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すた☆君のブログ一覧

2010年02月28日 イイね!

関ヶ原合戦武将ファイル  その④ 宇喜多秀家(うきたひでいえ)

今回は、宇喜多秀家にスポットを当ててみようと思います。

前回までは、ちょっとマニアックな武将ばかりでしたので、ここは基本に帰るという意味で、彼を選びました。

基本もできていませんが。
(^^;)



関ヶ原合戦武将ファイル その④ 宇喜多秀家(うきた ひでいえ)


1572年、備前国岡山城主 直家の次男として生まれました。

秀家はイケメンで、『天地人』の役者さんは、仮面ライダー龍騎も演じています。

秀家は、能を好む優れた文化人でした。

9歳の時に父が死に、10歳の時に織田信長の計らいにより、家督を継ぎました。

秀吉とともに中国遠征に加わりましたが、本能寺の変の後に大大名になり、毛利の監視役となった。

豊臣秀吉から『秀』の字をもらい、14歳の時に16歳の豪姫(前田利家の四女)を正室として迎えた。

豪姫の生母は、まつ。

秀家は外様大名だけど、秀吉一門としての扱いを受けた。

豊臣政権下、五大老として活躍した。

五大老・・・徳川家康、前田利家(利長)、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家

五奉行・・・石田光成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以

13歳で四国征伐、14歳で九州征伐、18歳で小田原征伐、その後朝鮮出兵に従軍した。

20歳で文禄の役、25歳で慶長の役(空弁当の毛利秀元と共に渡海)



宇喜多騒動

原因 1 秀家の素行に問題
原因 2 執政たちの専横による、他の重臣の不満
原因 3 日蓮宗徒の家臣たちを、キリシタンになるよう命令した。

仏教からキリスト教へ。

その理由は、妻の豪姫がキリシタンで、豪姫が病気の時に日蓮宗徒に祈らせたが、効果が無かったから。

原因 4 秀家は鷹狩りを好み、鷹を100匹、その世話人を300人養っていた。

朝鮮出兵で金がなくなったので、領民に飼い犬を鷹のエサとして差し出させた。

この鷹の事件の責任者を、戸川達安のせいにして暗殺を謀るが、秀家と不仲な宇喜多詮家(あきいえ)がかばった。

大谷吉継と榊原康政が、この事件の調停に入ったが、榊原が家康の利益にならないような調停をしようとしたので、家康が康政をわざと怒らせて江戸に帰らせ、残された大谷吉継はしかたなく手を引いた。

