• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

すた☆君のブログ一覧

2014年01月03日 イイね!

第三回戦国史跡ツーリング   コースの説明

前回述べたコースですが、時間上どうしてもキツいので、今回は後半の垂井を無くして、島津の敵中突破に絞り込んでコースを作り直しました。

参加者のみなさん、お時間ありましたら、ちらりと目を通しておいて下さい。

なお、今回の参加者は、計4台(5名)で、もしかしたら最大6台(7名)になりそうです。



13時
集合  関ヶ原町 笹尾山 石田三成陣跡の駐車場
近辺探索  決戦地・島左近が戦った場所、陣場野首実検場、徳川家康陣跡、東首塚 など

13:30〜13:50
笹尾山展望台 三成陣跡

14:00〜
大谷吉継陣跡の登山口(登りません)

14:10〜14:30
島津陣跡 開戦地 など




ここから上石津町

14:40
うとう坂 敵中突破したコース(通るだけ)


お勝峠 島津義弘が逃げ込んだ峠(時間があったら行く)

15:10〜15:30
島津豊久の墓・菩提寺 瑠璃光寺


阿多長寿院の墓 義弘の陣羽織を着て敵中に飛び込み戦死した家老 (時間があったら行く)

15:50〜16:00
うとうざかの島津塚 島津の戦死者たちの祠





ここから再び関ヶ原町


16:10〜17:00
ココカフェ ほら貝の鳴る歴史カフェ (関ヶ原町役場の北)


17:00
解散




以上です。

時間はあくまでも目安で、その都度調整しながら走ります。

ココカフェは面白いので、是非ご案内したいところです。

では、当日皆さん、道中お気を付けて、ゆっくり安全運転でお越し下さい。
Posted at 2014/01/03 07:40:59 | コメント(2) | トラックバック(0) | 戦国史跡ツーリング | 旅行/地域
2014年01月02日 イイね!

竹中半兵衛が垂井に住むようになった理由。

竹中半兵衛の生誕地は岐阜県大野町なのに、故郷が垂井町というのは何故なんだろう?

そんな疑問をもとに、その理由を調査してみました。



垂井町には岩手氏が住んでいました。

しかし、跡を継げなかった半兵衛の祖父が大野町に引っ越し、そこで半兵衛が生まれ、

半兵衛1歳の時、父 重元が垂井の岩手氏の城を落とし、垂井は竹中氏の配下になりました。

だから、生誕地が大野町で、故郷が垂井町という訳です。





ここで、「なぜ竹中は岩手を攻めたのか?」  と疑問に思い、再び調べました。




この時の美濃の時代背景について綴ります。

京都の油売り少年、斉藤道三が美濃にやってきて、乗っ取った話は、「国盗り物語」でもよく知られています。

斉藤道三は、美濃守護 土岐盛頼の弟、土岐頼芸(よりよし)に近づいて気に入られ操って、兄盛頼と戦わせ、兄を追放させました。

その後道三を不振に思った弟も道三に追放させられ、斉藤道三は美濃の国主になりました。



この後、戦いあった土岐兄弟は手を取り合い、政権を取り戻そうと、道三に襲い掛かりました。

兄の土岐盛頼は、織田信秀を頼り、弟の頼芸は、朝倉義景と岩手氏を頼りました。

弟は岩手氏に「近江の浅井、六角と仲良くして、美濃に侵入させるな!」と信頼を寄せていた程の仲でした。

また弟の姉は、六角義賢の妻でした。

岩手氏が守っていた領地(関ヶ原)は、美濃の西の端で、交通の要所でした。


織田・朝倉は斉藤道三の稲葉山城を攻めましたが、落とせませんでした(後に半兵衛が落とした)。

斉藤道三は、土岐の弟と、六角氏と岩手氏が手を組むことを恐れました。



そこで斉藤道三は、「自分に味方するものに関ヶ原を任せたい」 と考え、

1545年 竹中半兵衛の父 重元に、岩手城を落とさせ、1546年菩提山城を築城しました。

この後、岩手氏は2000石の小土豪になり(なんと竹中の城のすぐ近くの屋敷で生かされていた)ましたが、1556年斉藤道三が息子の義龍と戦ったときに道三に従い、戦死してしまいました。




今、垂井町には、土岐氏に関するとされるお墓が北の山際にポツンとあります。

Posted at 2014/01/02 09:37:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 竹中半兵衛 | 旅行/地域
2014年01月01日 イイね!

