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すた☆君のブログ一覧

2022年04月12日 イイね!

真柄の大太刀、持ってみた。

「姉川合戦」で、瞬く間に数十人を倒したという、朝倉軍の武将 ”真柄十郎左衛門直孝” の大太刀。

身長210センチ、北国隋一の剛腕。

戦国時代にタイムスリップして、生で見てみたい。

湖北 道の駅浅井三姉妹
Posted at 2022/04/15 09:40:23 | コメント(2) | トラックバック(0) | 姉川の合戦 | 日記
2020年11月28日 イイね!

姉川古戦場③「真柄十郎左衛門直隆、160センチの大太刀で奮戦した猛将」

姉川合戦の主戦場跡へ移動しました。

川側 ロド

「麒麟がくる」では、小川みたいなイメージでしたが、実際の川幅は結構広いです。

秋なので、河原のススキがかなり綺麗です。

450年前にここが血で赤く染まったとは全く想像つきません。


姉川古戦場の看板

各武将たちは、川のどこから対岸へ渡れるかとか、事前に調べていたのでしょうね。

ただ、戦が始まったのは午前5時らしいので、まだ真っ暗の中でどうやって戦ったのでしょうか。

戦は西暦1570年7月26日、日の出を調べると5時2分でしたので、薄っすらと夜が明け始める少し前でしょうね。

川なので渡るとバシャバシャ音でばれますよね。

渡る道が限られていたら、突進したところで待ち構えた鉄砲や弓矢で狙われるでしょうね。

ロド 石碑 駐車場

弓矢と言えば、竹中半兵衛の家臣の不破矢足(ふわやたり)は、姉川合戦で矢が足に当たっても勇ましく戦ったので、この名前を授かったらしいので、弓矢が飛び交っていたのは、ここから証明できます。




信長を裏切った荒木村重を説得に行った黒田官兵衛が捕まって帰ってこなくなって、気の短い信長は官兵衛も裏切ったと勘違いして、子供の松寿丸(長政)を殺せと秀吉に命じました。

秀吉は家臣の竹中半兵衛に相談したところ、半兵衛は、官兵衛はそんなことをする人じゃないと信じて、秀吉は官兵衛が帰ってくるまで、松寿丸を殺したと信長に嘘をついて垂井町で匿う事にしました。

松寿丸(後の黒田長政)が竹中半兵衛の機転によって隠れ住んでいた垂井町の家が、不破矢足の家になります。

もし、鉄砲が主流で鉄砲の玉に当たっても勇ましく戦っていたら、不破矢足ではなくて、不破玉足(ふわたまたり) となっていたことでしょう。

なんか、崩れた平安貴族みたいで、嫌な名前ですよね。

戦没者の石碑

戦死者、何人いたんでしょうね。

数万人の戦ですので、数千人という所でしょうか。


それにしても、関ケ原には首塚がありますが、こちらはありませんよね。

あるのは、遠藤経直の塚だけです。

無数の骸はどこへ消えたのでしょうか。

平地は田畑でしょうから、姉川にそのままドボンでしょうね。

そう考えると、姉川のこの美しいススキの下には、無数のどくろが眠っているのかもしれませんね。



それにしても、ススキが美しいですよね。



ここで、ちはらへ移動しました。

ちはらでも激突があり、原っぱが血で真っ赤になったので、ちはら 血原 という地名になりました。

恐ろしいですよね。

ここで大暴れしたのが、今回のブログのタイトルにもなった、この人。

真柄十郎左衛門直隆。

朝倉軍の猛将です。



この人、やばいでしょ。

彼が構える大太刀の長さは何と、160センチ。

普通の刀でも結構重くて、刀で切る時は、その重みを利用して振り下ろして切るらしいです。

大太刀

この大きさだと、馬ごと一刀両断にバッサリ切れそうですね。

馬がかわいそうですが。

大太刀 説明

この戦いで負けた浅井長政は、5キロ後方の小谷城へ逃げ帰り、朝倉も国へ帰りました。

勝った信長は、難攻不落の小谷城の力攻めは無謀と判断し、横山城を奪って、撤退しました。

横山城の城番は秀吉になりました。

この後、比叡山延暦寺の焼き討ちなどを経て、三年後に浅井・朝倉を滅ぼしました。

以上で、姉川古戦場の史跡巡りを終わりたいと思います。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

^^
Posted at 2020/11/27 20:03:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 姉川の合戦 | 旅行/地域
2020年11月27日 イイね!