結局、家康が調停を成功させた。

この時、秀家に抵抗した家臣たちは、家康についた。

これがもとで、宇喜多家は、ボロボロになっていった。


1600年 7月18日~8月1日まで、伏見城の鳥居元忠(1800人)を、大将として40000人で攻略した。

8月25日には、安濃津城を攻略した。

関ヶ原の戦いでは、西軍の副将として、17000人を率いて参加した。

宇喜多隊が井伊隊の発砲をうけ、合戦が始った。

明石全登を先頭に置き、福島正則隊と激戦を繰り広げた。

明石隊には、宮本武蔵(しんめんたけぞう)も参加していた。

福島正則は、討ち死にを覚悟した。

宇喜多秀家は、天満山の南端に陣を敷いていた。

小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅した。

秀家は、秀秋に対し激しく怒り、『小早川の陣に乗り込んで、秀秋を叩ききってやる!!』と叫んだが、明石全登に静止され、伊吹山中へと落ち延びた。

山の中を数人の家臣と共にさまよっている時、落ち武者狩りのグループと出会った。

そのグループのリーダーは、矢野五右衛門と名乗った。

あっさり正体を明かし、食料を望んだ秀家に、五右衛門は大変驚き、彼のその人柄に惚れ込んでしまい、秀家を救う決心をした。

五右衛門は、矢野家へ彼らを連れて行き、屋敷の裏にある穴蔵で、40日間以上もかくまった。

秀家の家臣、進藤は、秀家の脇差『鳥飼国次』を持って家康のところに行き、主は死んだと嘘を告げた。

その同時期、もう一人の家臣、黒田は、矢野五右衛門と共に秀家を連れて脱出をし、無事、宇喜多家に到着でき、豪姫とも再会できた。

宇喜多秀家のかくまわれていた矢野家の場所には、石碑がある。

石碑は、宇喜多家の子孫によって、建てられた。

その後、秀家は薩摩の島津義弘のところへ行った。

この頃、秀家が琉球王国をのっとろうとしたという噂もあった。

1603年、島津が秀家をかくまっているという噂が流れたので、秀家は徳川家康に引き渡された。

何とか死罪は免れ、伊豆・八丈島へ島流しとなった。

この後、50年間、84歳まで、八丈島で過ごした。

休福と名を変えた。

息子二人、家来10人もつれていたので、生活は厳しかった。

毎年、豪姫がコメを送り、彼女の実家である前田家も、たくさんの仕送りをした。

豪姫は、生涯秀家を愛し続けた。

八丈島では、宇喜多秀家にまつわる、いろいろなエピソードがある。

『嵐でたまたまやってきた福島正則の家臣に、酒をめぐんだもらった』

とか、

『八丈島の代官におにぎりをもらった話。ご飯を2杯もらい、三杯目もくれるというので、それは息子たちにと、握り飯にして、土産に持って帰った。』

秀家の二人の息子は、島の人々に溶け込み、たくさんの家系を作った。

明治時代になって、ようやく宇喜多家は許され、士族となり、明治天皇から、東京に20000坪の宅地をもらった。





物心着く前から立派な地位にあって、朝鮮出兵までは、ほとんど運だけでどんどんと出世していったのに、関ヶ原の合戦を境に、流浪の生活に。

矢野五右衛門の話には、心打たれます。

永遠に会えないのに、ずっと一人の男性を愛し続けた豪姫の生き方も素敵ですね。
七夕の織姫と彦星でさえ、毎年会えるというのに。

半世紀を島流しで過ごすと、人格や考え方は、どのように変化していったのでしょうか。

でも、息子たちが結婚して、孫ができたりしていたので、案外それなりに楽しくやっていったのかもしれませんね。



宇喜多秀家がかくまわれていた家にある石碑の場所、調べてみたら、毎年バーベキュー大会をしている川原のすぐそばでした。

意外と身近なんですね。

もっとごつい山奥だとばかり思っていましたので、ちょっぴり肩透かしを食らわされた気分です。

近いうちにいってみようと思います。^^w
Posted at 2010/03/02 10:45:18 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ヶ原合戦武将ファイル | 旅行/地域
2010年02月27日 イイね!

1年ぶりに、関ヶ原歴史民族資料館に行ってきました。

一年ぶりに、『関ヶ原歴史民族資料館』へ行って来ました。

ココに来たのは、4回目です。

1年間の猛勉強!?の成果があってか、ほぼ理解できるレベルになりました。

全てをなめるように見て周り、ゆうに3時間は使いました。

私が見回っている間に、次々と入れ替わっていく、観光客たち。

展示物を見ていると、なにやら怪しげなカップルがやってきました。

50歳ぐらいの男性と、20歳代ぐらいの派手な格好をした女性が、手をつないでやってきました。

援助交際でしょうか。

女性が、男性に、どうしてこの戦いが好きなの? と聞いていると、この男性はこう答えました。

男性   『一番大きな戦いだから。』


違う、違うよ、おじさん。

いろんな人間ドラマがあったから、この戦いは面白いんだよ。

大谷吉継の友情とか、島津隊の敵中突破とか、島左近の杭瀬川の戦いや鬼神のような戦いとか、石田光成の生き方とか、長谷堂城の合戦とのつながりとか、信州で真田親子が秀頼の大舞台を食い止めた事とか、宮本武蔵が参加していたこととか、毛利の空弁当の話とか。

そういう事を、答えて欲しかったなぁ。


土産物屋には、これでもかというぐらいのグッズが置かれていました。

去年とぜんぜん、違うよー。

A(^^;)

私がレストランでもらった、光成バッジも売られていました。

なんと、1個250円で

高い!!

でも、もっとキラキラしたやつは、なんと1個600円!!

ボッタクリちゃうんか!?

戦国ロゴいりのTシャツなんて、一枚3800円もする。

でも、売れるんやなあ。



・・・僕も戦国グッズ作って売ろうかなあ。

(笑)

Posted at 2010/03/01 02:11:19 | コメント(4) | トラックバック(0) | 関ケ原 | 日記
2010年02月26日 イイね!

関ヶ原合戦オムライス

高速道路の養老パーキングエリアに、夕食を食べにいきました。

地元の人間なので、裏口から入っていきます。

(笑)

パーキングに入るとそこは、旅人たちの集う異空間。

行き来する県外ナンバーの車やバイク。

日常とは違った空間が突如として目の前に現れました。

土産物屋に入ると、ごった返す人々。

高速道路1000円の影響でしょうか。

あちこちに、戦国グッズ店のポスターが貼られていました。


ここは養老町なのに、関ヶ原町を売り出そうとしているよ。(笑)


人の垣根を潜り抜け、突き当りのレストランまで行きました。

ここは、一昨年の6月に、北極1号さんとアムロ☆レイさんと一緒に、昼食を食べたところです。
(笑)

店頭のメニューを見ると、関ヶ原合戦プレートというのがあったので、それを食べることにしました。

これを注文した人は、戦国武将の家紋バッジをもらえるので、石田光成にしました。

他には、浅井長政と織田信長のバッジもありましたが、それって関ヶ原の戦いに関係ねーじゃんって思ったので、やめました。



私としては、宇喜多秀家、島津、大谷吉継 などの家紋も置いて欲しかったです。









関ヶ原合戦プレート が届きました。

真ん中にオムライス。

右が、東軍ピリ辛トマトソース、左が、西軍カレーソース との事でした。

(笑)



