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すた☆君のブログ一覧

2013年01月30日 イイね!

島津義弘の銅像とたわむれる at 伊集院駅前   九州2500㌔の車旅

鹿児島市から西に約20分。

ついにやってきました、島津義弘の眠る町、伊集院。

まずは、駅前にある島津義弘の銅像をご拝見。。。


おおー、いたいた、あんなところに。

関ヶ原の英雄が、こんなところに。。。



伊集院駅前


こんな遠くまでやってきちゃった。


感極まった感じがしました。





すっげー、かっちょいいーー!!


義弘下から





きたぜきたぜ、俺はここまでお前に会いにきたんだぜー!!


お前はこの町のシンボルなんだなぁ。



いかすぜ、ちくしょう!!


義弘顔アップ




義弘ぉーー!!



最高!!






・・・くぅうっ、背中も渋いぜ、こんちくしょー!!


義弘背中





・・・ややっ、あれはなんだ??



狸の時計(伊集院駅の入口の上にあった)




これはもしや、狸かぁ!?


家康とかぶってるぞ、こいつうっ。

(^▽^)⇒)^皿^)




赤備えとツーショット





銅像、かっこよかったです。


^^


次はいよいよ、島津義弘の菩提寺へ行きます♪
Posted at 2013/01/30 16:40:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 島津一族 | 旅行/地域
2013年01月30日 イイね!

島津家別邸・s島津義弘の生甲冑・島津義弘の猫神神社・西郷隆盛終焉の地・城山から桜島 九州2500㌔車旅

鹿児島市に到着しました。

島津家の別邸のある歴史博物館へ行きました。

桜島に行こうと、湾内をぐるーっと走って行こうとしましたが、想像以上に距離があり、これは3時間ぐらいかかるぞと思い、やめました。

30キロぐらい走ったところでしたが、思い切って引き返しました。

やめるも勇気、引き返すも勇気です。

なんでもそうですが、初志貫徹で、無鉄砲に貫くだけが勇気ではありません。


その代わりに、その手前にあった庭園に行く事にしました。



庭園・・・ 仙厳園   だったかな。。。

一応、翌日いくよていだったんですが、切り上げこれからいくことにしました。



こちらは、かなり観光地化されており、観光バスとかたくさんきていました。



島津義弘のお茶すくい とか、いろんな遺品がありました。

やっぱ薩摩は島津やなあと、強く思いました。



鶴嶺神社



ここをお参りすると、美人になるそうです。

庭園の入り口の手前にありました。






庭園の入口をくぐると正面にありました。

これから察するに、やっぱり島津家の英雄といえば、島津義弘ということなんでしょうね。





島津義弘の甲冑




・・・ん?


島津義弘、よくわからないって?

いやだなあ、あの人ですよ、あの人。

関ヶ原合戦で敵中突破した、あの人のことですよ。。。







立派な庭園がありました。

一通り見て山際の土産物屋の方へ行くと、手前にこんな神社がありました。



島津義弘の猫神神社



これは、朝鮮出兵の際、島津義弘がたくさんの猫を連れて行って、その何匹かが帰国して、ここに埋められ祭られているんですねぇ。

『戦から戻ってきた猫』 って描かれていました。

島津義弘は、大の猫好きだったんだとか。


こんな史跡があるのは知らなかったので、予想外の発見で、とても嬉しくなりました。

すぐ横に、猫のグッズショップがあり、妻に猫グッズを2点ほど土産をプレゼントしました。

猫の携帯入れと、猫の携帯ストラップ。

(笑)





庭園を出たあとすぐにホテルに帰りたかったんですが、せっかくここまできたのだからと、西郷隆盛の洞窟へと行きました。

洞窟のあたりは観光地化されており、みやげ物ややら西郷さんの大きな像などがありました。


洞窟から北方向へ行くと、終焉の地がありました。

こちらは大きなマンションの横で、ここに来ている人は誰もいませんでした。

道は細く、駐車場も無かったので、写真を撮ったら足早にココを離れました。


西郷隆盛終焉の地

西郷隆盛は、ここで流れ弾に当たり、この世を去ったといわれています。








西郷隆盛の洞窟へ行く前、たまたま城山展望台という標識を発見し、なんとなくいきおいとノリでいってみました。

するとそこには・・・




城山から桜島




こんなに綺麗に櫻島が見えました。

ちょうど夕日が差して、山肌がはっきりときれいにみえました。

この時間、偶然ここにこられて、本当にラッキーでした。
Posted at 2013/01/30 14:49:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 島津一族 | 旅行/地域
2013年01月30日 イイね!

