般若寺は、山号は法性山、真言律宗の寺院です。
飛鳥時代に高句麗の慧灌法師により開かれました。
天平7(735)年、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を基壇に納め卒塔婆を建てられたのが寺名の起こりとされます。そして平安の頃には学問寺として千人の学僧を集めて栄えましたが、治承4(1180)年、平家の南都焼き討ちにより伽藍は灰燼に帰しました。
鎌倉時代に入って廃墟のなかから、十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ寺観は旧に復しました。
なかでも金堂本尊には西大寺叡尊上人により丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となりました。
その後、室町戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法灯をかかげ今にいたっています。
また、「平家物語」や「太平記」「宮本武蔵」など文学の舞台としても知られ、古都の風情を今に残しています。
9月から10月にかけて30年ほど前から一隅に植えられていたコスモスが、現在では境内を埋め尽くすほどになり、本堂や石塔を始め、元禄時代作の西国三十三観音の石仏などを取り囲むように咲き乱れます。その他、梅、アセビ、ツバキ、レンギョウ、ヤマブキと春の花々、アジサイ、サザンカ、スイセンなど四季折々の花が古寺の庭に彩りと風情を添えています。
般若寺 (2) posted by
(C)pismo
般若寺 (3) posted by
(C)pismo
般若寺 (4) posted by
(C)pismo
般若寺 (5) posted by
(C)pismo
般若寺 (6) posted by
(C)pismo
般若寺 (7) posted by
(C)pismo
般若寺 (8) posted by
(C)pismo
岩船寺から浄瑠璃寺にかけての当尾(とうのお)の里は、石仏が点在するスポットとして有名です。
のどかな田舎の里に、石仏が点在する風景は、ゆったりとした時の流れを感じさせます。
岩船不動明王磨崖仏は、一つだけ一生懸命お願いをすれば、かなえて下さるというので「一願不動」とも呼ばれています。
「於岩船寺僧口口之会造立、弘安10年(1287)」の銘があります。
岩船不動明王磨崖仏(一願不動) (2) posted by
(C)pismo
内ノ倉不動明王磨崖仏は、唐臼の壷から奥まったところにあります。
建武元(1334)年1月4日の銘があります。風化が進んでいて、磨崖仏の判別が難しい状態にあります。
内ノ倉不動明王磨崖仏 (2) posted by
(C)pismo
内ノ倉不動明王磨崖仏 (3) posted by
(C)pismo
からすの壺二尊は、一つの岩に舟形向背を持つ定印の阿弥陀仏、向かって左側に地蔵菩薩立像がおられます。
阿弥陀仏の横に線彫の灯籠、火袋をに灯明を供えることができます。
からすの壺二尊 (1) posted by
(C)pismo
からすの壺二尊 (2) posted by
(C)pismo
唐臼の壺 posted by
(C)pismo
あたご燈籠は、三叉路に建つ形式にとらわれない変わり燈籠で、愛宕神は火の神様(火伏せ)を司っていま す。
当尾ではお正月にここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。
あたご灯籠 (1) posted by
(C)pismo
藪の中三尊磨崖仏は、藪の中の岩に舟形の光背を彫りくぼめ、正面に地蔵菩薩と向かって右に十一面観音、左の岩には阿弥陀如来坐像を配する非常に珍しい配置の石仏です。作者は橘派の橘安縄、当尾の石仏中最古弘長2(1262)年の作です。
やぶの中三尊 (1) posted by
(C)pismo
やぶの中三尊 (2) posted by
(C)pismo
首切地蔵は当尾の在銘石仏中最古の弘長2(1262)年の作で、首のくびれが深くきれて見えるためともまた、処刑場にあったからともいわれています。
首切地蔵 (1) posted by
(C)pismo
首切地蔵 (2) posted by
(C)pismo
大門石仏群は、竹藪の中や細い山道にあった石仏、石塔などを集めて安置しなおしたもので、双体仏や石龕仏、六字名号板碑や五輪板碑などがあり、変化に富んでいます。
大門石仏群 (2) posted by
(C)pismo
大門石仏群 (3) posted by
(C)pismo
大門石仏群 (4) posted by
(C)pismo
大門の仏谷(如来形磨崖仏)は、当尾の石仏群中、最大の磨崖仏です。像名に関して、阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説があり、まだ確定しきれていません。また製作時期に関しても奈良時代から鎌倉中期までの諸説があり、今後の研究課題を与えてくれる大きな仏さまです。かつては真下まで行ける道があったのですが、現在は草に埋もれてしまい、谷を隔てた道が拝所となります。
大門の仏谷(如来形磨崖仏) (1) posted by
