若者のクルマ離れ、といわれ続けている。
良き「自動車」の時代は終焉を迎え、クルマ時代へと移行。
もはや大型家電のひとつと化しているのが実情であろう。
特に首都圏に暮らす者にとっては、クルマは必要なものではなく、無くて困らないモノのひとつとなっている。
自動車メーカーはデザインを変えたり、使い勝手を改良していったりと知恵を絞っているが、思い描く理想、若者がクルマに熱狂するという図式は、もう何を改良しても無理だろう。
税制はじめ、クルマに関わる費用のことは当然だが、それが主因とは言い切れないと感じている。
それは、なにも若者に限ったことではなく、人々の考え方が無意識に変化してきている、もしくは変化したがっているように思うときがあるからだ。
「モノがなくても楽しめる時代」
いや、これも、もう言い古された表現だろう。
「楽しみを外に求めない時代」
言い換えれば、それは内観する時代とでもいえるだろうか。
「楽しみも悲しみも自分の内にある」と気づいていく人が、もしかしたら増えていくのかもしれない。
現実社会を見渡せば、とてもそうは思えないことばかりが起き続けているが、行き着けば反転するのが世の道理であるがゆえ、在り得ないと切って捨てるものでもないだろう。
内観する時代。もしそうなったならば、クルマに対する見方も変わっていくだろう。
クルマを不要とする人も増えていくだろうが、使い捨ての思想から、もっと人間的な、大切なパートナーであるとでも認識する人が今より増えていることだろう。
そして、クルマに対する意識が変われば乗り方も変わり、メンテ、ケアのディテーリング業界は伸びていく可能性がある。
板金塗装の修理業界においては事故率の低下による入庫台数の減少が不安視されるもののマーケットはまだ健在である。
キーとなるのはユニット交換の効率的な技術と、その対極に位置する、古いクルマの再生技術のコンビネーション。
それが他社とのアドバンテージになるだろう。
そのためには前提となるロングライフな技法が必須だし、作業者にもクルマ自体にもストレスの少ない、安全を意識したアプローチが一層求められる。
”見てくれ”をクリアするための技法から、再衝突時の乗員保護、安全ボディの性能復元へのシフト。
さらなる決め手は、パネルカット、溶接、組み上げにおける作業者の感覚的なセンス。
道具の置き方、部品の保管、それらの準備も含めてである。
塗装でいえば、塗りそのものよりもマスキング段階で既に出来は見えているようなものだ。
そして、センスが介在するものであるならば、それは主観的な要素が混じってくる。
完璧な仕事を目指すのはいいと思うが、完璧に執着する心は自我の欲の現れであると、自分自身を振り返ってみて思う。
それでは妥協した仕事になるではないかと言われるかもしれないが、大きな修理になればなるほど割り切れないことはどうしたって起こる。
むしろ、割り切れないことをどうバランスさせていくのかがセンスであり、そこにこそ職人と呼ばれる人達の存在する理由があるのではないか。
完璧というものは、センスを深化させていった結果として、その片鱗くらいは、もしかしたら見せてもらえるもののような気がする。
深夜の湾岸線。
湧き上がってくる、かつての想い。
それは、昂ぶる心を鎮めるものであったり、
やさしそうな微笑みであったりもする。
もはや葛藤する思いはなく、ささやくように語りかけてくるようだ。
だから、クルマは身近にあって当然の存在だし、
走ることを、とても、やめられそうにもない。
流れる街景に想いを映しながら。 yoshihisa
Special Thanks : hanatare GT
(本文と画像モデルさんとは関係がありません)
Posted at 2014/10/17 17:49:20 | |
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Speed Groove | 日記