この日は梅雨の谷間で天気が良かったので、運動不足解消も兼ねて丹波から但馬にかけて山城を巡ってみました。
黒井城は別名を保筑城・保月城とも呼ばれる山城です。
猪ノ口山(標高365m)にある山城で、南北朝時代の建武2(1335)年赤松貞範(則村の次男)が築きました。
天文23(1554)年には赤井直正(悪右衛門・荻野直正)が城主となり、大改修を加えました。
天正7(1579)年8月、丹波平定を目指す明智光秀の大軍の前に落城をとげました。その後、斎藤利三、堀尾吉晴、川勝秀氏が城主となりましたが、江戸時代初期に廃城となりました。
現在も本城部分には、野面積みの石垣が残ります。
中腹には三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・東出丸などの曲輪があり、千丈寺・龍が鼻・的場・百間馬場などの砦跡がある巨大な山城です。国の史跡に指定されています。
興禅寺は、山号を大梅山といい、曹洞宗の寺院です。
本尊には仏師春日の作の釈迦如来を祀り、七道伽藍が良く整った名刹として知られています。
戦国時代は、この寺域一帯は黒井城の下館でした。天正7(1579)年8月、明智光秀が落城させ、ここに入ったのが重臣の斎藤内蔵助利三です。この興禅寺は斎藤屋敷の伝承が残り、お福(後の春日局)の生誕地の伝承が残っています。寺内にはお福の産湯の井戸や腰かけ石などが残っています。
また、寺も高石垣や白の練塀の佇まいが往事の景観をよく残していて、国の史跡の一部となっています。
養父市八鹿町朝倉は越前国の戦国大名、朝倉氏の発祥の地です。
平安時代末期に地名を苗字として朝倉氏が興り、朝倉高清を初代とした。分流として八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出しました。
朝倉城は朝倉集落の南西の丘陵にあり、東西130m、南北110mの規模です。
登城口には宝篋印塔の向かい側に説明看板があります。墓地の中を通り、登っていくと、動物対策に設けられた金網の扉が設けられますが、自由に入ることが出来ます。ただし、金網はちゃんと閉める必要があります。そこから登っていくと主郭部にたどり着きます。
主郭部の奥、南側の曲輪にはいくつか堀切を見ることができます。
比丘尼城は朝倉城の近くにあります。
詳細は不明ですが、朝倉城の支城であったと思われます。
登城は朝倉天満宮南側の道を上がります。駐車場はありますが、ダートのためスポイラー付きの車などは歩いていく方が無難だと思います。途中で右手に小さな案内の標柱があり、そこを登っていけばすぐです。
八木城です。
八木城は
石城と
土城があります。
鎌倉時代初期、朝倉高清がこの西方の峯に築かれていた八木土城の城主閉伊十郎行光に勝った後三男重清を初代城主としました。その後重清は八木安高と名乗り以来豊信まで15代続きました。
八木氏は南北朝時代から戦国時代にかけて、八木石城を築きました。
その後、八木氏は山名氏の傘下に入り代々山名四天王の一人として重きをなしました。
15代豊信の天正8(1580)年3月、羽柴秀吉の播磨・但馬攻略により、八木城も落城しました。
天正13(1585)年秀吉の配下であった別所重棟が新たに八木城に入りました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに西軍に属した別所吉治は敗戦で所領を没収されましたが徳川家に仕える春日の局が伯母にあたるよしみをもって許され翌年丹波北由良城へ移封され、八木城は廃城となりました。
登城はかなり山道を登らなければなりませんが、本丸には石垣が残り、一見の価値がある城です。
八木土城は、平安末期に閉伊四郎頼国が築いたとされていますが、詳しいことはわからないようです。八木氏は南北朝時代に八木新城(八木石城)を築いて移りましたが、引き続き土城も詰めの城としての役割を果たしていたと思われます。
八木石城の主郭部を更に奥に登っていったところに八木土城があります。八木土城は案内や説明看板などはありません。土塁や堀切など遺構もしっかりと残っていて見応えがあるので八木城登城の際は土城にも登ってみると良いと思います。
Posted at 2008/06/15 22:54:21 | |
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