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すた☆君のブログ一覧

2016年03月31日 イイね!

後藤又兵衛戦死の地   ~柏原市・小松山古戦場~

後藤又兵衛はもともとは黒田家の家来で、とても強い武将でした。

関ヶ原合戦では日本号の槍を持って参戦し、石田隊の槍の達人と一騎打ちをしてこれを倒したと言われています。

しかし、長政と馬が合わくなって出奔。

その後、豊臣方として大坂の陣に参戦し、壮絶な死を遂げました。

猛将として各地をさ迷い、死に場所に選んだのがココだったのかなと思うと、なんだか寂しく思います。







1615年 慶長20年 5月6日 午前。


~大坂夏の陣・道明寺の戦い~

幕府軍を迎え撃つため、豊臣軍は道明寺で合流して小松山を陣取る作戦を考えた。

しかし、集合場所(大阪府柏原市・小松山の西側・石川の西側)で毛利勝永・真田信繁(幸村) 約1万2000人他3600人らの計1万5600人と合流する予定だったが、彼らは濃霧の為に来られなかった。

ここで又兵衛は作戦失敗を悟った。

大坂城から南に18キロぐらいになる。

小松山の東向かいの国分村には、幕府軍の松平忠輝、松平忠明(奥平松平家の祖)、本多忠政、伊達政宗、水野、堀ら 3万4300人が展開していた。

後藤隊は2800人しかいなかったが、小松山に陣を展開した。

それを見た幕府軍はこれを攻撃。

午前4時~始まったこの戦は8時間にも及び、激戦の末、後藤又兵衛は戦死した。









~誉田(こんだ)の戦い~

お昼頃になるとようやく、藤井寺村・道明寺村・誉田村・吉市村(小松山の西~西南)に、毛利勝永、明石全登、大谷吉治(大谷吉継の子)、福島正守(福島正則の子又は甥)、真田信繁(幸村)ら、別の部隊が到着した。


真田信繁(幸村)は取り残されていた後藤又兵衛の兵たちを回収し、小松山の西へと押し進んできだ幕府軍は、豊臣軍と戦闘を開始した。

同じ日の少し西へ移動した午後からの戦い、これを 誉田(こんだ)の戦い という。






戦国史上一度だけ、真田信繁(幸村)と伊達政宗が激突した。

これがこの戦になる。

『後藤又兵衛の戦死の地』 そして 『真田幸村と伊達政宗が戦った場所』

ここ大阪府柏原市での大坂夏の陣の古戦場は、とても興味深い場所だといえる。




山と言うよりは小高い丘という印象で、山のてっぺんまで隙間無く家が建っており、

ほとんど崖の土地を売り出していたのには驚いた。





ちなみに福島正則だが、江戸城で留守役を任されていた。

豊臣に着くのは間違いないから、徳川によって江戸城に封印されていたと受け取れる。

正則は身動きが取れないので、代わりに身内を豊臣へ送り込んだ(正則の身代わりで戦死した家来の墓がある)。









少し離れた場所に後藤又兵衛の石碑があるので、今度はそちらを探してみたい。





小松山古戦場碑
大阪府柏原市片山町(柏原市立体育館の東隅・体育館の敷地外・体育館の外回りの道路沿い)
写真の古墳は、石碑の斜め前『玉手山古墳群第一号墳と奥田忠次(幕府軍)の墓』になります。
Posted at 2016/03/31 10:33:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 大坂の陣 | 旅行/地域
2016年03月31日 イイね!

藤堂仁右衛門の墓  at  八尾市

関ヶ原合戦で、東軍は嫌いだけど、藤堂仁右衛門は好き。

という西軍ファンは、結構多いのではないだろうか。


私は関ケ原で彼の物語を語っている。

聞いている人のほとんどは、息を呑んで静まり返り、最後は感動する。

それほどに心揺さぶられる壮絶な出来事が、関ヶ原であった。








藤堂仁右衛門は、藤堂高虎のおいっこ 高虎のお姉さんの子供 になり、本名は高刑。



彼は関ヶ原合戦の15年後  1615年 慶長20年 5月6日 大坂夏の陣にて、長宗我部盛親と戦い、ここ八尾市で戦死した(八尾の戦い)。

享年 39歳。






門の塀に5本の白線が引かれている事から、最高ランクのお寺という事がわかる。




そんな彼は、関ヶ原合戦で、何があったのだろうか。

過去にもたくさん書いたが、再びここで振り返ってみようと思う。



大木(大木の向こうのお墓)