島原城・沖田畷古戦場跡   九州2500キロの車旅

島原城 天守閣


これは模擬天守ですが、白くてとても綺麗なお城でした。

戦国時代が終わり、江戸時代の初めに造られた城で、小高い丘に造られました。

この城を造る為に城主は厳しい年貢を農民に要求し、後の 『島原の乱』 へと発展しました。

天草四郎率いる農民・キリシタン軍と政府軍との攻防は大変激しいもので、数万人もの犠牲者を出し、島原半島の南半分の人間皆殺しという悲惨な戦となりました。

江戸から遠く離れていた所に酷い殿様が誕生して、やりたい放題やっていたのでしょうか。

戦のあと10年間は誰もよりつかない土地となり(関ヶ原に似ている)、現在住んでいる人たちはのちに別の村から引っ越してきた人たちの子孫だと聞きます。

お城は綺麗で観光地としてはいいですが、悲しい歴史のあるお城です。







沖田畷古戦場跡 二本木神社 説明


島津軍と龍造寺軍との戦がおこった場所です。

このころ九州は、大友家と島津家と龍造寺家との三代勢力があり、龍造寺隆信率いる巨大な軍勢が、北からこちらへと南下して、勢力拡大を目指しました。

しかし、ここで島津軍は 当時この土地が沼地だったのを利用して、『野伏せ吊り』という戦法をとりました。

『野伏せ吊り』とは、その名のとおり、おびき寄せて吊って、野に伏せて隠れて、前後左右から奇襲攻撃をする という戦法です。



当時、島津軍の陣地の前には、一本の道がありました。

西側には山があり、東側には海がありました。

その一本の以外は、泥沼でした。

海は現在埋めたれられ、このようになっています。



海方向 (島原町のユニクロの南の交差点を左に曲がって、線路を渡ったすぐのところの神社)


少数で龍造寺軍に攻め込んだ島津軍は、少し攻撃しただけで、退却しました。

それを、深く深く追いかけた龍造寺軍。

泥沼のあちらこちらに潜んでいる島津軍。

十分ひきつけたところで、前後左右からいっせいに攻撃。

弓矢や鉄砲やら、それは戦国時代の戦において、情け容赦の無い、大変冷酷無比、残虐な戦法だったそうです。

あっというまに戦死者が続出し、龍造寺隆信も戦死してしまい、島津軍の大勝利となりました。




戦国マニアの間では有名ですが、地元の人にもよく知られていない古戦場でした。

当時の泥沼はもうなく、海以外はほとんど面影が残っていない史跡でしたが、確かにここでこの戦が起こったという説明板が、今も静に残っています。

ここから少し北に行くと、龍造寺隆信の供養等があるらしいのですが、探したけどどうしてもみつかることができず。

しかしまあ、ここまでたどり着けただけでも満足できました。
Posted at 2013/01/30 13:54:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | 島津一族 | 旅行/地域
2013年01月19日 イイね!

柳川城址・立花誾千代・高橋紹運の菩提寺、そしてさよなら柳川 九州2500キロの旅 

宮永様居館跡を離れたあと、柳川城址へと向かいました。

学校の運動場の横にある細い道を20メートルぐらい進んだ突き当たりにありました。

発見できたのはいいが、Uターンするスペースがなかったので、妻に運転してもらい、私は車道で元の道に戻るべく、バックオーライしていました。




柳川城址

戦国時代、九州には3大勢力というのがあり、龍造寺氏、大友氏、そして島津氏というのがありました。

立花家は大友宗麟の家来でしたが、島津が勢力を拡大し、龍造寺氏も『沖田畷の戦い(島原)』で島津に討ち取られ、わずかに大友氏が残るだけになりました。

大友氏の代表である大友宗麟は、立花宗茂の二人の父親ら有能な家臣たちにも恵まれ、大変強かったのですが、宗麟がキリスト教にのめりこみ、息子の代になった頃から、戦での敗北などをキッカケに、衰退していきました。

