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すた☆君のブログ一覧

2022年01月01日 イイね!

三好一族の戦国史跡巡り。「鑓場古戦場」「勝瑞城と館跡」

詳細は、過去に乗せたので割愛させて頂きます。

鑓場古戦場


こちらは、三好一族の内紛 仇討の合戦場です。

家畜のうんこがコロコロ落ちていたので、よけて歩くのが大変でした。

(爆)

行くなら、南から北上するのがお勧め。

勝瑞城 館跡入口

館跡 手前御堀跡

館跡のお堀の 幅の広さ と 大きさ から、かなりの権力を持っていたと、容易に想像できます。

御堀跡

勝瑞城跡

三好氏の菩提寺 「見性寺」

続日本100名城に選ばれています。

勝瑞城跡のお堀

とにかく強風で、寒かった。
Posted at 2022/01/02 12:58:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 日記
2016年02月04日 イイね!

ご先祖様のお城あと  ~阿波 重清城址~

久しぶりに来た。





私の先祖は、阿波小笠原一族の宗家 小笠原豊後守長政で、長宗我部元親のだまし討ちにより、虐殺された。

次男も殺され、姫は末っ子の次郎六郎を連れ、お供十数人と共にお城を脱出。

十河存保の助けを借りて、讃岐の虎丸城で数年間住み、その後阿波へ戻って隠れ住み、三百数十年の後に私が生まれた。

長男は十河存保と三好一族の援軍により、お城を取り戻すも、3度やってきた長宗我部軍数万に攻撃され、重清城は落城した。



友人にこの話をするとたまに  『なんで分かるの?』 と尋ねられる時がある。

家紋が同じと言う理由で、誰かの武将の子孫だと思い込んでいる人もいるらしい。

私の場合は、家系図が残っているし、石碑もある。


もっと先祖を遡ると、阿波小笠原一族は4つの家に別れている。

分家した人たちは 三好 とか、 一宮 とか名乗り始めた。

阿波小笠原一族は、清和源氏の流れを組む一族であるので、私の中には本物の武士の血が流れている事になる。


これだけ戦国にはまっているのは、きっとそれも原因の一つなのだろう。





土塁


ここはやっぱり、土塁が綺麗。

町の人たちが綺麗に整備してくれているんだなぁと思う。

感謝、感謝。
Posted at 2016/02/04 19:04:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2016年02月04日 イイね!

阿波の名城  一宮城址

今回は帰省中に、気になっていたけどなかなか行けなかった 一宮城 へ行ってみた。

何故行けなかったかと言うと、結構キツイと聞いていたからだ。

でも登ってみると、案外いけるもんだなあと思った。





お城は山のてっぺんにあって、登り口は一宮神社の横にある。

四国八十八箇所巡りのお寺の正面なので、とても分かりやすい。

一宮神社
石灯篭

石の灯篭、あまりにも巨大で驚いた。

徳島も、まだまだ広い。







堀切


↑これ、何が凄いって、赤マーク部分の山をごっそりと削り取っている。

人工的に道を造って、山の右側が単体の小山になっている。

ここを攻め上ったら、両側から撃たれるだろうなあと思った。





帯曲輪



本丸の周りをぐるりと囲むように、平坦な道が造られていた。

広くて綺麗だったので、驚いた。




本丸址への石段


よくみる石段。

荒々しい石垣に萌える。



傾斜60°ぐらいの手をつかないと上り下りできないぐらいに強烈な石段を登ると、ポッカリと山のてっぺんに突き出た平地があった。



本丸址 展望




これは、徳島のマチュピチュだと言っても過言ではないなあ と 思った。

最近、なんでも海外と比べたがるんで。



徳島のお城めぐりをする人へ。

お勧めですよ。
Posted at 2016/02/04 06:48:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2012年09月04日 イイね!

