• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

すた☆君のブログ一覧

2013年01月19日 イイね!

柳川城址・立花誾千代・高橋紹運の菩提寺、そしてさよなら柳川 九州2500キロの旅 

宮永様居館跡を離れたあと、柳川城址へと向かいました。

学校の運動場の横にある細い道を20メートルぐらい進んだ突き当たりにありました。

発見できたのはいいが、Uターンするスペースがなかったので、妻に運転してもらい、私は車道で元の道に戻るべく、バックオーライしていました。




柳川城址

戦国時代、九州には3大勢力というのがあり、龍造寺氏、大友氏、そして島津氏というのがありました。

立花家は大友宗麟の家来でしたが、島津が勢力を拡大し、龍造寺氏も『沖田畷の戦い(島原)』で島津に討ち取られ、わずかに大友氏が残るだけになりました。

大友氏の代表である大友宗麟は、立花宗茂の二人の父親ら有能な家臣たちにも恵まれ、大変強かったのですが、宗麟がキリスト教にのめりこみ、息子の代になった頃から、戦での敗北などをキッカケに、衰退していきました。

この頃、豊臣秀吉が巨大な力を手に入れ、島津を成敗する為に九州に侵攻しました。

立花家は秀吉と手を組んでいたので、秀吉からの援軍が来るまで、夫婦力を合わせて立花城を守り抜きました。

その後、島津軍は薩摩へ戻り、宗茂は秀吉からこの柳川城をもらいうけ、立花城からここへと移って来ました。




説明




バックオーライしていると、後から一人のおばあさんが散歩してきました。

毎日の散歩コースとしているのでしょうか。


車のナンバーをみて、『岐阜からきたの?』 と、驚いていました。

『立花家に興味があるからここにきました。』 というと、『遠いところから・・・。』 と驚き、


『 柳川城は水に囲まれている 』 

とか、

『 この柳川市は平地で山が無いので、この城山が高さ4メートルの柳川で一番高い山 』 


とか、教えてくれました。


こういう地元の人たちとの話はとても貴重で、面白いです。


^^





城のてっぺん



少し会話をした後、お礼とお別れの挨拶をしてこのおばあさんとお別れし、再び大通りへと戻りました。

心が暖かくなりました。


ココに来て、このおばあさんと出会えてよかったです。

^^





柳川城 写真説明




陽もだいぶんくれかかってきました。

今夜の宿は長崎市なので急がないといけないのですが、まだあと二つ行きたい場所が残っていました。


『こんな遠いところは、もう二度とくる事もないだろうから、後悔の無い様に』

妻の言葉をもらい、宮永様居館跡、そしてこの柳川城址へとやってきました。

そしてあと二つ  高橋 紹運と立花誾千代 の菩提寺へと向かう事にしました。

中に入るうんぬんは別にして、とりあえず、近くまで。

もうすぐそこまで来ているから。。。







高橋 紹運 (立花 宗茂の実父) の菩提寺  天叟禅寺

福岡県柳川市鍛屋町23



1586年 島津氏は大友氏を滅ぼす為に、岩屋城へ50000人の大軍を差し向けました。

高橋 紹運は宗茂を救う為、立花城へいるように命じ、自分はわずか数百人の兵とともにの城へ立てこもり、戦から半月後に 高橋 紹運は割腹 そして家来は全員討ち死にという壮絶な最後を迎えました。

享年39歳





もう少し時間があったらここも参拝させていただきたかったのですが、通りすがりにシャッターを切り、次の目的地へ。

ここに 高橋 紹運 が眠っているんだなぁと思いつつ、足早に移動していきました。

夕日の中に暗く見える本堂らしき建物が、小学校の修学旅行で初めて見たあの京都の新京極での本能寺に似たものがありました。



ゆっくり柳川を楽しもうと思ったら、最低2日は必要ですね。




立花 誾千代 の 菩提寺   良清寺 
手前
柳川市西魚屋町49


魚屋町という町の名前が面白い。

^^





良清寺 入口の門


ここもこのまま素通り。

再び立花城主に返り咲いた宗茂は、ここに誾千代の墓を作り、手厚く供養をしたそうです。






・・・ただ思うのは、大切にするのは生きているうちにしろ、死んでから手厚く供養しても、なんの意味も無い。

立派なお墓や立派な仏壇、そんなものいらない。

親に対してもそう。

自分の事ばっかり考えるな。

いつまでも親に甘えるな。

生きているうちに、いっぱい親孝行しろ。

親はみんな自分の身を犠牲にしてがまんして精一杯育ててくれたんだから、子供たちよ感謝しろ。

それが言いたい。。。



・・・ちょっと脱線した。

^^;