この頃、豊臣秀吉が巨大な力を手に入れ、島津を成敗する為に九州に侵攻しました。

立花家は秀吉と手を組んでいたので、秀吉からの援軍が来るまで、夫婦力を合わせて立花城を守り抜きました。

その後、島津軍は薩摩へ戻り、宗茂は秀吉からこの柳川城をもらいうけ、立花城からここへと移って来ました。




説明




バックオーライしていると、後から一人のおばあさんが散歩してきました。

毎日の散歩コースとしているのでしょうか。


車のナンバーをみて、『岐阜からきたの?』 と、驚いていました。

『立花家に興味があるからここにきました。』 というと、『遠いところから・・・。』 と驚き、


『 柳川城は水に囲まれている 』 

とか、

『 この柳川市は平地で山が無いので、この城山が高さ4メートルの柳川で一番高い山 』 


とか、教えてくれました。


こういう地元の人たちとの話はとても貴重で、面白いです。


^^





城のてっぺん



少し会話をした後、お礼とお別れの挨拶をしてこのおばあさんとお別れし、再び大通りへと戻りました。

心が暖かくなりました。


ココに来て、このおばあさんと出会えてよかったです。

^^





柳川城 写真説明




陽もだいぶんくれかかってきました。

今夜の宿は長崎市なので急がないといけないのですが、まだあと二つ行きたい場所が残っていました。


『こんな遠いところは、もう二度とくる事もないだろうから、後悔の無い様に』

妻の言葉をもらい、宮永様居館跡、そしてこの柳川城址へとやってきました。

そしてあと二つ  高橋 紹運と立花誾千代 の菩提寺へと向かう事にしました。

中に入るうんぬんは別にして、とりあえず、近くまで。

もうすぐそこまで来ているから。。。







高橋 紹運 (立花 宗茂の実父) の菩提寺  天叟禅寺

福岡県柳川市鍛屋町23



1586年 島津氏は大友氏を滅ぼす為に、岩屋城へ50000人の大軍を差し向けました。

高橋 紹運は宗茂を救う為、立花城へいるように命じ、自分はわずか数百人の兵とともにの城へ立てこもり、戦から半月後に 高橋 紹運は割腹 そして家来は全員討ち死にという壮絶な最後を迎えました。

享年39歳





もう少し時間があったらここも参拝させていただきたかったのですが、通りすがりにシャッターを切り、次の目的地へ。

ここに 高橋 紹運 が眠っているんだなぁと思いつつ、足早に移動していきました。

夕日の中に暗く見える本堂らしき建物が、小学校の修学旅行で初めて見たあの京都の新京極での本能寺に似たものがありました。



ゆっくり柳川を楽しもうと思ったら、最低2日は必要ですね。




立花 誾千代 の 菩提寺   良清寺 
手前
柳川市西魚屋町49


魚屋町という町の名前が面白い。

^^





良清寺 入口の門


ここもこのまま素通り。

再び立花城主に返り咲いた宗茂は、ここに誾千代の墓を作り、手厚く供養をしたそうです。






・・・ただ思うのは、大切にするのは生きているうちにしろ、死んでから手厚く供養しても、なんの意味も無い。

立派なお墓や立派な仏壇、そんなものいらない。

親に対してもそう。

自分の事ばっかり考えるな。

いつまでも親に甘えるな。

生きているうちに、いっぱい親孝行しろ。

親はみんな自分の身を犠牲にしてがまんして精一杯育ててくれたんだから、子供たちよ感謝しろ。

それが言いたい。。。



・・・ちょっと脱線した。

^^;





一通り目的どおり全ての史跡を巡り、いよいよ柳川とお別れする事になった。

大きな川の向こうに、一風かわった橋が見えた。


大きな船が通るとき、船の真ん中が持ち上がる仕組みだ。

徳島にもある。

上げ橋




柳川市。

とても魅力のある風情のある街並みでした。

興味のある人は、是非訪れてみて下さい。

^^
2013年01月18日 イイね!

圧巻!!黄金の兜群と立花家豪邸・御花  九州2500キロの旅

立花家資料館の隣にある立花家豪邸・御花へと移動した。




ここには、昔ながらの和風の豪邸と、文明開化の頃のものなのか、洋風の白い建物とが廊下を通じて合体しているアンバランスな庭と建物がある。

和洋豪邸


豪邸の前に池がありそのすぐ隣に川がある。

船頭さんの姿が見えた。



川下り









豪邸の中には、お目当ての黄金の兜が。





兜縦ずらり



これは、スゴイ数だ。






横にずらり



朝鮮出兵で使われた兜もあるらしい。


兜説明








兜アップ





凄い、凄すぎる。

いったい、何十個あるんだ?

ってか、どうしてこんなにたくさん残っているんだ??

これはもう、奇跡だ。

資料館に数個展示されていたが、あんなのこれに比べれば、へ みたいなものだ。




延々と兜



しかも撮影OKというのがまた凄い。

やはり立花家は太っ腹のようだ。




ここまで来てよかった。

本当によかった。

こんな凄い光景、日本広しいえども、おそらくここぐらいだろう。



兜に圧巻される





そして、兜だけでなくこの庭園もまた凄い。




池の手前












池にはたくさんの鳥達が。




この和風の豪邸の中は、披露宴会場になっている。

新郎新婦の席の後ろの景色がこれまた凄い。

どこをとっても絵になる。。。


テーブル





ここから先はいけなかったので、2階のベランダから撮影。




縁側から池へ




ああー、こんな池つきの家に住みたい。。。










池のすぐとなりに川が流れている。




右川左池





池上から




眠いのも忘れ、時が経つのをも忘れてしまうぐらいに見入ってしまいました。

大変素晴らしい屋敷でした。

^^

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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