さてさて、気になるお味の方ですが、これがなかなか美味しかったんですよ。

料金は1200円と、ちょっと高めでしたが、旅のネタには楽しいと思います。

是非是非、お勧めしますよ。^^


ところで、この料理を食べるに値し、普通に食べるのでは面白くないので、私想像を膨らませながら、楽しく食しました。^^




時は1600年9月15日、午前8時ごろ。

美濃の関ヶ原では、霧がたっておりました。

東軍、西軍、あわせて約16万人




その①
静けさを切り裂く銃声と共に、福島正則が切りかかってきました。




その②
激しくぶつかり合う、東軍と西軍!!



その③
黒田長政と島左近が戦いを始めました!!

島左近、強ーい!!

暴れ狂うその様は、まるで鬼神のようです!!







その④
んー? これは、初めての戦に参加の宮本武蔵(しんめんたけぞう)だー!!

宇喜多秀家の家臣、明石全登隊に、加わっているようだー。

おおーーっと、恐怖のあまり、しょ○べんをちびっているぞー!?

がんばれ、少年、たけぞう!!







その⑤
松尾山では、小早川秀秋が裏切る裏切らないで、もめているぞー!?

奥平貞治 『早よう、裏切れやー!! たぬきじじいが怒っとるやんかー!!』

松野主馬 『ほんな事したらあかん!! お父ちゃん、絶対、許さへんでー!!』






その⑥
おおーっと、ついに小早川が重い腰をあげたー!!

大谷吉継、めっちゃキレてるでー!!





その⑦
西軍、負けたー!!

笹尾山がおとされたぞー!!

石田光成、逃亡だー!!






その⑧
んんー!?

バ、バテレンだー!!

バテレンが攻めてきたぞー!!

家康が食われたー!!








その ⑨

おおーっと、みんなのピンチに現れたのは、むさしだー!!

行けー、むさし!!

必殺技の二刀流で、バテレンを倒してくれー!!







その⑩
むさし、バテレンを倒したぞー!!

やったぜ、たけぞう!!

さすが、天下の二刀流だー!!





おまけ

んんー?

又八    『ここはどこだ? 』





おしまい。
(^^)
Posted at 2010/02/28 10:59:53 | コメント(3) | トラックバック(0) | 関ケ原 | 旅行/地域
2010年02月25日 イイね!

期待している犬

Posted at 2010/02/27 11:29:13 | コメント(3) | トラックバック(0) | ペット | ペット
2010年02月24日 イイね!

自分が住んでいる町は、好きですか?

今回は、合戦以外の関ヶ原の歴史と伝統を紹介したいと思います。

関ケ原町は、過去3度の大災害に見舞われました。

一つ目は、皆様ご存知の『関ヶ原の戦い』

そして二つ目は、意外と知られていない、『壬申の乱』

そして三つ目は、『町の大半を焼きつくした、江戸時代の大火事』です。


壬申の乱は、672年に大友皇子に対し、反発した大海人皇子が地方豪族を味方につけて内乱を起こし、勝利したという日本古代最大の内乱です。

大谷吉継の墓のある山のすぐ横には、黒血川というさも恐ろしい名前の川がありますが、その名の由来はこの戦いによるものです。


そして三つ目の大火事について。


江戸時代に大火事が起こり、若宮神社から梨の木川までを焼きつくしました。

関ヶ原合戦マニアの皆様向けに判りやすく言い代えると、桃配り山の西500メートルから、藤堂・京極の陣跡の手前まで・・・といったところでしょうか。

この事態に恐れをなした関ヶ原の村民たちは、静岡県浜松市の秋葉神社から御神体をもらってきて、この町に秋葉神社を作りました。

秋葉神社は、鎮火の神様です。

そしてそれに加え、町に7つの井戸が掘られました。

関ヶ原には、8つの小さな町があるので、それらの間にといった感じでしょうか。


『毎年、火の祭りをするので、もう二度と火事を起こさないで下さい。』

そう村人たちは神に祈り、それから毎年、花火大会が行われるようになりました。

町民の代表が毎年、静岡までお札を取りに行き、各家庭に配られ、台所で祭られています。



もし、あなたの町で花火大会が行われているならば、それが始った理由はご存知ですか?



行事には理由があります。

歴史も含めて、それらを紐解いていくのは、面白いものです。

みなさん、もっと、自分たちの住んでいる町に、興味を持ってみませんか?

きっと、その町がますます好きになりますよ。^^
Posted at 2010/02/26 10:19:02 | コメント(7) | トラックバック(0) | 関ケ原 | 旅行/地域

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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