
先の休日、妻が美濃加茂の友人宅に遊びに行くと言うので、私も運転手として同行しました。
ランチは女たちで食するらしいので、私はどこかに行くよと言うことで、どこで(4~5時間)時間を潰そうかなと色々と考えました。
①各務原イオンでショッピングと映画。
しかし、1800円払ってまでして見たい映画もなし(大垣だと1000円なので)。
②犬山城を堪能。
有楽園(1000円)と博物館も考えましたが、正直5時間はきつい。それにもう天守は行き飽きた。
③車の中で寝る、または読書。
しかしこれは寂しい。
そこで、ちょっと引き返すが、関市を探してみると、岐阜県博物館(100年公園)で『天下人の時代 ~信長・秀吉・家康と美濃~』という特別展を開催中と言うことで、ちょうどこれはいいと思い、どんなものかとHPを調べてみたら、
三英傑の古文書に加え、関ヶ原合戦の古文書を中心として展示していると言う事で、『これは、行かねば!!』
と、足を運ぶ事となった。
博物館へ行ってみて、非常に驚いた。
何に驚いたって、そろえられている各古文書の内容の凄さにだ。
①まず、肖像画。
三英傑、全てそろっている。
教科書に出てくる肖像画が全てあった。
これだけでも凄い。
②『信長記』
一般には、信長公記として知られているが、元本は信長記だった。
文字が大きくて行間が開いていて、とても分かりやすく書かれているなあと思った。
展示場の入り口でビデオをやっていて、信長記で長篠の戦で信長が3000丁の鉄砲を使ったとかかれているが、それは本当か? というのを高校生が信長記に書かれている全ての『三』という漢字を拾い出して、太田牛一本人が書いたものかを調べるという面白い研究をやっていた。
信長記は、後から書き加えられたものもあるらしいからだ。
検証の結果、同じ『三』があったのは、全体の16%だったので、『長篠の戦で3000丁は疑わしい』という結論に至っていた。
しかしそれについて、岐阜県博物館の学芸員の方が、『信長は当時、よそから鉄砲を借りてきて というのが多かったので、3000丁までもはいかなくても、2500丁はいったと考えられる』と推測していた。
なかなか面白いビデオだった。
地元の高校生も、よく頑張ったと思う。
③竹中半兵衛の古文書
私ここに来て初めて知ったのだが、竹中半兵衛が世に残して今発見されている古文書は、一つだけらしい。
で、その一つが展示されていた。
生 竹中半兵衛の文字だ。
因みに竹中半兵衛は重治というが、重虎(1564年)とも名乗っていたらしい。
④信長・秀吉の古文書
これは多くあり、美濃の高木氏(大名扱い)との手紙のやり取りが面白かった。
信長が感謝状を送ったり、秀吉が不振そうにしたり、感謝したり。
美濃の高木氏といっても多分、知らない人がほとんどだと思うが、彼らは高木氏とのつながりを大切にしていたというのがよく分かり、非常に面白い古文書だった。
この辺興味があるので、また詳しく調べてみようと思う。
⑤岐阜城(信長の館跡出土品)
焼けた瓦(関ヶ原合戦前に焼けた)とか、錆びた刀とかあった。
他にも、信長・秀吉に関する古文書がいろいろありました。
・・・で、ここからが、関ヶ原合戦に関する古文書になります。
この先に目にするものが、私にとってはかなりの衝撃的なものでした。
なにが凄いって、関ケ原の歴史を勉強してきた知っている史実が、家康らの手紙に同じ内容事が書かれていたんですから。
関ケ原合戦に興味がある人、必見ですよ。
①大柿を乗せた器が展示されていました。
家康が美濃にやってきたとき、地元の人がジョークで大きな柿を献上しました。
それを見た家康は、大垣(おおがき)を手に入れた!(西軍の拠点が大垣城だったので) と大変喜びました。
その時に、柿を乗せた器 が展示されていました。
・・・衝撃でした。
≪その1 村越茂助に家康が託した手紙≫
関ヶ原合戦前、家康は合戦の2週間前まで江戸にじっとしていましたが、東軍の先発隊(豊臣恩顧の武将たち・池田輝政、福島正則ら)が、どんどん西へと進んで、清須城(福島正則の城)で、各武将たちが騒ぎ始めました。
『家康殿は、何故やってこないんだ?』
不振そうにする武将たち。
彼らを動かそうと思った家康は、愚直な人間、村越茂助(むらこしもすけ)を清須城へと送り、メッセージを伝えさせました。
ストレートにメッセージを伝え、福島正則らは奮い立ち、岐阜城攻めへと向かいました。
このときに、家康が村越茂助に託した手紙が展示されていました。
私は家康様の使者であると言う証の証明書です。
・・・衝撃的!!
