
ずっと以前に、北方謙三氏の「三国志」を読んだことがあります。
私と三国志の出会いは、大学生時代にまでさかのぼります。
三国志ヲタの友人に感化されて、「字(あざな)で会話できるのは、ザクとは違うだけだ」とまで言われる状態でした(^^ゞ
時は流れ、通勤電車の中で文庫本を読むようになり、北方氏の三国志に出会いました。
氏の作風はハードボイルドと言われますが、それまでに読んだものと異なり、大変衝撃的で印象的なものでした。
三国志は大変多くの人物が登場する物語ですが、氏の作品ではそれをごく少数に絞込み、かつそれぞれの人物の内面を克明に記述していくことにより、その人物の「ものの考え方」や「行動規範」自体が理解できるような感覚に陥りました。
さらに時は流れ、先日。
職場の後輩から同氏の「史記」を貸してもらえるという話になり、全7巻中、5巻まで読み進んだところです。
初めて読む物語なのですが、これまでのあらすじは以下のとおりです。
前漢の劉徹は幼くして帝(武帝)となったが、当初は周囲の側近たちの強い圧力により、思うような行動・言動がとれない忍従の日々が続く。
北では匈奴から略奪などにより脅かされていたが、劉徹自らが見出した武将・衛青、霍去病などの活躍により殲滅寸前まで追い詰める。
また内政面では、洪水に悩まされていた地域に莫大な費用を投下して治水工事を行う。
こうした功績により徐々に「名君」と呼ばれるまでになる。
しかし、自分の意に沿わぬ側近を次々と排斥したり、衛青たちが亡くなっていくことなどを通じて、帝に対して意見できる者がいなくなり、さらには帝自身の死への恐怖=生への執着から、「暴君」へと変貌していく。
個人的には、三国志のような戦主体の物語のほうが、「血沸き肉踊る」感があって好きなのですが、史記は前半は戦主体、後半は内政主体といった趣があり、それはそれで北方流の面白さが詰め込まれています。
特に後半では史記の元々の著者である司馬遷が物語に登場し、帝とのさまざまなやり取りを繰り広げます。こうした部分はこれまでの私ならあまり興味を持たなかった部分ですが、北方氏の巧みな筆致により、ぐいぐいと引き込まれていく感覚がはっきりと分かるほどであり、今後の展開が非常に楽しみです。
一方で、5巻を読んでいる途中、少し奇妙な感覚に囚われました。
それは、さきほどの「あらすじ」に書いた「暴君」の部分。
社内ではよくこう言われたりします。
「位が上がっていけばいくほど、孤独になっていく」
史記における劉徹も、若い頃に苦労しながら自分の意思を少しずつ具現化していった頃は名君とされていましたが、意に沿わぬ側近を排斥していくうちに、自らを「天の子」と思い込み、自分の意思=天の意思と考えるようになり、その様子を見る側近達もYesマンばかりが揃うようになる。
なんだか、我が社のイメージにかぶるような・・・。
時々思います。
トップダウンという言葉の意味を、我が社のおえらいさん達は勘違いしていないだろうかと。
私が思うに、トップダウンとは「とにかくオレ様の言うことを聞け!」という意味ではなく、発案が現場からではなく上からということなのではと。
つまり決定までの過程に、下が検討を加えたり意見を具申したりするチャンスがあるかどうか。
位が上がると孤独になるというのは、Yesマンばかりをかわいがった結果、つまり自ら招いた災厄なのではないかと。
私もいわゆる中間管理職のはしくれ。
つまり部下を使う立場にあります。
そうした中で常々意識しているのは、「現場第一」。
あらゆる仕事は、最前線に立つ担当者が最もその苦労を知り、問題点を知り、解決案を知っているのだと思っています。
無論、役員などの立場からは経営的な視点も重要なので、現場がすべてとは思っていません。
ただ、どちらかが常に一方的な勝利を得られ、他方は一方的に虐げられるだけというのは、組織運営として決して理想的ではないのではないかと思います。
劉徹は、夢の不老不死を求めて呪術師などに大金をつぎ込む日々を送りますが、果たして我が社の幹部の方々は、何を追い求めているのでしょうか。
そして私は4月から職場を変わります。
周りの人も組織目標も大きく変わるので、今は期待と不安がハーフハーフといった感じ。
少なくとも晩年の劉徹のようにはならないようにしないとね(^。^)
Posted at 2014/03/30 16:38:24 | |
仕事 | 日記