P.S.徳島の戦国時代大好きなT~さんへ。
小谷城、行ってきたでよー!!
(阿波弁)
関ヶ原案内するけんなー!!
石田三成と島左近の史跡、了解しましたー!!
遠慮せんでええけん、いつでも連絡してきてなー!!
待っとるけんなー!!
(笑)
たっぷり長浜城を堪能した後、小谷城跡へ行ってきました。
長浜城を出た後、車内で持参のお菓子を食べて次の史跡へと、二件掛け持ちです。
^^;
小谷城(おだにじょう)は、滋賀県(湖東北)にある戦国大名 浅井氏の居城で、日本一の山城とも言われています。
1573年9月1日、小谷城三代城主である浅井長政が織田信長によって攻め滅ぼされるまで、浅井氏の本拠地でした。
約50年間浅井氏がここにいたとされています。
まずは勉強にと、麓にある小谷戦国資料館へと行く事にしました。
先日図書館で借りた小和田哲男先生の本に、ここで学んでいくのといかないのとでは、楽しめ方が全然違うと書かれていたので。
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小谷城大手門復元

資料館の前にありました。
右側には、追手道があり、山の谷深くへと続いています。
谷間には、たくさんの住居跡があります。
小谷城戦国資料館

小谷城跡から発掘された、てっぽうの玉や、器などが展示されていました。
小谷城の地図(裏面に説明がビッシリ)をくれるのでありがたいです。
資料館を出た後、ちょっと谷間へ進んでみることにしました。
遠藤屋敷跡

これは、資料館のすこし後ろ(北側)にありました。
ここは、浅井長政の重臣、遠藤喜右衛門直径の屋敷跡と伝えられています。
彼は、姉川の合戦の際、敗戦の色濃くなった頃、信長を討ち取るべく、味方の首を持って偽装して単身信長の陣へと深く潜り込みましたが、それを竹中久作(竹中半兵衛の弟)に見破られ、討ち取られました。
彼の墓は、石田町(三成の出生地)の北の方にあります。
虎ケ谷入り口

遠藤屋敷跡から200メートルぐらい歩いていった所の右側にありました。
これは、山の上の方にある番所跡へと続く山道です。
周囲に土塁が巡らされており、虎ケ谷道の両側には曲輪が多く配置されており、他の谷に比べて防御を強くしている事より、小谷城の構造上、大手の可能性があるそうです。
もっと奥までいって、浅井氏の屋敷跡とか見たかったのですが、熊が怖くなったので、ここで引き返しました。
^^;
車の上り口へ行きました。
昔は無かったそうですが、今は随分と上まで登れる車道があります。
これで、一気に山頂付近まで移動しました。
道は途中車一台が通れるのがやっとくらいになったりして、前から来たらどこまでバックしようとか不安に思いながら進んでいきましたが、幸運にも下りてくる車はおりませんでした。
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小谷城壁(車の上り口)

崖の傾斜が凄いなあと思わず見上げてしまいました。
さすが、信長が恐れるだけあるなあと。
f(^^;)
写真にもありますが、『熊がたくさん見られている』そうです。
『鈴やラジオを持っていない人は、絶対に登らないでください』と、書かれていました。
一人だったので恐ろしくなり、行くのやめようかなとも思いましたが、せっかくここまできたし、老夫婦の乗った軽自動車などが平気で登っていっていたので、とりあえず危険でないところまで行ってみてようと思い、私も行ってみることにしました。
登り道の途中、面白い看板を見つけました。
美人の看板

(笑)
案内図

入り口までやってきました。
行くと、平日の昼下がりというのにもかかわらず、意外とたくさんの人たちがいたのには驚きました。
本当にここに熊が出るのか!?という感じです。
『熊多数出没』の張り紙が、スゴク気になります。
怖いので、杖で音を立てながら入り口から登っていきました。
金吾丸

登山道のすぐ反対側にありました。舗装されていて、とても登りやすかったです。
1525年に六角高頼が小谷城を攻めた時、朝倉金吾教景が援軍に来て、ここに陣を敷いたといわれており、彼の名前を取って金吾丸と名づけられたそうです。
四段の曲輪と土塁からなります。
金吾丸山頂

平たい所が広がっていました。
金吾丸から見た展望

景色よかったです。
^^
ちょっと順番が逆になってしまいましたが、一番最初に見つけた史跡がここでした。
出丸跡

山の図が無いのでチョット分かりにくいですが、小谷城のある山は、カタカナの『コ』の字の様な形をしています。
『コ』の字の右側から登っていき、左側へと繋がっている形です。
この出丸跡は、その『コ』の字の右の先端に位置しています。
出丸跡からの展望

出丸跡は、主郭屋根の先端にある曲輪です。
独立した砦となっており、本丸を守るためのものです。
上下二段の曲輪と土塁からなっています。
番所跡

これは、先ほどの虎ケ谷道の終点で、小谷城主郭の入り口にあたる重要な曲輪です。
ここから本格的な城郭となります。
馬洗いの池

この写真の左奥に、幅2メートルぐらいの林道があり、そこを馬が通っていたそうです(写真左奥からこちらへ登り)。
山の標高は約330メートル。
こんなに高いところまで、あんな細い道を通って凄いなあと、驚かされます。
首添え石

下の写真の黒金門跡の手前にあります。
1533年1月、京極氏の有力被官であった今井秀信を内通(スパイ)容疑で殺害し、その首をココにさらしたと伝えられています。
黒金門跡

昔ここに大きな門があったんですね。
チョット想像してみました。
^^;
浅井氏及び家臣の墓
赤尾屋敷跡

ココは、首添え石から山に沿って約100メートル北(奥側)、本丸跡のすぐ東(山の外側寄り)にあります。
ココで、浅井長政が自刃したと伝えられています。
浅井氏の重臣、赤尾氏の屋敷跡と伝えられています。
天正元年9月1日、黒金御門から打って出た長政は、信長の兵に攻められ、鐘ケ丸に帰る事ができず、やむなくここの屋敷で自刃したそうです。
享年29歳。
本丸跡

南北約40メートル、東西約25メートルの広さがあり、上下二段からなっています。
大広間側には、石垣が築かれています。
本丸の東西側の裾に、土塁が築かれています。
本丸跡から見た大広間跡

別名『千畳敷』と呼ばれ、長さ約85メートル、幅約35メートル。
東寄りに、『黒金門跡』があります。
ここで、観光ガイドの団体と一緒になったので、後をくっついていきました(熊怖いし)。
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説明が面白かったですー。
ありがとうございましたー。
(^^;)
大掘切跡

本丸跡の北にある大規模な堀跡。
番所跡から本丸跡までと、その上を区切る為のものです。
ところで『熊』についてですが、やはり出るそうですよ。
みなさん、登る時は必ず、鈴かラジオを携帯しましょうね。
^^
ちなみに道はチョット悪く、結構急なもので、下山途中、ちょっと足を砂利の上に置いて滑らせてしまい、親指の先を石にぶつけてしまいました。
しばらくチョット痛かったです(もう治りました)。
滑らない為にハイキングシューズをはいてきたのですが、つま先を守る安全靴がいいかも!?
とも思いました。
無事、下山できた時、大きなものを乗り越えたような気がしました。
^^
帰る途中、長浜ジャスコで腹ごしらえ。
こんなものを買いました。
焼き芋飲料
ほっこり焼き芋の味がして、美味しかったです。
今日は、朝から夕方まで、とても充実した一日でした。
ここまで読んでくださった皆さん、どうも、ありがとうございました♪
A(^^;)