関ヶ原合戦で、大谷吉継は藤堂高虎と戦っていた。

そこで、松尾山の小早川秀秋15000人が裏切って、大谷吉継・平塚為広ら5000人を攻撃した。

それに続き、脇坂・朽木・小川・赤座5000人も裏切って、彼らを攻撃した。



(*小早川秀秋と脇坂安治は、最初から東軍に味方すると約束していたが、その時の流れでしかたなく西軍についていた。島津義弘と同様に京都の伏見城へいき、鳥居元忠(東軍)と共に戦うつもりだったが、鳥居元忠が彼らを城内に入れなかって、そこへ西軍の主力部隊がやってきて、しかたなく西軍に着いた。
小早川秀秋はその後伊勢方面へと向かう西軍の主力部隊から抜け出し、滋賀方面をうろうろ移動し、不穏な動きをしており、合戦の前日にいきなり松尾山に布陣した。
300人で松尾山に居た西軍の大垣城主の伊藤もりまさを押しのけたと言われているが、もともと豊臣秀頼を連れた毛利輝元を迎える予定だったので、毛利筋の人間という意味で三成に招かれて入ったと考えるのが有力。
脇坂安治は大谷吉継と共に北陸へ前田攻めに行った戦友になる。)


大谷吉継は石田三成の親友で、最初は三成が家康と戦う事を反対したが、恩義があり親友でもあっ他ので、これを承諾した。

味方の少ない三成をなんとかするために、五大老毛利輝元・宇喜多秀家を味方に入れるという作戦を提案し、三成と仲のよかった外交術の達人の安国寺えけいの活躍もあり、徳川家康に匹敵する大部隊を手に入れることが出来た。

関ヶ原で三成が家康と互角の勝負が出来たのも、彼のおかげといっても過言ではない。




大谷・平塚らは何度もこれを押し返したが、最後は周りを敵に取り囲まれ、平塚為広は壮絶な戦死、大谷吉継も自害を覚悟した。


大谷吉継はらい病でただれた皮膚を隠すために頭巾をかぶって目だけ出していた。

目も足も不自由。

普段は輿の上に乗って、上から指揮をしていた。



追い詰められた大谷隊の家臣たちは、一人また一人と敵の中に飛び込み、次々と死んでいった。

死を覚悟した大谷吉継は、自分の醜い首を敵にさらしたくないと、側近中の側近 湯浅五助に、

自分の首を斬って、地中深く埋めよ と命じ、腹を斬ってこの世を去った。


ところが、これをみていた人物が居た。

敵が見ていた。

その敵こそが、藤堂仁右衛門だ。

大谷吉継の首を埋めている湯浅五助の前に、ふらりと藤堂仁右衛門が現れた。

湯浅五助は武術の達人でとても強いので、仁右衛門を倒す事はたやすかったかもしれない。

しかし五助は仁右衛門にこう言った。

『自分の首を差し出すから、大谷吉継の首のありかは誰にも言わないでくれ。』


それを聞いた仁右衛門は、五助の熱い忠義心に心を打たれてこれを承諾した。

五助もまた主君の後を追って腹を斬り、仁右衛門は五助の首を斬り落とし、その首だけ持って、家康のところへ行った。


しかし、これをみた家康は何かがおかしいと思った。

なぜならば、大谷吉継は逃げられない。

目が見えない。

足が不自由。

なのに、側近中の側近の湯浅五助の首だけあって、大谷吉継の首がない。

これはなにか変だ と思った家康は、仁右衛門を問いただした。

すると、仁右衛門はあったこと全てを正直に話してこう答えた。

『湯浅五助と約束をしたから、例え家康様であっても、大谷吉継の首のありかは言えません。』

これは大変無礼な発言で、家康に斬られてもおかしくない。

しかし逆に家康は仁右衛門を褒め、褒美まで与え、それ以上、大谷吉継の首のありかについては何も聞かなかった。

だから、今でも関ヶ原のどこかに、

『・・・大谷吉継の首が眠っている。・・・』

と言われている。


首が眠っていると言われているあたりに、大谷吉継のお墓がある。

お墓の下には何にもない。

では何故そこにお墓があるのか。

実はこのお墓は、藤堂家の子孫が建てたお墓だった。

子孫の人たちもまた、ご先祖様たちの行いに心を打たれて、敵のお墓を造った。

そのすぐとなりに、湯浅五助のお墓も建てられた。

二人のお墓は同じ枠の中で、仲良く並んで立っている。


そしてこれら二つのお墓は、今日に至るまで、関ヶ原町の人たちによって大切に保護管理され、現在に至っている。


というお話しです。





石碑



お寺の入り口は北と南と東にありますが、写真の大きな門は東側にあります。

このお寺 常光寺 は、大坂夏の陣で藤堂隊が首実検を行った場所で、お寺の縁側に首を並べたそうで、その首を並べた板をはがして、現在このお寺の天井に 『血天井』 として貼り付けています。