一通り目的どおり全ての史跡を巡り、いよいよ柳川とお別れする事になった。

大きな川の向こうに、一風かわった橋が見えた。


大きな船が通るとき、船の真ん中が持ち上がる仕組みだ。

徳島にもある。

上げ橋




柳川市。

とても魅力のある風情のある街並みでした。

興味のある人は、是非訪れてみて下さい。

^^
2013年01月18日 イイね!

圧巻!!黄金の兜群と立花家豪邸・御花  九州2500キロの旅

立花家資料館の隣にある立花家豪邸・御花へと移動した。




ここには、昔ながらの和風の豪邸と、文明開化の頃のものなのか、洋風の白い建物とが廊下を通じて合体しているアンバランスな庭と建物がある。

和洋豪邸


豪邸の前に池がありそのすぐ隣に川がある。

船頭さんの姿が見えた。



川下り









豪邸の中には、お目当ての黄金の兜が。





兜縦ずらり



これは、スゴイ数だ。






横にずらり



朝鮮出兵で使われた兜もあるらしい。


兜説明








兜アップ





凄い、凄すぎる。

いったい、何十個あるんだ?

ってか、どうしてこんなにたくさん残っているんだ??

これはもう、奇跡だ。

資料館に数個展示されていたが、あんなのこれに比べれば、へ みたいなものだ。




延々と兜



しかも撮影OKというのがまた凄い。

やはり立花家は太っ腹のようだ。




ここまで来てよかった。

本当によかった。

こんな凄い光景、日本広しいえども、おそらくここぐらいだろう。



兜に圧巻される





そして、兜だけでなくこの庭園もまた凄い。




池の手前












池にはたくさんの鳥達が。




この和風の豪邸の中は、披露宴会場になっている。

新郎新婦の席の後ろの景色がこれまた凄い。

どこをとっても絵になる。。。


テーブル





ここから先はいけなかったので、2階のベランダから撮影。




縁側から池へ




ああー、こんな池つきの家に住みたい。。。










池のすぐとなりに川が流れている。




右川左池





池上から




眠いのも忘れ、時が経つのをも忘れてしまうぐらいに見入ってしまいました。

大変素晴らしい屋敷でした。

^^
2013年01月17日 イイね!

立花誾千代  屋敷跡      九州2500キロの旅

御花は長くなるので、ちょっと先へ進みます。



御花を出たあと、宮永様居館跡 を探しました。

宮永とは、地名をさします。

福岡県柳川市の宮永という所に住んでいた偉い人の屋敷跡。

ここでは、立花 誾千代(たちばな ぎんちよ) のことをいいます。




大体の場所はわかったけど、道が細そうで車で入っていく勇気が無かったので、公園の駐車場に停めて歩いていく事にしました。



睡眠不足でふらふら状態のすた。


・・・おおっ、なにやら楽しそうな遊具がっ!?






公園




いや、違いますよっ、妻に強要されてっ!!
(爆)




