※タイトルと内容が一致していない「駄文」です。タイトルは、何となくトレンドに乗ってみたかっただけ…
ワタクシ…昭和エフ年生まれですが…昭和時代の我が家にはクルマなどなかったというディグセグです、皆様こんばんは。
そんな家庭事情ではありましたが、平成ユ年にディグセグが運転免許を取得して以降は何らかのカタチでクルマを運転する環境が整った(?)ので、その経歴を振り返り、「平成の〆ブログ」としたいと思います。
記憶が定かであれば、教習修了後に初めて運転したのは、父親が所有していた
日産・ローレル(多分5代目か6代目、中古、AT)
でした。当時のディグセグ、ほとんど全くと言っていいほどクルマに興味を持っておらず(運転が苦痛ですらあった)、ローレルという名は覚えているものの、型式やらグレードやらまでは…
次に運転したのは
スズキ・セルボ(型式不明[4代目だろう、とは思う]、中古、5MT)
初めて自分名義で購入したクルマでもあります。但し、自分の意志ではなく、母親の意向によるところが9割以上で、購入資金も親たちが「ディグセグのために」蓄えていた貯金だったはずです。
そんなセルボですが、母親の夫(以下「彼」と表記)が
BMC・ミニ(詳細不明、中古、4MT)
を購入した際、何故か下取られて行ってしまいました。
なのでディグセグもしばらくはこのミニを運転させてもらっていました。
初めて運転したとき(独りだった)、バックギアへの入れ方が分からず、彼の職場に電話を掛けたというオチが付きます。当時はPHSを使っていたんですけど、イマドキの若者は「ピッチ」なんて知らないんだろうナァ…
話をクルマに戻しましょう。
彼ですが、ミニを購入する前は原付で通勤していたのですが、徐々にミニで通勤することが多くなり…ディグセグ用に、彼の通勤ルート上にあった中古車店の
三菱・パジェロミニ(E-H56A、3AT、1999年2月頃購入)
に白羽の矢が立ったのでした。
このパジェロミニからは、ようやく「自分の意志」が入るようになり、ローンを自分名義で組みました。
ローンを返済していく過程で、三菱の一連のリコール隠しが社会問題と化し―走行中にエンジンルームから何かが音を立てて外れ、パワーステアリングが機能しなくなったという実体験もあり―「今後はもう三菱車には乗らない」と思わざるを得ませんでした。
パジェロミニの次、ディグセグ史上初めて新車で購入したのが
日産・マーチ(UA-AK12、4AT、2002年4月購入)
でした。
3代目のこのマーチ、デビュー当初は「なんじゃ、このデザインは?!」と、どちらかと言うと否定的に捉えてしまっていたのですが…気付くと商談に臨んでいましたw ← なお、この思考回路はフィットにも当てはまります(苦笑)
当時の見積書を改めて見てみると、値引きは一切されておらず、今では考えられないほど「クルマ購入のイロハ」を知らなかったんだなァと。。。
余談ながら、このマーチで初めて「希望ナンバー」を取得しました。その番号が次の愛車購入のトリガーのひとつになるとは当時は想像だにせず…
マーチを購入してから数ヶ月後、ディグセグフエ歳の誕生日でした。
その頃付き合っていた女性に振られたのは(曝)
更に追い討ちを掛けるように、振られてから1年数ヶ月経ったフオ歳のクリスマスイヴ、御丁寧にもその女性から「結婚しました」と連絡が。
「フエ歳の誕生日とフオ歳のクリスマスイヴはもう2度と迎えたくない」とあちこちで言っていたものでした。
しかし、「どちらも1度限りでしょ」と言って下さる方は1人もいませんでした。
閑話休題。
先述の「希望ナンバー」―その数字にその女性と絡めた意味を持たせてしまっていたので―「早いところこのナンバーとおさらばしたい」と思うようになりました。
いつの頃からか、ATのシフトレバーに手を置くことが多くなり、「あ…MT車、また運転したいかも」とも思うようになり。
(AT限定免許だった女性に振られた以上、ATにこだわる必要も無くなりまして。)
宇多田ヒカルの武道館ライヴのチケット、倍率20倍以上ということもあり、ゲット出来ず…その代わりに ナニカ を購入したい…
これら3つが切っ掛けとなり、2003年の年末には
マツダ・デミオ(UA-DY3W、5MT、2004年1月購入)
のことで頭が一杯になっていました。
年明け早々にマツダディーラーを2件回り(O市内に2件あるマツダディーラー、当時は別系列だったため競合が可能でした)、O駅の西口にあるユーノス店だったほうで成約と相成りました。
こうしてディグセグの「マツダ極楽」は始まったのでした。
この頃は収入がヒジョーに潤沢だったこともあり、デミオだけでは飽き足らず(?)
マツダ・アテンザ(UA-GG3S、5MT、2005年4月購入)
をセカンドカーとして迎え入れるに至ります。
確かアテンザ購入の最初の動機は「カーナビ」だったかと記憶しています。パナソニック製のHDDナビが欲しくてw
今思うと、どうして「デミオにナビを後付する」あるいは「デミオを下取りに出してアテンザ1台だけを所有する」というような考えにならなかったのか、不思議でなりません。
ちょっと「脱線」を。
マツダ・ラピュタ(CBA-HP22S、5MT、2005年秋購入)
※彼(=母親の夫)用に購入したのですが、前述の2台のマツダ車とは違い、H市のマツダディーラー(関○マツダ)で購入しました。と言うのも、ディグセグの○え子がFD3Sに乗り、そこで勤めていると知って「勉強」させたのでしたw
ディグセグ自身の愛車、に話を戻します。
デミオとアテンザ、特に不満らしい不満は無かったのですが…2005年春にマイチェンしたデミオ、その年の夏に「ハニーイエロー」が(再)設定され…心が大きく揺さぶられました。カタログを眺めているうちに「マイチェン後のエアロ付きモデル…ハニーイエロー…ィィ」とまで思うようになってしまい。。
結果として、DY3W・GG3S共に手放し、新たに
マツダ・デミオ(DBA-DY5W、5MT、2006年3月購入)
を相棒として迎えました。このデミオを「Myハニー」という愛称で呼び、9年10ヶ月にわたり可愛がっていたのは皆様ご存知のとおりで。
ハニー号購入に当たっては、「カジュアル・エアロアクティブ(DBA-DY3W)でもいいか」とも思ったものの、HIDヘッドランプが標準装備ではないこととエンジンが1.3Lであることから検討対象から外れました。
ラピュタに続き、ハニー号も○え子の居たH市のディーラーで購入しました。
ハニー号にはマツダ純正ボディコーティング(ゴールド)を施工してもらいましたが、O駅西口のディーラーではこのボディコーティングを扱ってなかったこともH市のほうで購入した理由の1つです。
さて、そんなH市のディーラーとはちょっとゴタゴタがあり付き合いを止め、O市内にある同系列(=関○マツダ)ディーラー(≠O駅西口のディーラー)のお世話になることにしました。
何故最初からO市内の関○マツダでお世話にならなかったのか…は、また別の機会にでも(汗)
2006年の晩秋、このディーラーの中古車展示場にやって来たのが
マツダ・RX-8(LA-SE3P、6MT、2006年12月購入)
北海道のディーラーで試乗車だった1台でした。
走行距離は1万kmにも達しておらず、何よりライトニングイエローというボディカラーにKOされました(笑)
(まったくの余談ですが、当時このディーラーにはファントムブルーマイカというレアと思われるカラーのType Sが試乗車として君臨していました。)
DYデミオスポルトとRX‐8 Type Sの2台体制も長続きはせず、2008年9月にはRX-8を手放してしまいましたが、とても良い想い出を作ってくれた1台でした。
「想い出」で終わるハズではなかったのに(泣)
後日談かつ余談
H市の関○マツダディーラーもO市の関○マツダディーラーも、結局は関○マツダの手を離れ、O駅西口の旧ユーノス店の系列に入り現在に至ります。
RX-8を手放してからの7年数ヶ月は、ハニー号ひと筋でした。
「日本に最後まで残ったハニーイエローのデミオを目指す!!」というような発言もしていたのですが、2015年の秋頃になるとチョコチョコ細かいことが気になるようになってしまい…同年12月には
ホンダ・フィット(DBA-GK3、5MT、2016年1月購入)
を契約していました。
ディグセグの人生初のホンダ車・LEDヘッドランプ車・フラットワイパー車そして自分用に購入したクルマでは初めてブラックのボディカラーをチョイスしました。
漆黒水晶さん購入に纏わる諸々は
コチラのブログ をご参照いただければと思います。
このブログの最後に「車バトン」を再度やってみようかと思ったんですけど…
力尽きてしまいました。。。
(お時間ございましたら、9年11ヶ月前の
コチラのブログ をご覧ください。)
それでは、残り5時間を切った 平成 という時代を惜し…むほどではなかったか…
新しい 令和 の時代が良きものとなりますよう祈念しつつ、キーボードから指を離させていただきます。