(C)pismo
やけ仏(阿弥陀三尊石仏)のあった場所は古くは辻堂という屋形がありましたが度々の火事で消失し、阿弥陀石仏も火災で痛々しいお姿になっています。
銘文から元亨3(1323)年6月8日に造立されたことが判明しました。
やけ仏 (1) posted by
(C)pismo
たかの坊地蔵は、西小区公民館の敷地にあります。小さな石仏群の中でひときわ立派な船形光背の矢田型の地蔵尊で、鎌倉中期に彫られたもので、他の小石仏群は、室町時代に彫られてます。
たかの坊地蔵 (1) posted by
(C)pismo
たかの坊地蔵 (2) posted by
(C)pismo
西小墓地石仏群には、埋没や盗難などを防ぐため、かつては周辺に散在していた無縁墓や石仏が集められています。当尾では数多く見られる石仏群ですが、それぞれ小石仏ながらこれ程まとまった石仏群には圧倒されます。西小墓地入口には二基の西小五輪塔があり、当初はこの墓地の総供養塔として建てられました。向かって左側の反花座は、側面を三区に分けた格狭間と呼ばれる装飾が入り、右側は反花座のみとなっています。
どちらも重要文化財に指定されています。
西小墓地石仏群 (1) posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺道丁石笠塔婆 posted by
(C)pismo
長尾阿弥陀磨崖仏は、美しい連弁の台座に座り、両手を腹部の前で上品上生の定印を結んだ阿弥陀坐像です。
徳治2(1307年)からここで人々の往来を見守ってきました。像の頭上に斜めに割れ目が走っていますが、後方の山から巨岩が続き、前面もコンクリートで固めているので、これ以上割れる心配はないそうです。
長尾阿弥陀如来像 (1) posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺道三体磨崖仏は、元は磨崖仏だったものを、府道拡張工事に伴い移動されたもので、その際一部が破損してしまいました。右側には錫杖を持った地蔵菩薩坐像が彫られています。
浄瑠璃寺道三体磨崖仏 (1) posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺 posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺 (1) posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺 (2) posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺 (3) posted by
(C)pismo
浄瑠璃寺 (4) posted by
(C)pismo
眠り仏(地蔵石仏)は、わらい仏の向かって左脇に、半身を土のお布団にくるまれて心地よくすやすやと眠るお地蔵さまです。
長い間土の中で休んでおられたため、いつの間にか「眠り仏」の名がつきました。
やすらかにお休みください。(現地説明板などより)
眠り仏・わらいぼとけ posted by
(C)pismo
眠り仏 (1) posted by
(C)pismo
わらい仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏)は、当尾の代表的な石仏の一つです。蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏です。永仁7(1299)年の銘文があり、上部の屋根石が廂となっているので、風蝕の影響も少なく保存状況は良好です。
特に夕陽の中にたたずむ、やさしい微笑みをたたえた姿は微笑ましいものがあります。
わらいぼとけ (1) posted by
(C)pismo
わらいぼとけ (2) posted by
(C)pismo
四面地蔵石仏 posted by
(C)pismo
みろくの辻弥勒磨崖仏は、山際の巨岩に高さ2.5mほどの仏さまが線彫りされています。これは笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し、光背が残るのみ)をかなり忠実に模写したもので笠置に近い当尾で弥勒信仰を物語る貴重な作例と言えます。文永11(1274)年、伊末行の作です。
弥勒磨崖仏 (1) posted by
(C)pismo
弥勒磨崖仏 (2) posted by
(C)pismo
ミロクの辻から岩船寺への旧道の途中の岩肌に、長方形の龕を彫りくぼめ、
三体の地蔵菩薩が厚肉彫りされています。三体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。過去、現在、未来をそれぞれ割り当てたもので、六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態といわれています。
三体地蔵磨崖仏 (2) posted by
(C)pismo
三体地蔵磨崖仏 (3) posted by
(C)pismo
ブログ一覧 |
ドライブ | 日記
Posted at
2016/11/14 00:01:23