数百メートル歩いて、くる~っと回って怪しげな場所を発見、ようやく到着。

児童施設?の玄関の横にありました。





宮永様居館跡


ここは本当は、立花宗茂の別荘にあたります。

夫婦の関係がうまくいかなくなって、柳川城を出た誾千代はここに住んでいた という事です。

理由は宗茂の浮気だとか、新しい妻が城に入ってきたからムカついて出て行っただとか(まあどうでもいいですが。私芸能リポーター嫌いですし)。

誾千代がここに住んでいたのは、朝鮮出兵の頃~関ヶ原合戦まで だったと思います。

彼女を慕う多くの家来達もここへついてきました。



別居はしていたものの、時々城にいっては、いろいろ助言


『石田三成に味方するな!立花家をほろぼすつもりか!!』 とか


をしていたようです。



立花宗茂は、関ヶ原合戦で西軍について、負けるとすぐに柳川城へもどってきました。

しばらくすると、北から鍋島軍30000人、北西から黒田軍5000人、そして南からは加藤軍25000人が攻めてきました。

加藤清正は小西行長の宇土城を攻めてからこちらへ向いました。

清正と宗茂は朝鮮出兵で仲がよくなり、宗茂を助けたいと思っていました。

柳川城攻めの前、清正は 『島津を一緒に攻めないか? 家康から許されるだろう。』と宗茂を誘いました。

しかし宗茂は 『島津は朝鮮出兵で共に戦った仲間。それに小さな柳川城に戻らずに島津に来ないかと誘われた。だから島津攻めはできない。』
とこれを断りました。

鍋島は立花宗茂の強さを知っていたのですぐには攻めず、時間をおいてから攻略にあたりました。

わずかな兵力しかいない立花軍でしたが、鍋島軍の13段の構えの9段目までを崩す大奮闘を見せましたが、多くの死傷者を出してしまいました。


誾千代も夫を助けようと、加藤軍を足止めするために、女性ばかりの100人からなる薙刀隊を組織し、江ノ浦道の入口を固めました。

しかしそれを知った清正は、かねてから噂に聞く強い女城主が待ち構えており、『そんな恐ろしい道は通れぬ』と遠回りをしたそうです。

立花軍と戦う気のなかった清正は、黒田や鍋島にとりつぎ、宗茂に丁重にとてもいい条件で開城を勧告し、それに同意した宗茂は柳川城を明け渡したそうです。

この時誾千代は、とてもくやしそうだったんだとか。。。

その後、宗茂は柳川を出て京都に行き、20名の家臣たちとともに貧しい浪人生活を送り、徳川家康に仕官し、再びこの柳川城主へ返り咲きました。

浪人生活中、東軍の勝ち組たちから高給で家来にならないかとの話が宗茂や家来達にきましたが、彼らはプライドをとり、それを蹴り飛ばし、貧しくも堂々と生き抜いたそうです。


誾千代は、宗茂が柳川を出たすぐあとに病気にかかり、この世を去りました。

夫がいなくなって、張り合う気力がなくなったのでしょうか、まだ30代の若さでした。

宗茂は長生きし、74歳でこの世を去りました。









宮永邸跡をあとにし、再び公園に戻る事にしました。

すぐ北側には、こんな不思議な光景が。。。




謎のつっかえ棒




・・・このつっかえ棒、なんだろう?

誰か知っている人いたら、教えて下さい。

(笑)



それにしても、立花誾千代の屋敷跡。

石碑だけのちょっとした史跡ですが、イロイロな事を考えさせられる、いい史跡でした。

^^
2013年01月12日 イイね!

立花家資料館  ~立花宗茂の甲冑~

御花に到着した。

出発日に多少の睡眠はとったものの、前日ほとんど徹夜で兵庫から下関まで走りまくり、ほぼ徹夜状態で、まさに睡眠不足のフラフラ状態だった。

『・・・眠い。・・・体がだるい・・・。早く布団に帰化したぁ~い・・・(オイ!)。』

などとぼやきながら、柳川の一番の見所ともいうべき、御花に無事到着致しました。

御花 とは、江戸時代に建てられた立花家の庭園のある豪邸のことをいい、同じ敷地内には、立花家資料館があります。

ここには、立花宗茂の甲冑があります。



御花入り口 正門






資料館 前庭







白い洋館







通路





通路を振り返ると



さっき見た白い洋館が。。。




ぎん千代のポスター




今回、これ、やってて欲しかったなぁ~。。。

^◇^;




おない歳トリオのポスター




真田幸村と伊達政宗と立花宗茂は、三人ともおないとしだったんですねぇ~(昨日初めて知ったが^^;)。






そして、ついにここまでやってきた。



入り口へ~っ、 ヒアァ・ウィイッ・ゴウッ!!
(バサラの政宗風に)


資料館入り口








入ってすぐのところには、小さな人形など、とても細かい工芸品などが展示されており、一番奥におめあてである宗茂の甲冑などが展示されておりました。




甲冑ポスター





甲冑を見た感想。。。




『でかっ!!』


『俺の甲冑、ちっちゃあっ!!』



・・・職業がらでしょうか、そういうところに目が入ってしまいます。
^^;


自分はよくあの大きさの甲冑を着られるなあと思いました。

昔の人の身長は平均で150センチといいます。

私の身長は、172センチですので、縦はいいとして、横。

もうこれ以上太らないように・・・、次の春の出陣に備えて、ダイエットしなければ・・・ などと、そんな事ばかり考えていました。

^^;


あと、宗茂の兜についている大きな輪っか。

おおー、これは私の兜と同じではないかっ!!