『植桜城址 篠原長房~織田信長が警戒していた男』 8月16日中編 徳島帰省日記

徳島市国府町の矢野城址を出た後、川島町へと向かいました。

ここには、三好義賢(みよし よしたか)の重臣、篠原長房(しのはら ながふさ)の城 植桜城址 があります。









植桜城址 到着ラフェスタ



≪篠原長房 は、どんな人物?≫

篠原長房は、三好義賢が泉へ行っている間、阿波を守っていました。

三好義賢が死んだ後は、阿波と讃岐を統治し、分国法 『新加制式』 を制定。

陪臣の身ながら、分国法の制定者となったのは、長房ただ一人。

将軍義栄の擁立に際して畿内に登場した。

三好三人衆と共にしばしば禁制などに著判している事より、重要人物だったことが想像できる。

三好長慶が死んだ後は、殆ど一人で三好三人衆政権を支えていた。

また、戦の時に織田信長は、篠原長房がいると知ると逃げたそうです。

織田信長は彼を 『三好氏中、あなどり難し』 と、最も警戒していた。

『昔阿波物語』によると、篠原長房の父祖は、近江篠原の出身(滋賀県野洲市小篠原)で、多賀社の神官の従者として阿波へ下り土着したと言われています。









入り口付近全体


場所ですが、川島高校の西の道を南に2キロ?ぐらいいったところに、右へと曲がる山道があります。

決して、手前の住宅街では曲がらないで下さい。

曲がった山道を数百メートル(西に)進んだ、ぷっくらと膨らんだ大きなカーブの先っちょの右手(北側)に植桜城の入り口があります。

植桜城址は、山の上の入り口から山の斜面の下り方面へと5分ぐらい行ったところにあるそうです。

大きな山の傾斜の一角で、普通山城というと、だいたいは麓から登って上へいくというイメージがありますので、行った時は正直、意標を突かれました。





説明 



着いたはいいですが、結論から言いますと草が凄かったので、奥へと進むのは断念しました。

数歩進んで、ギブアップです。

この山城を攻略するならば、草が枯れている秋の終わりか冬がベストかもしれません。



≪和泉 久米田川の戦い≫
1562年
三好義賢が戦死し、六角義賢が京を制圧した戦。
篠原長房連合軍(三好家臣団をまとめた)と三好義賢VS六角義賢と畠山高政

*この戦の絵が大阪城にあるらしく、二日後の8月18日に行ってみたけど無かった。





入り口 


≪篠原長房の最後≫
三好長治(最後の三好一族)と絶世の美女・大形殿(少小将 しょうしょうしょう)との女性問題が嫌になり、政界を引退、上桜城へ隠居した。

しょうしょうしょうは男癖が悪く、夫を殺した男の妻となったりして、最後はちょうそかべもとちかの側室となった。

しかしそれが謀反の企てと間違われ、長治に出兵され、戦う事になる。

戦国の男達の人生を狂わす絶世の美女。

やはり女は怖い。

(爆)




入り口入ってすぐ




篠原長房は、上桜城の麓の大日寺、そして植桜城の支城的役割の善入寺と東弾寺 に、1500人の兵を置く。

そして対する敵、十河存保が、7000人の兵を吉野川を挟んだ北の対岸に敷く。

大変激しい戦が行われ、戦死者はなんと、3000人。。。




この激しい戦をしっている徳島県民、どれぐらいいるのだろうか。。。

僕も今回初めて知ったのだが。。。

みんな、徳島は戦国時代はあんまり関係ないとか思っていないだろうか?

人気の武将がいないからよくわからない 

蜂須賀小六ぐらいなら分かるけど

で終わっていないだろうか。。。



矢野城址のポーネグリフを建てた矢野さんみたいに、もっとなんらかの形で徳島の歴史をアピールした方がいいのではないかと、今回の件を通じて思わされた。






入り口くぐった先 道なき道 



今回植桜城跡へ行く為、僕はたいちょ~とかめさんとお別れしたあと、遅くまでこの城の事や、篠原長房の事を調べた。

その時に、支城的役割の3つの寺の存在を知り、その場所を調べて、行ってみようと考えた。


しかしながら、植桜城の麓の 大日寺は、今はもう無いということがわかった。

善入寺は、市場小学校の近くに『善入寺 土地改良区(阿波市市場町市場字上野段73)』というのを発見した。

ただ、市場町は吉野川の北岸なので、支寺ならば吉野川の南側ではないのかな?と疑問が残った。

東禅寺は、石井町高川原字南島459-1 に同じ名前のお寺があったが、禅という漢字が違ったのでどうだろうかと考えた。

結局これらの二つの寺は行かなかったのだが、また次回、機会があればゆっくりとまわりたい。

行ってみたら分かる事実というのもよくある話だ。






石碑 



篠原長房は、この戦で戦死した。

三好政権を支えた大きな人物の生涯が、ここで幕を閉じる。



上桜城址横からの展望北側 吉野川・讃岐山脈


景色が綺麗だ。

晩年、篠原長房も、この景色を見たに違いない。

彼は最後、何を思いながらこの世を去ったのだろうか。。。





植桜城址のある山を下った後に、川島城へと行きました。

川島城

ここは国道192号線沿いにあり、誰もが知る地元では有名なお城です。

友人N君は城の裏にあったテニスコートが気になったらしく、そちらへプラプラと歩いていきました。

(笑)




川島城は、先に行った上桜城の代わりに建てられた城で、これは模擬天守です。
 
篠原長房を滅ぼした戦での功労者 川島兵衛之進(川島惟忠)がこの城を築きました。

その後、 蜂須賀家政の家臣である林能勝が城主となりました。



僕は川島城よりも、上桜城を復活させて欲しいです。

歴史的にも、そちらの方が面白いです。

川島城なんて、ただきれいなだけでつまらんです。

それにしても、滅ぼされた篠原長房を思いながらこの城の写真を観ていると、なんだか胸が切なくなってきますよね。






たいちょ~殿、魅力的な人物を教えてくれて、ありがとうございました。
^^



次はいよいよ、阿波の史跡めぐりラスト、去年見つからなかった松永久秀の生誕地 リベンジ編 へと続きます。

こうご期待あれ♪

^^

Posted at 2012/09/04 06:57:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域
2012年09月03日 イイね!