まさに、このひと言です。
茂助、この手紙を懐に入れて、緊張しながら清須城へ入っていったんだろうなぁ。
この手紙を福島正則に見せた時。
福島正則がこれを見たとき、どんな顔をしたんだろうなあ。。。
とか想像すると、ゾクゾクしてきました。
(笑)
≪その2 家康から池田輝政への手紙≫
難攻不落の岐阜城はたったの2日で落とされてしまいました(若い城主の戦法が愚かだったのですが)。
それに対して、感謝の言葉を送る家康の手紙が展示されていました。
おおー、勉強したとおりだあ!!
と、感動しました。
で、これだけでも感動物なんですが、それよりももっと凄い手紙がありました。
この次の手紙です。
破竹の勢いで西に進んでいく 東軍・豊臣恩顧の武将たち。
しかしそれは、家康の想像をはるかに超えたもの。
家康の脳裏に浮かんだ不安。
『・・・こ、このままいったら、豊臣恩顧の武将だけで西軍を倒してしまうのでは・・・!?』
『・・・そうなったら、合戦が終わった後に、彼らに褒美をたくさん与えなくてはならない。。。』
『・・・それは非常にまずい。。。』
そこで家康が池田輝政に送った手紙。
あなたたちの岐阜城攻めの活躍は、手紙だけでは伝え切れません。
私は東海道から、息子は中山道からそちらへ行くので、これまでどおりに働いて下さい。
ですが、私たち父子(家康・秀忠)が到着するまで待つということももっともです。
という旨の手紙が展示されていました。
・・・これって、自分たち親子が着くまで待っててください っていうお願いじゃないのか??
家康、こんなことを言ってたんだなあと思うと、家康ちょっと可愛いなあ などと思ってしまいました。
あと凄かったのが、
≪毛利輝元と宇喜多秀家の連判状≫
共に関ケ原合戦で仲間として 西軍として戦うから、他の大名たちも兵士を集めろ という内容だったと思います。
これだけでも凄いですよね。
で、これは個人的に衝撃的な古文書で、なんと、井伊直政の血判があったのです。
しかも、関ヶ原合戦に関してですよ。
関ヶ原合戦が終わったあと、井伊直政は毛利輝元と家康との間に入り、調和に尽力したそうです。
で、その手紙と言うのが、
家康様は毛利輝元殿をいいように処分するから、これからも今までどおりに働いて下さい。
という内容で、それに対して井伊直政が、私からも保障しますよ という文章と共に、サインと血判を押していたのです。
・・・井伊直政の血が現代にもまだ残っているのかーー!!
鳥肌が立ちました。
あと、顕如の手紙 と足利義昭の手紙 があった。
同じ大きさの巻物なのに、顕如のは真ん中に小さな文字でまとまって書かれていて、足利義昭のは、紙いっぱいに大きくずらずらと書かれていた。
前者は非常に几帳面で真面目な性格、後者は大雑把 と思え、これも大変面白かった。
顕如は去年の大河でよく出ていた。
石山本願寺にこもって信長と戦っていた。
ギリギリの状態で過ごしていたから、手紙も切羽詰った感があったのかもしれない。
足利は将軍なので、余裕があって大雑把だったのかもしれない。
今回の展示会は、衝撃の連続でした。
本当に行ってよかったです。
今までに古文書ってあっちこっちで目にしてきましたが、今回ほど面白いと思った事はありませんでした。
関ケ原ファンのみなさん、是非行って来て下さい。
絶対に感動しますよ。
あまりにも感動したので、受付で特別展の本(写真右側)を買って、『よかったですよ。』と伝えると、
『(担当の学芸員さん?に)伝えておきます ^^』
との事でした。
この展示会は、前期と後期があって、5月26日~後期が始まるんで、また見に行こうと思います。
いやぁ~、本当に素晴らしい特別展でした。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。
^^