姉川古戦場②「遠藤直経(味方の武将首を持って、敵陣深くに忍び込み、信長の首を狙った男)の墓」

姉川から南に1キロぐらいの場所に、「遠藤経直の墓」があります。

遠藤経直は、浅井長政の重臣です。



1570年「金ケ崎の戦い」からわずか2か月後、

6月17日「姉川の戦い」が起こりました。

織田信長の報復戦です。

裏切られて殺されかけて、命からがら逃げてきたので、よほど怒り狂っていたのでしょう。

説明


経直は、自軍の敗色が濃くなった時、味方の武将首一つを持ち、敵方に化けて、信長の陣中深くに忍び込みました。

しかし、竹中重矩(しげのり)・竹中半兵衛の弟 に見破られ、この辺りで討死しました。



織田軍は13段の構えを持っていましたが、最初はこれを11段まで崩されました。

池田恒興、丹羽長秀、木下秀吉、柴田勝家、森可成、佐久間信盛、織田信長。

織田軍オールスターズみたいな、そうそうたる顔ぶれです。

経直のお墓は先に紹介した織田信長の陣地の柳の場所から南に約300メートルにあるので、少なくとも300メートル以上は本陣を後退せざるを得なかった、

つまり、浅井・朝倉軍はそうとう強かった と言えます。


「麒麟がくる」では、「明智光秀が調達した200丁の鉄砲のおかげで勝てた」 みたいに言っていましたが、まさに小説的で作り話が過ぎるなあと思いました。

明智光秀がどこでどう貢献したのか、さっぱり分かりません。


このお墓のすぐ斜め後ろには、横山城(信長の敵方)がありました。

多分 横山城

「麒麟がくる」では、姉川合戦で勝利した織田信長はこの城で、

「浅井長政め、尻尾を蒔いて小谷城に逃げ込みおったわ。」

と、満面の笑みで言っていました。


こちらは、また今度登った時に改めて詳しく紹介したいと思います。

布陣図

続く♪
Posted at 2020/11/27 17:42:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 姉川の合戦 | 旅行/地域
2020年11月25日 イイね!

姉川古戦場①『織田信長と陣杭の柳』

『秋の我慢の三連休』が言われた数日前、「麒麟がくる」の史跡巡りで、姉川古戦場へ行きました。

ここはもう何度も訪れていて、数年前には周辺を3時間ほど歩いて、こってりとブログに書いたりもしたので、今回は主にそれ以外の、まだ行ってなかった(知らなかった)史跡などを中心に紹介したいと思います。

「麒麟がくる」では、サラサラっとやっただけで終わりましたが、この戦では色々なドラマがありまして、けっこう面白い戦の一つです。


1570年
浅井・朝倉連合軍と、織田信長・徳川家康連合軍の戦が、滋賀県長浜市の姉川でありました。

この戦で織田信長が勝利して、浅井氏・朝倉氏は滅亡へと続いていきます。


『織田信長と陣杭の柳』

織田信長の陣跡の柳です。



信長は、この柳(現在のは4代目)に陣太鼓をぶら下げて、指揮を執ったそうです。

信長 説明

この陣地の数百メートル北側に姉川があり、その川向こうには、浅井長政がいました。

浅井長政の陣地の数キロ後ろには、居城の小谷城があります。

朝倉氏は、当主の朝倉義景はこの戦には参加しませんでした。

・・・なめていたのでしょうか。



浅井・朝倉がここ(姉川の北側)に陣取るにあたり、信長の陣地(姉川の南側)の数キロ後方(さらに南)にある城の一族が味方だったので、信長を挟み撃ちにできると考えていました。

しかし、竹中半兵衛の調略により、その一族は織田方へと寝返っていました。

これで、織田信長は、安心して姉川の南側に陣を敷くことができました。

・・・浅井・朝倉は、とても焦った事でしょう。



戦の中では、浅井・朝倉軍が優勢で、織田軍は約300メートル後退しました。

織田軍の何段にも連なった構えも、次々に浅井・朝倉軍に打ち破られていったことより、決して織田軍の楽勝ではなかったことが分かります。

戦は、徳川軍が朝倉軍を横っ腹から攻撃したことがきっかけで、勝利の女神は織田信長・徳川家康らへ微笑みかけました。

因みに、信長の陣地のすぐ斜め後ろにある小山の反対側は、石田三成の生誕地 と、三成が秀吉にスカウトされた観音寺があります。

当時三成は10歳でした。

秀吉にスカウトされる前でしょうか。

自分の家(自分が働いていたお寺)のすぐ近くでの大戦、少年時代の三成の心になんらかの影響を与えたことは、まず間違いないと思います。

続く♪
Posted at 2020/11/27 08:38:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 姉川の合戦 | 旅行/地域
2010年09月04日 イイね!

姉川の合戦地跡と、浅井歴史民族資料館

『姉川の合戦』と『浅井長政』に興味が出たので、ちょっと調べて行ってきました。

まずは、浅井歴史民族資料館へ。




んんー? この建物見覚えあるぞー・・・

・・・そうそう、随分前にココにきましたよー。

アレは確か、8年ぐらい前、、、岐阜に来て間もない頃です。

あの頃はあまり歴史を知らなかったので、来てもよく分かりませんでしたっけ。

f(^^;)






資料館の中には、浅井長政が神社に謙譲した刀とか、小谷城の脇門が展示されていました。

ここの人たちもとても熱心で、親切でしたー。^^




小谷城について教えてくれまして、地図も貰いました。

小谷城は、日本一の山城らしいですね。



途中まで車でいけるけど、上の方の尾根伝いは、結構覚悟が必要だとの事でした。

次回、たっぷり調べて、準備万端にしてから、小谷城に挑戦してみたいです。

(^^;)








江の旗



来年のNHK大河ドラマは、ここが舞台ということで、宣伝に力を入れていました。

^^






庄屋の家



江戸時代の庄屋の家です。

中をちらりとのぞいてみると、半分だけで24畳はありました。

やっぱ、庄屋は金持ちだなー。







ここ



この歴史資料館の場所に、浅井・朝倉軍がいったん集結したそうですよ。

姉川へ進むか、小谷城へ戻るか、話し合ったそうです。

結局、姉川へ進むことにして、徳川・織田軍と合戦をしたということらしいです。







おいち



・・・子供たちの目が怖い。

(^0^;)




姉川の合戦跡に行くことにしました。


≪姉川の合戦≫
1570年、織田信長・徳川家康の連合軍29000人と、浅井長政・朝倉景健の連合軍18000人が、滋賀県長浜市の姉川を挟んで戦いました。

この合戦の2ヶ月ほど前、織田信長は、越前の朝倉義景を攻めていましたが、浅井長政に裏切られて、前後を挟み撃ちにされ、窮地に立たされました。

浅井長政は、信長の妹・お市の旦那なので、裏切りを予測できませんでした。

その時、羽柴秀吉・明智光秀をしんがり(部隊の後方・最も危険)に残し、命からがら美濃へ脱出しました。

この時のしんがりの帰還は、奇跡的なものだったそうです。

体勢を立て直した信長は、再び近江へ戻り、彼らに決戦を挑みました。







ちはら公園の刀看板


ここは、多くの戦死者の血で、大地が真っ赤に染まったので、血原(ちはら)と呼ばれています。






ちはら・千人切りの丘



ちはらの戦いでもっとも有名なのは、朝倉軍の武将・真柄十郎左衛門直隆です。

彼は、刃長五尺三寸(約160センチ)の刀を振るって奮闘しました。

最初、徳川家の家臣、向坂式部と戦っていましたが、弟の向坂吉政が、十文字槍を持って助太刀に入り、真柄を討ち取ったとされています。







伊吹山



合戦地のすぐ横の景色です。

山は、この大いくさをの行く末を、見届けていたのでしょうか。




姉川古戦場跡


一番有名なスポットです。

石碑は、合戦で死んだ兵たちの慰霊碑です。






姉川


南方向( 織田・徳川部隊方面 )を見た写真です。

ちょうど写真の正面辺りに、織田信長が陣取っていました。

部隊の後ろにある山が横山で、石田三成の生誕地のすぐ前の山です。



織田信長は、最初、小谷城を攻略するのは難しいと判断して、先に手前にある浅井家の支城である横山城を攻め落として、浅井長政をおびき出したそうです。














合戦の絵








浅井陣跡


この辺に、浅井長政が陣取っていたそうです。

今は豊かな田園が広がります。





家康陣跡


徳川家康が陣取っていた山です。

岡山(勝山)というそうですが、家康が陣取っていた山は皆総称されて勝山と呼ばれているのでしょうか。



朝倉氏の陣跡は住宅密集地の細道の先で、織田信長の陣跡は交通量の多い停車しにくいところにあったので、今回は行くのはやめました。

また次回、ゆっくり行こうと思います。





帰りにぷらりと立ち寄りました。

今年のお盆中に、突如として現れた、関ヶ原合戦に参加した武将たちの旗です。

関ヶ原旗


車で走ると、気持ちいいんですよ。

^^


関ヶ原旗2
Posted at 2010/09/04 09:25:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 姉川の合戦 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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