せっかく遠方まで旅行するので、なかなか行けない場所にある戦争遺跡も巡ってくることにしました。
一つ目が
詫間海軍航空隊跡。
香川県三豊市詫間町香田の海沿いにあります。
この基地は水上機の実機練習部隊として昭和18年6月に設置されました。
12機の水上偵察機と48機の練習飛行艇を装備し、飛行艇搭乗員の重要な養成施設だったようです。
しかし戦局が悪化し敗勢濃厚となると、沖縄戦に備えて特攻作戦基地となりました。
特攻というとゼロ戦が使われたイメージが一般的だと思いますが、実際には「飛べる飛行機なら何でも使う」というのが実態です。しかしここ詫間では二式飛行艇すら特攻機として使ったとのこと。

二式飛行艇は全長28.13 m、全幅38.00 mの巨大さで、最高速度は465 km/h(高度5,000 m)です。ゼロ戦54型が約572.3 km/h(高度6,000m)、グラマンF6Fヘルキャットは約600km/hなのでかなり遅いことになり、敵の的になりやすくなります。
それでも突撃せよと。
当時の日本海軍はいかに非人間的な意思決定を行う組織だったことか…。
二式飛行艇は近々公開予定のゴジラマイナスゼロに出るようですが、実はこんな悲しい逸話が残されているとは、ここに来るまで知りませんでした。
ちなみにこの基地に残されていた1機の飛行艇は戦後米軍に接収されて飛行試験などが行われ、その圧倒的な高性能はアメリカ人たちを大いに驚かせたそうです。
その後、その機体は米軍での破棄が決定されましたが、日本での返還運動などを経て1979年11月に返還されて船の科学館に展示され、2004年4月からは鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地史料館に屋外展示されています。
現地には小さな石碑と、防空壕跡がひっそりと残っています。
説明板によるとここには整備工場も併設され学徒動員による年少者が整備にあたっていたのだとか。
撃ち落されるのが分かっている飛行艇に乗る若い搭乗員たち。
そしてその飛行艇を必死に整備する子供たち。
なんと悲しい日々なのでしょう…
近くには防空壕跡も残っていますが、中には入れないようになっていました。

壁面のコンクリートは一部崩落しており、既に物資が不足していた状況の中で築造されたことを想起させます。
悲しい歴史を無言のうちに物語る貴重な戦争遺産ですね。
このあとの移動中に通り過ぎたのは陸上自衛隊善通寺駐屯地。停車もせず写真も撮りませんでしたが、戦争中に建てられた赤レンガの建物3棟が現存します。これは旧陸軍第11師団兵器庫跡は、それぞれ1909年、1911年、1921年に完成した歴史的建造物です。
善通寺駐屯地には当時、陸軍第11師団などが置かれ、旧軍時代から四国地方における最大・最重要駐屯地の軍都として栄えたという経過があるそうです。
さて、もう1か所訪れたのは、岡山県津山市高尾にある
日植記念館。
こちらには戦艦陸奥の高角砲などが展示されていると聞いて、一度訪れてみたいとずっと考えていた場所です。
記念館は日植グリーンファクトリー(株)という会社の敷地内にあります。

日本植生グループの前身である柴田農園の創業30年、日本植生の創立20周年の記念事業として昭和56年5月に建設したものです。
創業者の方は16歳で海軍に入って連合艦隊の訓練と太平洋戦争に従軍したそうで、そのゆかりからこうした記念館を設立したものと思われます。
従軍中には駆逐艦谷風にも乗艦し、ミッドウェー海戦にも参加したそうですが、その時の谷風は大破漂流中の空母飛龍を捜索に出かけ、その途中に米軍機の空襲で79発もの爆弾を全て回避して生還して米軍を驚かせています。
敷地の奥へ進むと、屋外展示がお出迎え。
最も大きいのが89式12.7cm連装高角砲。