竹中半兵衛と黒田官兵衛 の物語 「出会いの地〜垂井町』

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。


戦国史跡ツーリングの日が近づいてきたので、それにあわせて、ちょっと地元ネタを語りたいと思います。

(今回は文章だけです。)


≪竹中半兵衛と黒田官兵衛、出会いの地≫

稲葉山城(現在の岐阜城)を乗っ取ったあと、竹中半兵衛重治は、南宮山の南東にある(垂井町)栗原山・九十九坊に隠棲していました。

「信長の父も落とせなかった難攻不落の岐阜城をたったの16人で落とした」

その噂を聞いて、官兵衛が姫路から半兵衛を訪ねて栗原山にやってきました。

ここが二人が初めて出会った場所です。

しかし、半兵衛が本音を語らないので、

「彼は目的のためには手段を選ばない冷たい男なのか?」

と想像し、官兵衛は失意のまま帰りました。



その後、官兵衛は仕えていた小寺家の殿様に、

『これからは毛利ではなく織田信長の時代だ!』 と説得し、

信長を訪ねて、岐阜城にやってきました。


その時、官兵衛は岐阜城の麓にある崇福寺に案内されたのですが、そこで彼を迎えたのが竹中半兵衛でした。

10数年ぶりの再会でした。





竹中半兵衛は、病気のため、松尾山の浅井家の庵で、1年半療養していました。

(現在、松尾山の三合目にお寺あとの石垣があって、庵はそこじゃないか?との説もあります。中山道が見える場所だそうです)

そこに秀吉がやってきて、土下座して部下になってくれと頼み込み、秀吉の下で働くことになりました。

世に言う 秀吉の 「三顧の礼」 です。

秀吉は信長の家来ですので、官兵衛を迎えたのが半兵衛だったという事です。

信長は官兵衛の資質を見抜いたそうです。




続く♫
Posted at 2014/01/02 08:23:56 | コメント(1) | トラックバック(0) | 黒田官兵衛 | 旅行/地域

プロフィール

「[整備] #ロードスター パナソニック カオス アイドリングストップ専用 N-80、ターミナルアダプター https://minkara.carview.co.jp/userid/572723/car/2397340/8414803/note.aspx
何シテル?   10/29 04:58
旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2014/1 >>

    1 2 34
567 8 91011
121314 1516 1718
1920212223 24 25
262728 29 30 31 

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

霧の中の決戦地 
カテゴリ:関ヶ原合戦の史跡
2010/12/24 11:25:35
 
関ヶ原町の史跡 『十九女池・六部地蔵・七つ井戸・与市の墓』 
カテゴリ:岐阜県の史跡(関ヶ原合戦以外)
2010/12/20 12:40:04
 
関ヶ原町 『常盤御前の墓・鶯の滝』 
カテゴリ:岐阜県の史跡(関ヶ原合戦以外)
2010/12/20 12:36:11
 

愛車一覧

トヨタ ノア ハイブリッド トヨタ ノア ハイブリッド
ノアハイブリッド
マツダ ロードスター マツダ ロードスター
2代目の戦国ロードスターです。 出陣時は関ケ原バージョンになります。
日産 ラフェスタ 日産 ラフェスタ
中古で買って、5年間乗りました。 4WDです。 買って半年後に底から大きな「ブーン」と ...
マツダ ロードスター すた号 (マツダ ロードスター)
マイナス2℃で、オーポン走行しました。 冬でも幌をあけるオーポン漢を目指しています。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation