艦橋窓枠が中華帝国から届くまでしばらく時間がありますが、その間に窓枠以外を完成させます。
艦橋トップの防空指揮所両側は単装機銃座がありますが、後期建造艦は前期のそれに比べて広いスペースが確保されています。
3枚目画像の復員局資料にあるように、機銃座は艦の幅いっぱいまであり、鋼製ブルワークを備えています。
これらの写真の中で注目したのは19号のこちら↓
下段の銃座は平面が台形になっていますが、上段の銃座はどうやら複雑なライン構成の様子。青い線は上下がほぼ平行になっていますが、赤・緑と黄色は平行ではありません。
他艦の写真では上下とも台形に見えるものもあるので、19号だけ形状が違うというのは不自然。果たしてこれは目の錯覚なのか…。
暫く悩んだ挙げ句、赤・緑と黄色は平行ではないと結論付け、このように作ってみました。
その後、機銃座ブルワークと弾薬箱を設置。弾薬箱は撤去された可能性もありますが、物入れなどに使えるので残されたことにしました。
捕鯨母船時代の第19号の特徴の一つに、探照灯が艦橋トップに移設された点があります。これは捕鯨母船時代や引渡し前の写真で確認できます。
ここでその移設時期を検討します。
というのは、F様からの希望として「探照灯移設後の状態を再現してほしい」というものがあるので、移設時期を特定することでジオラマの場面をより具体的に特定できるからです。
F様より頂いている文献資料を読み込みます。
1つ目は19号の副長・細谷氏の日記です。これによると昭和20年12月1日に艦をドックに移動させ翌2日より改装を開始し、7日には「大体に於いて工事の見通しつき」とあり、19日に全艦塗装を開始し「工事どうやら完成」、25日に「外舷塗装終了」とあり、大掛かりな工事は最初の6日間で終えているようです。しかしながらこの記載の中には探照灯について触れた部分はありません。
このあと操業中の3月12日に「サーチライトにより本船位置を知らす。仰角40°位になすを要すべし。」とあります。
40°とする必要性が、遠くから本船の位置を認識できるようにするためのものなのか、40°以下では探照灯の光線が外へ向かないということなのか不明です。というのも、元々の探照灯位置は中央機銃台の真ん中ですが、復員船時代にその両側=三連装機銃の跡に木造建屋が作られており、その状態で探照灯を水平に照射すると建屋に光線が当たってしまうのです。いずれにせよ先程の表記だけでは位置特定に至りません。
次が3月26日で「探照灯にて海面照射せる」とあります。この時は捕鯨船が19号に近づいて捕獲した鯨を19号へ引き渡す場面なので、かなり近い場所を照らしていると考えられます。その場合、中央機銃台に探照灯があると艦の近くは照らすことができないため、この時点では既に艦橋トップに移設されていたと考えるのが自然と思われます。
ただ、探照灯の光量で至近距離を照らすと明るすぎるのではないかという気もするので、実際は探照灯ではなく作業灯だった可能性も否定できません。
3月23日には「本艦型輸送艦の母船改装案作成、上伸するに決す。」「今回装備せる諸施設をそのままにし、更に一部改造して使用せば」とあります。
これは今後、他の一等輸送艦を捕鯨母船に改装する際のポイントをまとめたものと思われますが、今回装備はそのままということなので、この時点で探照灯は艦橋トップに移設されており、その運用実績も蓄積されていたものと考えられます。
そして操業終了間近の4月18日には「探照灯を時間一杯使用す。探照灯を指揮所に移動、本操業中極めて有効に使用し得たり。」とあります。
この「本操業中」という表現を、「操業中に移動させてから」と読むのか「操業前の改装時からずっと」と読むのかはっきりしません。
別資料として雑誌「キング」に掲載された作家梶野悳三氏による「小笠原捕鯨記」も確認しましたが、こちらには探照灯にかかる記載は見当たりませんでした。
また「船の科学」1989年7月号及び8月号に「鯨船物語」と題する記事がありますが、小笠原捕鯨についての記載はありませんでした。
改めて19号の画像を眺めていると、復員船時代のものがこのようになっています。

19号の復員従事は昭和20年10~11月と21年6月~12月の2期あり、その間に小笠原捕鯨の1回目操業が、昭和22年3月以降に2回目の操業が行われています。↑の画像では艦橋後部に22号電探が見られますが、1回目操業期間中に破壊されてしまったので、この画像は1回目操業前の撮影と断定できます。
そして先ほど上げた捕鯨母船時代や引渡し前の艦橋シルエットと酷似しています。
これは…と思ってF様へお尋ねしたところ、次のような返答がありました。
武装解除時の引渡し目録には、測距儀は「兵器」であるとして撤去された(↓画像でうっすら赤線で抹消してある)こと
復員船時代の↓の写真では艦橋トップに何もないこと
捕鯨出港時の写真に探照灯らしきものが写っていること
これらに基づき、捕鯨母船改装時でなく小笠原捕鯨に出港後、操業中に移設したのではないか、とのことでした。
一方で私の推測は以下のとおりです。
・武装解除後の引渡時に艦橋トップの測距儀撤去
・復員船改装時に中央機銃台に木造建屋を設置し、同時に探照灯を艦橋へ移設(建屋中央では探照灯の機能が果たせないため)
・探照灯移設はかなり大変(探照灯の重量は約1t)だったと思われ、操業期間中に移設したならその記載が日記等にあるはずだが、それが見られない
この推論の場合、捕鯨出港時の写真に写っている探照灯らしきものとの矛盾が生じます。
F様の推論の場合、1回目復員船改装時の艦橋トップの物体の説明が付きません。
うーむ、どちらと考えるべきか…
何日か悩みましたが、私の推論根拠の一つである1回目復員船改装時に写っている艦橋トップの物体が探照灯であるという根拠がないことから、F様の推論どおり操業中に移設したものとしたいと思います。
この場合、移設方法は2つ。
①デリックのけんか巻きで艦橋後ろ右舷に下ろす→艦首甲板に滑車を設置し海側に展開した右舷デリックとの間にワイヤーを張り、探照灯を艦首へ移動→艦橋後部デリック2本を目一杯艦首方向に向け、艦首滑車との3点でワイヤーを支持して探照灯を艦橋トップへ
②鯨肉運搬船(播州丸、新生丸等)の接舷時に、同船の大型デリックを使用して移動
作業の簡便さからすれば②ですが、①は19号単艦で出来るメリットがあります。
いずれにせよ操業前半は探照灯移設前なので、ジオラマの場面は操業中盤以降ということにすべきでしょう。
なお、以前に第9号を作った際、探照灯サイズを90cmと推定しましたが、図面には75mと書かれています。また先程上げた引渡し目録には70cmとあります。

75cmは駆逐艦などの小艦艇に搭載されていますが、70cmというのは見たことがありません。1/700では5cmの違いは0.1mm以下となるので無視することとします(笑)
キットのパーツは直径が1.5mmくらいなので、ウォーターラインシリーズの小艦艇用パーツセットの60cm探照灯を使います。
長い長い考証を経て出来たのがこちら↓
はー疲れた(笑)