墓所はお寺の奥にありそうでした。

そこへ行くには、お寺の渡り廊下を上げなければならなかったので、

お寺の方に事情を説明して許可を頂き、渡り廊下を上げてから、奥のスペースへと進むと、墓地のある広い空間へと出ました。



大木の向こうにあるのが、藤堂家の墓所になります。


根っこ



これら6つあるお墓が大坂夏の陣で戦死した藤堂家の重臣たちのお墓で、そのうちのどれかが藤堂仁右衛門のお墓 との事でした。



右から



どれが彼のお墓かは分かりませんでしたが、この下に眠っているのは確かな事だったので、ここまでこられた事に感動しました。







左から




そこは都会の街中の静かな空間でした。



関ヶ原合戦にて、人情を取り、敵の情けのために命がけで仁義を貫いた彼は、こんなところに眠っていたんですね。









私は当事者ではないのですが、 


『ありがとう。』


という気持ちが胸に沸いてきました。







裏の駐車場から



大阪府八尾市本町5-8-1 常光寺
(駐車場はお寺の西側にありますが、道が細いので、大型車はお勧めできません。)
Posted at 2016/03/31 07:37:06 | コメント(2) | トラックバック(0) | 大坂の陣 | 旅行/地域
2016年03月31日 イイね!

木村重成 墓所 at 八尾市

大阪の地図を見ていると、たまたま木村重成の墓所をみつけた。

『こんなところに・・・』 と驚き、足を運んだ。


公園入り口


駐車スペースを探して、公園を2周した。




公園内


こういう史跡は、公園として残されている場合が多い。





墓所 外回り



お墓は結構広かった。





お墓正面




木村重成 

1593年?生まれ  

お母さんは豊臣秀頼の乳母になった。

1600年 の関ヶ原合戦当時 豊臣秀頼は 8歳だったので、ほぼ同じ年。

大野冶長と片桐且元を追放する等より、秀頼の側近的な存在だろうか。

大坂城七将 (真田信繁(幸村)・大野冶長・明石全登・毛利勝永・後藤又兵衛(基次)・長宗我部盛親・木村重成) の一人になる。




大坂夏の陣 で長宗我部盛親と共に、藤堂高虎・井伊直孝と戦い、井伊隊に破れて戦死して、首を落とされた。


~有名なエピソード~

重成の首を見た家康は驚いた。

髪を整え、綺麗に化粧をされていたからだ。

重成は、自分が殺されて首をさらされた時に見苦しくならないようにと、出陣前に顔や頭を綺麗に整えていたのだ。

その心意気に家康は感心したという。




説明の石碑






彦根市の宗安寺に木村重成の首塚があるので、今度はそちらを訪れたい。



大阪府八尾市幸町6 公園内
Posted at 2016/03/31 04:47:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大坂の陣 | 旅行/地域
2016年03月19日 イイね!

大坂夏の陣 ~徳川家康・本陣跡~

大坂夏の陣・徳川家康本陣跡 を訪れた。

今まさに、大河ドラマでやっている 『真田丸』 のクライマックスの場所だ。





大坂城を丸裸にされた豊臣方は、討って出るしかなかった。

真田信繁の狙いは、家康の首一つ。

兵3500人で、ココをめがけて突進した。

その勢いは余りにもすさまじく、松平隊15000人を突き破り、ついには家康本陣にまでたどり着いた。

家康は取り乱し、自害を覚悟したという。

しかし、松平隊は数で押し返し、真田信繁は壮絶な討ち死に。。。




牧岡中央公園
(石碑から東側を見た写真。)



大坂城は、ほぼ西12キロにある。

陣跡のすぐ北東には生駒山(奈良県)。

行ってみて分かったのだが、どういう訳か、『家康の本陣は大坂城の南』と言う印象があったが、実際にはほぼ真横(ま東)にあった。

山を背に構えた陣地だった。






陣地は、中村氏の豪壮な屋敷であった。

中村氏は近江佐々木源氏の流れを組む一族だという。

佐々木氏といえば、京極氏を連想する。


ちなみに、大坂冬の陣でも、徳川秀忠がここに宿陣したらしい。





石碑 アップ



1615年 11月16日 徳川秀忠 宿陣

1616年   5月6日 徳川家康 宿陣

         5月7日 真田信繁 討ち死に。
 
         翌日、淀君と豊臣秀頼自害

        8歳の秀頼の子供国松も斬首され、豊臣家は滅亡し、ここに戦国時代は終止符を打った。


        (島原の乱も戦国かもしれませんが)





いろいろ考えると、胸が痛くなる史跡でした。



大阪府東大阪市豊浦町5 牧岡中央公園内(国道308号線沿い南側)
石碑は公園の西側にあります。
Posted at 2016/03/19 08:27:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大坂の陣 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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