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すた☆君のブログ一覧

2020年08月08日 イイね!

山岸氏の館跡を探して ~揖斐川町 明智光秀の史跡巡り⑧~

前回の補足ですが、明智左馬之助光俊の自害の後、嗣子宗俊は揖斐川町桂に蟄居し、宮城を名乗りました。

よって、「明智氏一族 宮城家相伝系図書」と称したそうです。

それにしても、また 桂 が出てきましたね。

まさに 桂 は、明智一族蟄居の地 ですね。

揖斐川歴史民俗資料館は、いい場所に建っていますね。


では、本編に移ります。

山岸氏の館が府内にあったという事で、結城からそちらへ移動しました。

結城から山を挟んで1キロ北になります。

府内の府内城は谷汲の山岸氏の居城で、明智光秀四天王の安田国継の遠祖、安田利実が死去した場所でもあります。

華厳寺から東に1キロ、結城から北に1キロにあります。

府内は東西約2キロ南北数百メートルの集落で、集落の周りをゴルフ場がUの字に囲っているので、ゴルフ場が集落と府内城、結城、華厳寺を遮断している所が残念でした。

ゴルフ場看板 曲がり角 ここで曲がると府内

曲がらずに北上すると、法雲寺(土岐頼芸の墓)があります。

府内にあった山岸氏の館跡ですが、それらしき場所へ行ってみたけどよく分かりませんでした。



府内城址は登り口はなく登城は困難との事です。
でも、だいたいの場所は分かっていたので、きっとあの辺だろうなあと思いをはせて、集落を後にしました。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

揖斐川町の明智光秀の史跡巡り、もうしばらく続きます。
2020年08月07日 イイね!

明智左馬之助が蟄居した村 ~揖斐川町 明智光秀の史跡巡り ⑦~

調べていると、明智左馬助も出てきました。
「湖水渡りの名将」で有名ですね。

明智左馬助光俊 
1537年 明智城にて生誕。
1556年 明智城没落。
明智光秀らが自害しようとしたところ、左馬之助の父宗寂がこう言った。

「我々は拠り所が無きにより自害する。然れども、今死して血筋を絶えるに至るは先祖に対し最も不幸なり。死を逃れ速にここを去り、長江のもとに落ちゆき、身命を全うして、子孫長久の謀を心掛けるべし。」

光俊は従弟光秀に付属、夜中密に明智城を立退、北美濃外山に赴き、長江信周の扶助を得る。
乃ち、大野郡結城府内の里に於いて蟄居
暫く時節を伺い。
しかして後、家嫡光秀は軍鑑鍛錬し為、先ず暫く、越前国主朝倉義景に仕える。
光俊、1563年 濃州結城を立出、越前国に移り、初めて光秀に仕える。

*「明智氏一族宮城家相伝系図書」より。

長江信周 :明智光秀の実父
大野郡結城:揖斐川町結城
光俊   :左馬之助
結城を調べていると「結城神社」というのがあったので、そこへ向かうことにしました。

結城神社の約2キロ北西には、「華厳寺」があります。

左馬之助は七年間も結城に住んでいたので、華厳寺へも足を運んだと思われます。

華厳寺山門。

左馬之助は常に戦の先頭に立ち、敗れる事はありませんでした。

「本能寺の変」に参戦の後、安土城を守護していました。

「山崎合戦」の報を聞き、坂本城を目指しますが、秀吉軍と遭遇してしまいました。

戦いの末に自分一人だけとなり、敵中を突破し馬上のまま琵琶湖に入水、数キロの水面を渡り切り、坂本城に辿り着きました。

結城神社

故に、「湖水渡りの名将」と呼ばれています。



その後、左馬之助は坂本城に火を放って自害し、四十六年の生涯に幕を閉じました。



左馬之助が蟄居していたのは、この辺りになるのでしょうか。



結城神社は入らず、車から写真だけ撮りました。

東西に開けた低い山と山に挟まれた平地で、のどかな場所でした。

光秀が修行の旅に出ていた間、左馬之助も明智家再興の為に、この辺りで修業に明け暮れていたのでしょうね。

この道は今まで何度か走った事がありますが、今回は、なんだか切なくなりました。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

揖斐川町の明智光秀の史跡巡り、もうしばらく続きます。
2020年08月07日 イイね!

