逍遥 ～ 昭和の珈琲店 ～

　その昔、昭和も終わろうとしている頃にかよった珈琲店。
　昭和が終わるなんて、思いもしていなかったが。

　豆を自家焙煎し、挽いてサイフォンで淹れる。
　そんな店は、珍しかった時代。
　国道沿いにあるその店。
　バスで前を通るたびに憧れを募らせていた。

　ある日の夕暮れ、意を決してバスを途中下車。
　店を訪れた若き日の私には、扉を開けて広がる世界はひどく大人びて感じられた。
　カウンターのなかには、私より少し年上であろう長い黒髪が美しい女性。

　落ち着いた口調で話されるその女性に恋心を抱いた。
　が…。
　若すぎた私がとても相手にされるようには思えず…


　あれから40年近く経っただろうか。
　私は、地元に戻ってきた。
　バイパス道路が出来て国道はそちらに移っており、その珈琲店の前を通る機会はほとんどなくなっていた。
　それでも、たまに旧道を通る時には、珈琲店を見ていた。
　多分、昔、バスの窓から眺めていたのと同じ眼差しで。

　しかし、ある日、あの日と同じように意を決して昔と変わらぬ扉を開けた。



　店が出来たのは、昭和51年（1976年）のことだったと言う。
　従業員だった男性の店長がこの店を買い取ったのが昭和53年（1979年）。
　それから45年。
　懐かしい顔の店長は、あと2ヶ月ほどで引退される。
　店は、新しいオーナーを迎えるとのこと。



　あの時の黒髪の女性は、もういない。



　時は、すべてを洗い流してゆく。
　砂浜に書いた文字を洗い流す波のように。
　何もかも。

　『でも、私は、帰ってきました。
　　今、ここに。』