可能な単なる野生動物へと変換せしめられた。世界はこの凄まじい強度と速度を誇る意味の書き換えの暴力性に恍惚としている。

世界は晴れている
晴れながら凍っている
カタカタと日向は震え
震えながら晴れ渡る


この詩集全体にわたって、太陽がこの意味の書き換えの暴力性を表すものとして設定されており、その太陽の暴力に対地されるのが「雨」である。雨はこの書き換えの暴力の熱波に一瞬の休息をもたらす。

空の青が開けひらく徴の真下で
クダラナイことでできている
砂糖城の天辺から
手を振る私の視界を超え
やがて世界に越境雨が降る
音もなく
水分の匂いをまきながら


しかし、その休息自体もまた、その「かけがえのなさ」ゆえに、より一層の商品価値を与えられて瞬時に書き換えられてしまう。

例えば、PS5が50万円で転売されるのは、(実際、取引が成立したかは知らないが)それだけの価値を見出すに人間がいるからである。そして、ネットによる大規模なマッチングシステムは、ダイナミックプライシングを実質的に可能にするまでに取引コストを低下させ、一層この書き換えを加速している。

そして、それでよいのか?というのが著者の問題提起である。「私の関心は常に、この変換の際に消去されたものにある。」

ビー玉状に固まる世界を切り取り
振り下ろされるボーリング作業の合間
内部に拡散されていく破片風景を痛む

周縁世界が溶ける場所で
開始と終止の二重奏を、痛む


周縁世界では、まるで走っていなければ倒れてしまう自転車の様に、太陽と雨とが交互に意味の書き換えと商品価値の付与を高速で繰り返し加速し続ける。その変換の際に「消去され、こぼれ落ちてしまったもの」とは何なのか。容赦のない資本とテクノロジーの暴力の前に呆然と立ちすくむ音速平和な日常。我々が生きているのは、そんな世界なのだ。

10年前に読んだときは、何となくカッコイイくらいの感想しかなかった気がするが、今回は少し意味がわかった気がする。
Posted at 2020/09/20 19:01:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年09月17日 イイね!

[本の小並感 136]相模原事件 裁判傍聴記 開き直りは葛藤から逃げた植松と同じではないか

[本の小並感 136]相模原事件 裁判傍聴記 開き直りは葛藤から逃げた植松と同じではないかやまゆり園事件の2冊目。

個人的には「植松聖とは、自分自身の一部である」という結論が前の本で出ているので別に読まなくてもよかったのだが、雨宮処凛という人がこの事件をどう見たのかに少し興味があった。断片的にメモしておく。

○家族の限界について

重度障害者の介護は家ではほとんど不可能だろう。自分の子供や親の面倒を自分で見たい。その理想は美しいが崩壊する。本書には

読み上げられた調書には、一緒に暮らすことに限界を感じたという家族の言葉が多くあり、植松被告の主張を図らずも補強してしまう様な危うさがあった。

とあるが、このことを「危うさ」と表現してしまうことに違和感を覚える。事件直後、「大規模施設では、いつかああいう事件が起こるとどこかで思っていた」という福祉関係者も少なくなかったという。植松死刑囚の主張は、それがごく一部であるとはいえ、介護現場の苦しさを表しているのだ。そのことから目を逸らしてはいないか。

◯植松死刑囚の葛藤

重度障害者の介護の現場では「この人は幸せなのか、苦しみに満ちているのではないか、生きる意味はあるのか、死なせてあげた方がいいのではないか」という葛藤が職員を苛む。

植松死刑囚はその葛藤に耐えられず、最悪の答えを導き出した。その通りかも知れない。そしてその様な葛藤に周囲が正面から答えられなかった。植松死刑囚が周囲に殺害の計画を話すとき、それは植松死刑囚からのSOSだったのではないか、というのそうかも知れない。

しかし、上記の様に一緒に暮らすことに限界を感じたという家族の調書を「危うさ」としてしまう著者でも彼の葛藤に正面から答えることはできない様に思う。

○社会背景との関係

著者は「役に立たなければ生きている価値がない」という価値観が社会を覆っており、だから植松聖は「役に立ちたい」と考えて犯行に及んだ、と言いたい様だ。そして、役に立たなくても生きてく、という開き直り系運動に参加している。

それは結構なことだし、特に就職氷河期と言われた世代は硬直的な労働力市場の煽りを受けほとんど身分制度と言っていい様な状況を強いられている。しかし、それを犯行の原因と直接的に結びつけるのは短絡的だろう(本書でも迷っている様に感じる)。

前の本では森達也が、命が平等であるなら出生前診断は認めないのか、という矛盾に植松は合口を突きつけ、答えられない私たちは綺麗事を掲げ直すしかない、としている。開き直りはある意味逃げであり、それは葛藤から逃げた植松と同じではないか。
Posted at 2020/09/17 21:31:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年09月06日 イイね!

[本の小並感 134]やまゆり園事件 「植松聖」とは誰なのか

[本の小並感 134]やまゆり園事件 「植松聖」とは誰なのかやまゆり園事件 「植松聖」とは誰なのか

1. 祖母の介護の思い出

私は祖母と暮らしていたが、晩年はボケてしまい介護が大変だった。と言っても私は特に何をするでもなく、母が介護していた。

母の毎日は過酷だった。朝、朝食や私の弁当を作り、祖母を迎えにきてくれる介護施設の車に送り、パートに働きに出て、夕飯を作り、祖母に食べさせ、トイレの世話もした。

夜徘徊してしまうので十分に眠ることができず、半分ノイローゼになってしまった母は、時に祖母に厳しい言葉を浴びせ暴力もあった(深刻ではなかった)。家の雰囲気は暗く、刺々しかった。

祖母が亡くなったのは私が高校生の頃だった。「お母ちゃん、大好き」。そう言って母は泣きながら棺を覆った。

介護は無茶苦茶大変である。

2. 植松聖は介護施設で何を見たのか

植松聖が「障害者は必要ない」という思想に至った直接の原因は、介護施設で働いたことだった。「障害者は必要ないという考えは、やまゆり園で働くまで全く考えたことはありませんでした」そう植松は語っている。

働き始めた当初、すれ違いざまに入所者に軽い暴力を振るう職員がいた。植松が同僚らに「暴力はよくない」と伝えると、「最初だからそう思うよね」「2、3年後に同じことが言えるか楽しみだな」などと言われた。

植松聖が津久井やまゆり園で見た景色が、私には何となく想像できる。裁判は責任能力に焦点が当てられ施設の実態は明らかになっていないが、黒岩知事が設置した支援実態を検証する第三者委員会は、身体拘束など「一部の利用者に虐待の疑いが極めて強い行為が長期間行われていた」とした報告書をまとめた。また別の施設で働いていた元アルバイトは、この事件に対して「気持ちはわかるけど、殺しちゃいけないよね」言ったという。

3. 植松聖とは誰なのか

私は、母の祖母の介護を(何もせず横で)見ていた経験から、「おばあちゃんさえいなければ」という想いがあったことを否定できない。祖母が亡くなったとき、ホッとした側面があるのではないか?という問いに、完全にNoとは言い切れない。

私が植松を否定したい、忘れたい、なかったことにしたいという思いは、このような自分の中のドス黒い部分がエグり出されてしまうからだ。だから本書の問い「植松聖とは誰なのか」に対する私の答えは、「私自身の一部」である。

4. 闇落ちしないために

なお、植松は「自分が優れた人物で有意義な人生を送っていれば、楽しくて事件は思いつかなかった」と語っている。この言葉に嘘はないだろう。矮小な自分、何者にもなれない自分を否定したかったのだ。

これはあっけないほど単純な動機だが、自分自身が経済的に自立し、充実した生活を送れるようになることこそが、自らの闇落ちすを防いでくれるだろう。本書の中に弱者を切り捨てるような社会的風潮云々の記載はあるが、実際は富裕層ほど弱者に優しくなれるのだ。
Posted at 2020/09/06 23:25:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年09月06日 イイね!

小林よしのり台湾論 「公」の実現は見果てぬ夢か

小林よしのり台湾論 「公」の実現は見果てぬ夢かもうちょっと前だが李登輝が亡くなった。

小林よしのりは、ちょいちょいブログを読むくらいで、久しく漫画は読んでいなかったが、これを機会に台湾論を読んでみた。

何が言いたいの感

彼の漫画は戦争論くらいから熱心に読んでいたが、久々に読むと何の意味があるのかよくわからないシーンが多い。派手な漫画は論旨の理解を邪魔しているように思う。昔はこれを面白いと思っていたのだろうか?

民主化とアイデンティティ

台湾の歴史はよく知らなかったので、それは勉強になった。内省人と外省人という言葉も初めて知った。従来から台湾に住んでいた人を内省人といい、戦後蒋介石と共に中国から渡ってきた人を外省人というらしい。

外省人は人口の16 %ほどだが国民党の独裁体制は続き、1949年から1987年まで38年間も戒厳令下に置かれる。その体制を国民党の内部から破壊し民主化を実現させたのが李登輝だった。

という訳で、台湾は中国とは異なるアイデンティティがある。民主化は一層台湾人としてのアンデンティティを問う、らしい。日本の場合は、甘えが氾濫した訳だが今の台湾はどうだろうか。

強いリーダーと、「公」の実現

彼に一貫しているのは、人的に徳の高い人物が強いリーダーシップを発揮して日本を導いていくような国家像?だ。李登輝とのインタビューでは、彼のようなリーダーが日本にいないことを嘆く。

しかし、どうだろうか。日本は歴史的にボトムアップの意思決定システムだ。これは彼自身が天皇論の中で、天皇というのは権力を分散させ、独裁を防ぐことで平和を維持するシステムなのだと書いている通りである。

そしてうまく言えないが、彼の言う「公」意識の欠如も、このことと無関係ではない気がする。

良くも悪くも彼のいうような「公」意識は、日本には昔から存在しない。小林よしのりは、ナショナリズムによってそれを実現させようとしているが、これは福澤諭吉が「政府ありてネイションなし」と言ったことと符号する。しかし、彼が評価する戦前の日本人も戦争に負けたらあっさりアメリカ万歳でチョコレートをねだったのだ。

日本にはキリスト教のような倫理意識の規範はない。あるのは「世間」という人間関係と、それが作り出す「空気」という怪物のみである。だから、彼の目指す「公」意識の醸成というのは一神教における神を作り出すような見果てぬ夢であるように感じる。

ちょっと大げさだろうか。マシにする、くらいはできると思う。何だろう、明治維新は彼の中のモデルだろうか。
Posted at 2020/09/06 02:47:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「ビート、手放しました。13年ありがとう! http://cvw.jp/b/410066/45136597/
何シテル?   05/23 22:55
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」
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