![今からちょうど400年前の明後日・・・ 今からちょうど400年前の明後日・・・](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/028/591/450/28591450/p1m.jpg?ct=cb7b6e2ad3c6)
年の瀬や 水の流れと 人の身は 明日待たるる その宝舟
皆さん、この歌をご存知でしょうか?
今からちょうど400年前、時は江戸時代5代将軍綱吉の治世。
折からの細雪も静かな、明けやらぬ空の下・・・亡君の無念を晴らすべく、武士の面目を貫くため・・・そして泰平の世に公平な裁きと法(武家諸法度)の執行を求めて、47人(48名)のお侍が、江戸は本所の吉良邸に討ち入りました。
江戸城松の廊下での刃傷沙汰につき、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公は切腹、一方の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)は一切お咎め無し、という不公平な裁き。そして喧嘩両成敗という法があるにもかかわらず、これを貫き得なかった江戸幕府に対し・・・
“公平な裁きと法の執行を求め”て。
・・・その47人のお侍のなかに、大高源五という33歳の若者がおられました。
この方は子葉という雅号を持ち、当代きっての俳人である水間沾徳(みずませんとく)、あの松尾芭蕉の一番弟子である宝井其角(たからいきかく)らとも親交がありました。
源五は討ち入り前まで元浅野家家臣という身の上を隠し、名を変え、江戸府中で探索活動に当たっていました。俳人としての立場を利用し、吉良家に出入りする茶人や俳人の門戸を叩いたりもして、現場での情報収集も手がけています。
そして彼等に弟子入りするなかで“12月14日、吉良上野介茶会を催す”の情報を入手するという快挙も成し遂げています。
・・・さて、いよいよ討ち入りとなる前日夕刻。
笹竹売りの衣装を纏い、源五は浪士たちの集合場所である深川の茶屋に向かいます。場所は両国橋、そこで源五は俳諧の師である其角に偶然出会います。
「おや、新兵衛(源五の府内での通名)さん、どうなすった?こんな時間に」
不思議な出会いに驚く其角に、源五はこう答えます。
「これは師匠、実は西国に新しい勤め先が見つかりまして、これから向かうところでございます」
それにしてもこの身の窶し様は・・・いぶかしく思いながら、其角は(これもしばしの別れ)との思いを込めて、こう詠いました。
“年の瀬や 水の流れと 人の身は”
・・・少し考えてから源五は、こう返します。
“明日待たるる その宝舟”
(宝舟・・・いったい何のことだ?)
数多の句を詠み、聞いてきた其角ですが、今夜ばかりは源五の詠ったその句の意味がわかりません。
意を問い明かそう振り返ったその時には、源五の姿はもう遠く、小さくなっていくばかりでした。
明けて元禄15年12月14日。
午前4時、山鹿流陣太鼓の調べに乗せて、本所吉良邸には怒号と刀の音、悲鳴が吹き荒れます。そして幾ばくかの沈黙の後・・・呼子の笛が聞こえ、続いて勝どきの声。
そして・・・そして雪化粧を施した早朝の江戸の町に、泰平の世を震撼させる一報が吹き荒れます。
“大石内蔵助良雄以下赤穂47士、仇敵吉良上野介の御印をあげ、高輪泉岳寺へ凱旋!!”
(・・・!!)
報を聞いた其角は、その時初めて知ったのです。
“明日待たるる その宝舟”
・・・このことだったのか!
宝舟とは、御上への声無き声。
御政道を質す、侍達の叫び。
其角はただただ澄み切った空を仰ぎ、源五の意を汲みきれなかった無念を噛みしめていました。
忠臣蔵の主人公達、辞世の句。
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
~大石内蔵助良雄 討入後お預け先 肥後熊本藩主細川綱利邸にて切腹 享年45歳~
梅で飲む 茶屋もあるべし 死出の山
~大高源五忠雄 伊予松山藩主松平定直邸にて切腹 享年33歳~
梓弓 ためしにも引け 武士の 道は迷はぬ 跡と思はば
~堀部安兵衛武庸 伊予松山藩主松平定直邸にて切腹 享年34歳~
思いきや われ武士の 道ならで かかる御法の 縁にあうとは
~木村岡右衛門貞行 伊予松山藩主松平定直邸にて切腹 享年46歳 ~
梓弓 春近ければ 小手の上の 花をも雪の ふぶきとや見ん
~神崎与五郎則休 三河国岡崎藩水野忠之邸にて切腹 享年38歳~
・・・・・・如何でしたか?私が記憶している限りで、忠臣蔵赤穂四十七士のひとり、大高源五という若者について述べてみました。
(太陽暦と太陰暦がありますから正確ではありませんが)今からちょうど400年前、日本人にも命をとして、政治に、司法に訴えかける人たちがいました。
その時代は現代と違って、司法も、行政も、立法も、たったひとつの幕府というユニットに委ねられていました。
町人は町人、お百姓はお百姓、そして武士は武士・・・彼等には、主君も領主も、そして奉行さえも、選ぶことも裁くこともできませんでした。
筋の通らぬことに否、と叫ぶには命をかけねばなりませんでした。
しかし現代の私たちは違います。
私たちは、法を取り決める議員を選ぶことができます。
私たちは、法を執行する公務員を罷免することもできます。
私たちは、法を以って裁く裁判官を罷免させることもできます。
命をかける必要はありません。
ただ三枚の紙を以って、私たちは自らの意思を、国家に届けることが出来ます。
悩むことは必要ですが、行うには簡単なことです。
少しでも時間を作り、少しでも学んで、少しでも考え、少しの手間を怠らなければ、私たちは国をも動かすことができるのです。
大高源五・・・別れの言葉を歌に隠して旅立っていったお侍。
“敷島の やまとごころを 人問はば 旭に匂ふ 山桜花”
日本人には“やまとごころ”があります。
生の儚ささえ、美しく詠い上げる繊細さがあります。
やまとごころは、美しい。
美しい心を持った人たちが築き、伝えてきた日本は、美しい国です。
“やまとは くにのまほろば たたなづく青垣 山こもれる やまとし うるはし”
今年はあの討ち入りの日から数えて、400年。
美しい国、日本を取り戻すために・・・
みんな、
投票所に行こうね!
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Posted at
2012/12/13 00:22:12