『矢野城址・三好義賢の重臣、矢野国村の城』  徳島帰省日記 8月16日前編 

夕べかめさんに教えてもらったモンブランが美味しいというケーキやさんへ行きましたが、残念ながらお休みでした。
(笑)

ケーキ屋 おかやま  



さあ、ここからいよいよ、三好一族の史跡めぐりへと突入してきましょう。

しかしそのまえに、どうして私が三好一族にこだわるのか?

どうして私は足軽隊で 阿波の重清を名乗っているのか?

について説明しておきましょう。





すたのルーツ
『去年のお盆の徳島帰省日記より』
https://minkara.carview.co.jp/userid/572723/blog/24399929/
私は、阿波の戦国大名・小笠原豊後守長政(1万5千石)の子孫にあたります。

遠く先祖は、清和天皇です。

長政は、四国制覇を企む長宗我部元親に殺され、姫が子供を連れて吉野川を下って逃げ隠れ住んで、現在の私があります。

美馬市に重清城址というのがあり、そこが私のご先祖様の城になります。

重清城は、十河存保の兵4000人とちょうそかべもとちかとの兵数万人との間で取り合いになり、落城しました。

十河存保は、三好長慶のおいになります。

三好長慶は、京都、近畿など9カ国を支配し、織田信長の前に事実上日本の政権を握った人物です。

小笠原一族は、三好と名前を変え、細川氏を滅ぼして、阿波の覇者となりました。

ですから、ご先祖様は三好一族のルーツとなります。

そういう過程もあって、私は三好一族には大変な興味があり、三好一族の史跡巡りをしています。

ですから当然、長宗我部元親は大嫌いで、今はやりの美少年だと尻尾振って、彼を崇め奉る人たちを見ると、

ばかじゃねーのか!?

と思ってしまいます。




さ、続きいきましょう。
(笑)



たいちょ~に、国府に矢野という城跡があって、そこにたくさんの石碑 ポーネグリフがある。

三好一族のお城で、上りやすくて面白いから と勧められ、さっそくいくことにしました。



このお城はインターネットには載っていないらしく、携帯のお城巡りのサイトには、誰も載せないからと、たいちょ~自らが写真と場所を載せたそうです。









徳島市国府町
かわいい古墳 


古墳の公園がありました。

すぐ南に考古資料館があり、そのさらに南に駐車場があり、たいちょ~のアドバイスどおり、そこへ停める事にしました。





市立考古資料館 


車の外は炎天下。

日焼け止めクリームをたっぷり塗り、虫除けスプレーを体中に吹き付けました。

水分を持ち、帽子をかぶり、トレッキングシューズに履き替え、フル装備で 友人N君とともに出発しました。


駐車場から南へ 


駐車場のすぐ南に道しるべがありました。

ここを右に曲がって、山の方へ進んでいきます。



角の道しるべ 

それとなく山の方へと進んでいくと、少し坂道があって、それをのぼったあたりに城址の入り口がありました。

たいちょ~に詳しく教えてもらっていたので、迷う事無く、スイスイと到着できました。

^^


矢野城址 杭 


ここは、三好義賢の重臣、 矢野国村の居城でした。


城址入り口の角 


板 



天守閣跡 お堂 

このお堂の中に、矢野国村が眠っているのでしょうか。




祠 


お堂の周りに、たくさんのポーネグリフを発見しました。

三好 とか、松永久秀 などの文字が見られました。


ポーネグリフ1


これらの石碑 ポーネグリフたちは、矢野国村の子孫が建てたらしいです。



ポーネグリフ2 


子孫の方の先祖を敬う、熱い情熱のようなものを感じました。



ポーネグリフ3 



・・・ポーネグリフ、高いだろうなあ。。。



ポーネグリフ4 



ここで初めて、城主の名前が出てきました。


ポーネグリフ4 アップ 


ものすごい蚊の多い藪をつっきり、ささっと下山する事にしました。





みかん畑がありますが、これは地形を生かしたものでしょうか・・・。

石垣段々 

矢野国村は、讃岐 虎丸城主も兼ねました。

脇城外での戦いで戦死しました。


城山全体 


景色が綺麗です。



国府の町並み 



家からも近くて、なかなか面白い山城でした。

三好をよく勉強するきっかけにもなりました.
^^






さて、次は、川島町の 上桜城址 篠原長房 の城址です。

彼は、三好義賢が阿波を離れた後に、讃岐とともに守っていた人物で、織田信長が逃げたほどの武人だったらしいです。





戦国史跡めぐり、じゃんじゃん、いきますよ~。

ではまた。


^^
Posted at 2012/09/03 22:29:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 阿波の戦国史跡 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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