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すた☆君のブログ一覧

2010年04月26日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その11  蒲生郷舎

関ヶ原合戦武将ファイル その11  蒲生郷舎久しぶりの、関ヶ原合戦武将ファイルです。

く(^^;)




笹尾山の左端の隅っこの方に、彼の陣跡があります。

彼は尾張の出身で、島左近と共に石田光成の部下として、大変な活躍をされたそうです。

西軍が劣勢になった時、東軍の織田有楽が敗北勧告をして来たのに対し、大変腹を立て、敵陣に突入して戦死した、とも伝えられています。


とかく石田光成の部下は、島左近ばかり伝えられていますが、彼の存在も大切にしたいと思いました。^^






Posted at 2010/04/26 11:18:45 | コメント(2) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 日記
2010年03月16日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その10 立花宗茂(たちばな むねしげ)

このシリーズ、とうとう10回目になりました。

平均して、3日に1人というペースになります。

(汗)

記念すべき10回目は、立花宗茂を取り上げてみようと思います。

彼を取り上げた理由は、来週大津へ行くので。

それに、りょうさいさんも、好きそうですし。

(笑)






関ヶ原合戦武将ファイル その10   立花宗茂 (たちばな むねしげ)


1567年 大友家の重臣、高橋鎮種の長男として生まれる。







≪肝の据わった8歳児≫

宗茂は8歳の時、見世物を観に行った。

群集が口論を始め、殺し合いになったので、観客が逃げ回った。

家臣がわれわれも逃げましょうと宗茂に伝えたが、

『わしらは関係ないから大丈夫じゃ。』

と答え、最後まで見世物を見てから帰宅した。




≪相撲で敵を倒す14歳≫

穂波の戦いのとき、敵の堀江備前の腕に矢を命中させた。

堀江は刀を捨てて、宗茂に組みかかったが、これを相撲の技で倒した。





≪暴れ狂う20歳≫

肥後国人一揆の時、一日に13回も戦い、7つの城を落とし、650の兵を討ち取った。






≪秀吉、絶賛!!≫

小田原城攻めで秀吉が 『東の本多忠勝、西の立花宗茂』 と、絶賛した。







≪朝鮮出兵≫

小西行長の救出など、武勲を挙げた。







≪家康の猛烈なプロポーズを断る≫

関ヶ原の戦いの前、家康に、『物凄い大金をやるから、なんとしてでも東軍についてくれ』 と頼まれたが、

『豊臣家への恩義があるから、東軍につくなら死んだ方がまし』

と、これを断り西軍についた。





≪3倍速の銃撃で、落城≫

大津城を攻めた時、鉄砲隊の肩に、一発分の火薬をつめた竹筒をかけさせた。

これにより、他兵の3倍のスピードで射撃する事ができ、どんどん突入できた。

しかし、大津城主の京極高次は態度をあいまいにしていたので、結局立花軍は、ここで足止めをくらい、関ヶ原の合戦には間に合わなかった。








≪父の敵を守る≫

大津城攻めのあと、西軍敗北の知らせを聞き、大坂城へと引き返した。

大坂城⇒柳川へと引き上げる時、島津義弘と同行することになった。

島津義弘は、父の敵である。

家臣が、今がチャンスと、敵討ちを勧めるが、宗茂は、

『負けて落ち延びているやつを殺すのは、武士として恥ずかしい。』

と答え、さらに島津義弘の守護を申し出た。








≪島津の援軍、間に合わず≫

柳川に着いてから、加藤清正、鍋島直茂、黒田如水らの攻撃を受けた。

島津義弘が薩摩に到着した時、直茂に恩義を返そうと援軍を送ったが、すでに柳川は開城した後だった。










1603年

徳川家康から、再び猛烈な勧誘を受け、さすがにこれは断りきれずに、大名として復帰した。



大坂の陣では、家康が、絶対にうちについてくれと、彼を説得した。




1637年


島原の乱に参陣した。




享年76才で、この世を去った。








恩義を大切にするところは、光成に似ているなあと思いました。

いろいろな面白いエピソードがあり、とても興味深い人物でした。

家康も天下を取る為に、優秀な人材の引抜とかで、水面下でいろいろがんばっていたんだなあと思いました。

(笑)
Posted at 2010/03/16 12:02:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 日記
2010年03月16日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その9 井伊直政

今回は、井伊直政を取り上げてみました。

その理由は、来週彦根城に行くので。

3回目です。

(^0^)



関ヶ原合戦武将ファイル その9 井伊直政 ( いい なおまさ )


彼に関しては、去年の10月、関が原合戦祭りや史跡めぐりにて、詳しく調べたので、今回は簡単に記述します。




1561年 今川氏の家臣、井伊直親の長男として、遠江国に生まれた。

今川氏に命を狙われる日々を送った。

1575年 徳川家康に見出され、小姓となった。

大変な美男子だったから、家康にスカウトされたとも言われている。


徳川四天王の一人

≪井伊の赤備え≫
武田家の旧臣たちと共に、武田四名臣の山県昌景(長篠の戦で戦死した)の赤色の部隊を復帰させた。

彼らは精鋭揃いの最強の部隊で、非常に恐れられた。


*関ヶ原ウォーランドの資料館に、井伊の赤揃えの甲冑が4種類展示されている。



≪忍者を討ち取る≫
家康の寝所に忍び込んだ武田の忍者を討ち取った。



22才の時、直政を名乗った。




≪伊賀越えに同行≫
本能寺の変の後、家康の伊賀越えに同行した。


武田氏滅亡後、北条氏との交渉などに手腕を発揮した。



1585年、真田攻め



≪関ヶ原の戦い≫
福島正則を差し置き、松平忠吉と共に、先鋒へ駆け出した。

宇喜多秀家、小西行長隊と戦い、島津隊を追撃し、島津豊久を討ち取った。

島津隊を追撃中、銃弾を受け、落馬した。

その傷が原因で破傷風となり、2、3年後に死亡した。


非常に厳しく冷酷な性格で、少しのミスも許さずすぐに首を切り落とした。

あまりの厳しさゆえに、逃げ出す家臣も少なくなかった。

井伊の赤鬼と恐れられた。

祖父は、桶狭間の戦いで戦死し、実父は謀反の疑いをかけられ、直政が1歳の時に殺された。


彦根城を造り(途中まで)、彦根市の基盤を作った。





井伊直政は、ひこにゃんのご先祖様ということになりますが、全国のひこにゃんファンの皆様は、直政が非常に恐ろしい人物だったと言うことを、知っているのでしょうか?



平和な世の中になったものですね。


(笑)
Posted at 2010/03/16 11:10:56 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 日記
2010年03月15日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その8 筒井定次(つついさだつぐ)

今回は、筒井定次にスポットを当ててみました。

理由は、孫六の隣に陣取っていたので。

A(^^;)



関ヶ原合戦武将ファイル その8 
~築城の名手、筒井定次~





1562年 筒井順国の次男として生まれた。

秀吉の家臣となり、大阪城へ人質として赴いた。

織田信長に寵愛され、信長の娘を妻とした。

1584年 家督を相続、秀吉の戦に同行した。

1587年~、筒井家のお家騒動が始る。


大和郡山(奈良県)から伊賀上野(三重県)へ、移動させられ、大幅に減封された。




≪伊賀上野城の築城≫
定治は、伊賀上野城に、城郭を築いた。
本の丸東、城の一番高いところに、三層の天守を構え、殿門を整えた。

石垣築成、野面積み⇒打ち込みはぎ へ。

定治は、大坂城の出成として、大坂を守る形の城を作ろうとした。

しかし、彼は途中までしか、築城ができなかった。

その後は、藤堂高虎が引き続き伊賀上野城を作ったが、彼は定次とは逆に、大坂城を攻撃する為の城作りに励んだ。








≪関ヶ原の戦い≫
西軍に、城を落とされた。

関ヶ原の戦い時、東軍として参戦し、田中吉政隊とともに、小西行長隊と戦った。

合戦後は、所領安堵となった。





1608年

突然改易され、大名としての筒井氏は、滅亡した。

表の理由:悪政、酒色、鹿狩りに夢中、キリシタンを優遇など。

裏の理由:大坂に近い場所にいたので、家康にとって不安要素だった(より信頼のおける、藤堂高虎に代えたかったから)・・・とも、言われている。




1615年

長男と共に、自害させられる。



理由:大坂の陣で、豊臣氏との内通によるもの。

大坂城から飛んできた矢に、『羽柴伊賀守定次』という名前が書かれていた為、内通を疑われ、自害させられる。





享年   54 才。






徳川家康が江戸幕府の地盤を固める為に、危険な可能性があるというだけで、無理やりいろんな理由をつけて殺した、という印象を受けました。

長男までと言うのは、可愛そうですね。



築城の技術が優れているそうで、伊賀上野城は、過去に3度も行ったことがあるけど、そんなの全然知らなかったので、もし今度行く機会があれば、貞治が作った城跡にも行ってみたいと思いました。^^
Posted at 2010/03/15 19:03:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年03月13日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル その7 塙団右衛門(ばんだんえもん)

今回は、塙団右衛門にスポットを当ててみようと思います。

理由は、前回調べた『孫六』の部下だった・・・と言う事で。

f(^^;)



今回は、今風にチョット分かりやすく書いてみました。。。








関ヶ原合戦武将ファイル その7 塙団右衛門(ばんだんえもん)  直之ともいう






≪魅力的な性格≫

勇猛な大男ゆえに、織田信長にスカウトされ、仕えた。

馬屋係⇒士分

普段はおとなしいが、酒癖が悪く、飲むと暴れる性格の為、仲間や上司に嫌がられ、なかなか重宝されなかった。

茶の湯を学んだ。

詩人で文化人。






≪どんどん左遷≫

信長⇒秀吉⇒孫六 と、主を変えた。





≪大活躍≫

朝鮮出兵で、敵の番船の奪い取りに成功した。






≪城門に恨みの漢詩を貼り付け、上司の元を去る≫

関ヶ原の戦いでは、1000石の鉄砲大将だったが、興奮してしまい、自分の兵を置き去りにし、槍を取って敵陣に突入してしまった。

孫六は、『冷静さの無いお前には、大将の器は無い』と言い放った。

これが原因で、団右衛門は、孫六の元を去る事になった。

逆ギレした団右衛門は、城門に怨みの漢詩を貼り付け、孫六の元を去った。

普段、冷静で家臣思いの孫六も、さすがにコレには激怒した。







≪元上司の嫌がらせで、再就職に悪戦苦闘≫
孫六の元を去った後、小早川秀秋、松平忠吉に仕えたが、不運にも、彼らはすぐに死んでしまった。

その後、福島正則に仕えたが、孫六の奉公構により、去った。


*奉公構=転職しても、元上司の圧力により、再就職できなくさせる嫌がらせの手紙。切腹につぐ重刑。













≪夜討ちで名刺を撒き散らし、有名になる≫
大坂冬の陣で、徳川軍の蜂須賀至鎮の軍に夜襲を仕掛け、成功する。

この時、『夜討ちの大将、塙団右衛門!!』 と書かれた名刺を撒き散らして去り、一躍有名人となった。

*蜂須賀至鎮は、阿波藩徳島国の初代藩主。







≪壮絶な最後≫
大坂夏の陣で、同僚の岡部則綱隊と、馬で先頭争いをし、敵陣に突入しすぎてしまった。

ふと気がつくと、ついて来た味方はほとんどおらず、大勢の敵に囲まれていた。

太ももに矢を受け落馬したが、大奮闘した。

死を意識した時、辞世の句を詠んだ。

死んでもなお、その眼はハッキリと見開かれていた。













今まで、いろんな武将を調べてきましたが、彼ほど魅力的な人物はいません。

いろいろ問題はありますが、行動が面白く、どこか憎めない性格のような気がします。

こんな人が会社にいたら、面白いだろうなあ。

(笑)
Posted at 2010/03/13 08:56:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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