光秀家臣堀口貞春、蟄居の地~揖斐川町 明智光秀の史跡巡り⑥~

今回は、明智光秀の家臣の史跡を紹介します。


堀口兄弟

堀口貞之(兄)
1536年生まれ
1569年~山岸貞秀の命により、明智光秀に仕えた。
武功忠節が最も多く、後に近江高島郡横谷にて2500石を所領。
1582年「山崎合戦」にて討死。
享年 四十七歳。

堀口貞春(弟)
1539年生まれ
兄と同時に明智光秀に仕えた。
江州高島郡古川にて1000石を拝領。
1582年「坂本城」において明智左馬助の命により追腹を止め、故郷濃州大野郡に帰り、深坂村に住み、山岸一門となった。
1593年 55歳で死去

*東京大学史料編纂所蔵 「美濃国諸家系譜」より


「深坂」は、前章 ⑤ 「明智光秀の息子が”刀鍛冶”として住んでいた場所」で紹介した刀鍛冶跡「清水」の約3キロ北になります。

深坂

深坂には、幕末にペリーが浦賀に来航した時の浦賀奉行がいた「深坂陣屋跡」があり、そこを探してみたのですが、密集した集落にお寺があり、道が細そうだったので、行くのをやめました。

低い山と山に挟まれた、南北に細長い平地の村でした。

調べれば調べるほど、明智光秀の家族だけでなく家臣までもがこの辺りに住んでいたのかと、改めて驚かされました。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

明智光秀の史跡巡り、まだまだ続きます♪
2020年08月07日 イイね!

明智光秀の息子が”刀鍛冶”として定住した場所。~ 揖斐川町 明智光秀の史跡巡り ⑤ ~

「麒麟がくる」、ようやく今週末から再開ですね~。
それもあってか、ますます力が入ります。
では、本編に移ります。


前々章 ③ 「明智光秀の息子が関ケ原合戦に参戦していました。」で取り上げた 明智光秀の庶子(側室の子)山岸光貞は明智家没落後、濃州大野郡桂の山林で蟄居していました。

光貞は、1593年~徳川家に仕え、1600年の関ケ原合戦では東軍として戦い武功を上げるが負傷により士官を辞め、弓矢を捨てました。

刀剣鍛冶を好み、「寿命流」を会得し、息子の信貞と共に西郡鍛冶として揖斐川町清水付近に定住しました。

1659年 八十四歳で死去。


清水は桂から南東に約4キロにあります。

清水神社

清水の清水神社に刀剣鍛冶跡の石碑があるというので、探しに行ってみました。

説明

神社の由来に面白い事が書かれていました。

拡大

この神社に稲葉一鉄の甲冑が奉納されたそうです。

現在この甲冑は揖斐川歴史民俗資料館に常設展示されているのですが、先日訪れた時はたまたま展示されておらず、大阪へ貸し出し中との事でした。

おそらく、「麒麟がくる」の展示会で、斎藤道三の家来の甲冑として貸し出ししているのでしょうね。


境内の左手を奥に進むと、草むらの中に刀剣鍛冶の石碑がありました。



あの田んぼの辺りに、鍛冶屋があったそうです。

という事は、あの辺に明智光秀の息子が住んでいたんですね。

鍛冶跡


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

明智光秀の史跡巡り、まだまだ続きますよ~。

清水神社:岐阜県不破郡揖斐川町清水1687-1
2020年08月06日 イイね!

明智光秀の息子と実父と長兄が蟄居していた場所 ~ 揖斐川町 明智光秀の史跡巡り ④ ~

前回 ③ 「明智光秀の子供が関ケ原合戦に参戦していました。」で紹介した場所 桂(揖斐川歴史民俗資料館)の周りの山林 になります。

『山岸家系』
山岸信周←明智光秀の実父
  |
山岸晴舎←明智光秀の長兄
(将軍足利義輝の料理人)
「永禄の変」で切腹
  |
山岸輝舎←明智光秀の甥
「永禄の変」で討死
  ||
山岸晴光←明智光秀の長男 

1565年「永禄の変」三好三人衆と松永久秀による将軍暗殺事件の後、山岸信周は山岸晴光と共に、山岸輝舎の室の実家(揖斐五郎周防守光親)を頼り、揖斐川町桂の山林に蟄居した。

山岸晴舎は、三好三人衆らを御所に入れてしまった事を詫び、将軍の面前で切腹した。

1582年「山崎合戦」の後、山岸晴光は桂で、父である明智光秀の死を知った。

その後晴光は、美濃加茂市伊深の正眼寺に入った。
正眼寺は、有名プロ野球選手が修行している事で有名。

また少し遡りますが、明智光秀の曽祖父である山岸家八代光信は、西濃十八将の一人で、織田信長の稲葉城攻略の後、府内城(桂の少し北東)を捨てて、桂の山林に移り住んだそうです。

彼らの桂への蟄居の始まりは、ここからなのかもしれませんね。

前章 ③ で述べた通り、光秀の庶子(側室の子)である明智光貞が「山崎合戦」の後に桂で蟄居していた事からも、桂という地域が明智光秀と非常に関わりが深い場所という事がよく分かります。

以上の事実から、揖斐川町の桂という地域は、明智光秀の家族を助けた村と言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

今回調べて気が付いた事ですが、光秀は長男に名前を付ける時、兄晴舎の「晴」と自分の名前の一部「光」を足して、晴光としたのかな? と思いました。

また、光秀は、将軍に側近として仕えていた兄を尊敬していたのかな? 自分も兄のように出世したいと思っていたのかな? 野望を抱いていたのかな? とも思いました。


今回も、なかなか興味深い発見ができました。

ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

揖斐川町の明智光秀の史跡巡り、まだまだ続きますよ~♪

揖斐川町 桂

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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