戦艦陸奥に搭載されていたものです。
その他にも多くの展示物が置かれています。
こちらには防雷具フェアリーダーも見られます。
22号電探のラッパ部分もありました!
これは陸奥主砲砲身の一部のようです。
内側にライフルリングが切られていますね。
この日は早い時間に訪れたので記念館の建物内部には入れませんでしたが、狭いスペースながらも数多くの貴重な品々が置かれている(館内は撮影禁止)ようです。見たかった…。
特に屋外展示については紫外線や心無いいたずら等による劣化や破損が心配です。高さのあるマストはともかくとして、その他の品々は出来れば屋根のある場所で保存されるとよいのではないかと思いました。
こうした戦争に関する遺産については、「戦争そのものが負の歴史なのだから、それに関係するものを残す必要はない」といった考え方も一部にあります。
しかし、日本が戦争を起こしたことは歴史的な事実です。そして、互いに傷つけ、命を奪い合うための兵器が造られ、戦地に赴かない一般市民も、学生や女性を含めて工場労働などに動員されるなど、国を挙げて戦争を遂行していた歴史があります。
言うまでもなく、こうした事態は二度と繰り返されてはなりません。しかし、その反省を単に書物などで伝えるだけでは、戦争の実態を実感を伴って理解することは難しいのではないでしょうか。だからこそ、実物としての戦争遺産を見学することを通じて、
・技術と産業の歴史を伝える(どんな技術が使われ、どれほどの労働力が投入されたか)
・戦争の実態を伝える(施設や兵器がどう使われ、どんな結果をもたらしたか)
・人間の経験を伝える(軍人だけでなく、一般市民や占領地の住民がどのように戦争に関わり、何を経験したのか)
といったことを、実物ならではの迫力と説得力を通じて感じ取り、考えることが大切なのではないかと思います。
近年、原爆ドームの保存をめぐって議論が起こることがありますが、被爆の惨禍を今に伝える象徴的な存在としての原爆ドームの価値は、何物にも代えがたいものです。
もう一つの被爆地である長崎では、被爆に関わる建造物や遺構の一部が保存されずに失われました。広島と長崎では、被爆の記憶を伝える施設や象徴のあり方にも違いがあります。こうした違いが、それぞれの被爆地に対する社会的な認識に影響している可能性もあるのではないでしょうか。戦争や被爆の記憶を伝えるうえで、実物を保存することがいかに重要であるかを考えさせられます。
また、「兵器が好き=戦争が好き」という見方もあります。
こうした見方は、「兵器は人を殺傷するための道具である」という一面だけに着目し、兵器への関心と戦争への賛同を同一視することから生まれるのではないでしょうか。
兵器が人を殺傷するための道具であることは、当然、理解しておくべき事実です。しかし、兵器の構造や技術に関心を持つことと、人を殺したい、あるいは戦争を起こしたいと考えることは別の問題です。むしろ、兵器の開発経緯や実際の使われ方、そして戦闘がもたらした結末を学ぶことで、戦争がいかに悲惨なものであるか、兵器がどれほど多くの人々の命や生活を奪い得るものであるかを理解することにもつながります。
太平洋戦争の敗戦後、日本を占領した連合国軍、とりわけGHQによって、占領政策や連合国軍に対する批判などを制限する報道・出版の検閲が行われました。こうした言論統制には、占領政策に不都合な論調が広がることを抑える側面がありました。また、終戦前後には、日本側による機密文書の焼却や、占領政策に伴う軍事施設・軍需産業の解体なども進み、多くの戦争関連資料や施設が失われました。
こうした占領政策や戦後の変化を通じて、軍国主義を否定し、平和を志向する意識が醸成された側面はあるでしょう。一方で、占領軍自身の行為や占領政策について、自由に批判・検証することが制限された時期があったことも忘れてはなりません。
歴史を一方的な勝者の物語にしないためには、勝者の行為も敗者の行為も、同じように検証できる状態にしておくことが重要です。そのためにも、戦争遺産を単に過去の負の遺物として排除するのではなく、歴史を検証し、後世に伝えるための貴重な資料として保存していく必要があるのではないでしょうか。
そして、そうした遺産を通じて過去の戦争を学び、二度と同じ過ちを繰り返さないという意識を持ち続けることこそ、私たちが戦争遺産を大切にする意義なのだと思います。
撮影した写真はフォトアルバムに収めました。
詫間海軍航空隊跡・日植記念館