(ただし、私のは一回り小さいが。^^;)


でも、調べたら可児才蔵も兜に輪っかをつけていたしで、これはなかなかいいではないか

俺の甲冑は、井伊の赤備えで、立花宗茂と、可児才蔵が合体している、最強じゃあねぇかあ!!

などと思ってしまいました。

あと、私の甲冑にも腹に大きく丸の字を描こうかな・・・などとも考えてしまいました。

^^;



・・・まあ、それはともかく。

本物の立花宗茂の甲冑を見られて、よかったです。

^^


2013年01月11日 イイね!

福厳寺  立花宗茂の菩提寺

ここもまた、わかりにくかった。

とにかく、入り口が分かりにくかった。

細い道を入っていくと、ちょうどそれらしきお堂の裏の墓地の辺りに到着してしまった。

それが菩提寺である保障はどこにもない。

ただ、ナビの住所ではここに違いなかった。

まったく駐車スペースが無いので、妻に車で待機してもらい、私はカメラを持って本堂の入り口があるらしき方向へ走っていった。



すると運よく正面に出ることができた。

あった、これが立花宗茂の菩提寺、福厳寺!!

これは間違いなく、本堂だ。

ということは、ここに宗茂が眠っているんだ!!


本堂


お墓参りに来ていた人たちは2人ほどいたが、こちらには誰もいない。

ただ静かに、そのお堂はたたずんでいた。

まじかにみると、結構大きかった。

その静けさが、またよかった。

田中吉政のそれとも、また雰囲気が全然違う。

吉政の方は、豪華絢爛で特に最近金をかけている という印象を受けた。

こちらは、わびさびがある という印象を受けた。




なんというか・・・、大きなものが静に腰をすえてたたずんでいる とでも言えばいいのだろうか・・・。



戦の天才は、今でもここで静かに眠っている。

そういう感じがした。




右を見ると、入り口の門が見えた。





門の上の空を流れるような雲の形が、彼のイメージによく似ていて、すがすがしい感じがした。





また、本堂から左を見たら、こんな建物があった。


本堂の横 



もうちょっと時間があったならば、もしも運よく入り口に一発でたどりつけたならば、恐らく私の性格からして、ピンポンを押して、お堂の中に入らせてもらうよう、お願いしていたであろう。

だが、この日は長崎まで行かなければならない。

御花もまだ行っていない。

ささっと写真を数枚とって、ここを離れる事にした。

でも、ここに来られてよかった。

ここまでたどり着けた事に、いくらかの達成感と満足感を味わえたから。。。




福厳寺(ふくごんじ)
福岡県柳川市奥州町32-1




次回、いよいよ御花です。

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

霧の中の決戦地 
カテゴリ:関ヶ原合戦の史跡
2010/12/24 11:25:35
 
関ヶ原町の史跡 『十九女池・六部地蔵・七つ井戸・与市の墓』 
カテゴリ:岐阜県の史跡(関ヶ原合戦以外)
2010/12/20 12:40:04
 
関ヶ原町 『常盤御前の墓・鶯の滝』 
カテゴリ:岐阜県の史跡(関ヶ原合戦以外)
2010/12/20 12:36:11
 

愛車一覧

トヨタ ノア ハイブリッド トヨタ ノア ハイブリッド
ノアハイブリッド
マツダ ロードスター マツダ ロードスター
2代目の戦国ロードスターです。 出陣時は関ケ原バージョンになります。
日産 ラフェスタ 日産 ラフェスタ
中古で買って、5年間乗りました。 4WDです。 買って半年後に底から大きな「ブーン」と ...
マツダ ロードスター すた号 (マツダ ロードスター)
マイナス2℃で、オーポン走行しました。 冬でも幌をあけるオーポン漢を目指しています。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation