
ご無沙汰しております。とのです。
6月の下旬に風邪を引いてしまい、やっと今日あたりから微熱も治まってきたので仕事に出てきました。病院に行くこと3回。「もう3日で治るでしょう」「もう4日分薬を出しましょう」などと言われ、気がつけばまるまる2週間、治るのに14日間もかかってしまいました。
「今年の夏風邪はしつこいよ」という先生、「もう年だからね~」という嫁さん←君の方が数日間年上なんやけど)。いろいろ言われておりますが、やはりうつ病によって自律神経がうまく働かず、交感神経と副交感神経のバランスが崩れていることが風邪を治りにくくしていたのだと思います。
梅雨に入ってからは、とにかく全身がだるくて家に閉じこもりがちで、毎日夕方やっていた散歩もやめていましたから、確実に体力も落ちていました。
とはいえ、ウジウジとあれこれの原因をたどってはため息ばかりついていても、なってしまったものは仕方がありません。夏のあれこれ楽しいこと…帰省とか、花火とか、コンサートとか、海とか、あれこれ…そんな計画を楽しみにしながら、徐々に気持ちを上向きにさせていきたいと思います。
この間の嵐のような天気は異常でしたね。岸和田では雷が変電所かどこかに落ちて1分ほど停電になりました。珍しいこともあるもんです。雨が続いたおかげでゴーヤもスクスク育ち、カーテンになりつつあります。
次々に花が咲き、虫たちがせっせと花粉を運んでくれて、すでに5本ほどゴーヤの実も育ち、1本目が収穫できました。さっそくチャンプルーにしたいと思います。
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数日前から滋賀県の大津市でおきた、中学生のいじめによる自殺(と言われている)事件の報道に胸がしめつけられる思いです。
自殺の練習をさせられた、死んだ蜂を食べさせられそうになっていた、口座を言わされてお金をとられていた・・・。こうした一方で「先生はひと声かけただけで、その場を去った」「何もいえなかった私たちも悪かった」という生徒の声もインタビューで取り上げられていました。
教育委員会や警察の問題はひとまず横に置いといたとしても、「先生たちが身を挺して守れなかったのか」「生徒たちがひと声かける勇気がもてなかったのか」との思いが堂々巡りでわたしの中で渦巻いています。
私の年老いた両親は小中学校の教師でしたし、私の子どもたちは小6と高1です。教師の立場も子どもの立場も両方身近に感じます。
例えば、教師は今はどこでも「慢性的な過労状態」で働いています。理由のひとつは、職員会議を持ったり、夕方以降家庭訪問をする時間などがとれないほど忙しくなっています。それは防犯の問題や親の問題、貧困の問題など、地域と家族の崩壊によって授業以外に解決すべき課題が増えたことです。モンスターピアレンツなどの問題も教師を萎縮させてしまい、思い切った対策をとりにくくさせている原因のひとつです。
第2の理由は「ゆとり教育」と世間から言われた歪んだ文科省の方針が逆ぶれになって、今では「競争と詰め込み教育」が優先され、「分かるまで教える」余裕がなくなっていることです。「落ちこぼれさせられた」子どもが作られていく教育になりつつあります。子どもの問題が起きたとき、個人個人の先生が忙しすぎて、集団的に子どもに対応できなくなったことで、クラスでおきた問題が、担任の先生の力量に左右されてしまい、学年の先生全体で「この子にはこういう対応をしよう」「この子たちにはもう一人副担任をつけよう」など、これまでできていた細かい対応ができず、もっぱら「計画通りに授業が進んだか?」「できなかった理由は何か?」など計画書・報告書・評価書を書くなど、国や校長先生の監視のもとで現場から離れた実務が多くなってしまったのです。
こうして、地域や家庭の問題、国の監視と実務の問題、校長先生の権限の強化によって、教師独自の努力や、集団的力の発揮ができず、個人の責任の押し付け合い、管理すべき校長や教育委員会が見てみぬふりをするという悪循環になり、いじめが拡大してしまうのです。
更に90年代に「少子化」を理由に、全国で小学校の統廃合がすすめられ、同時に「教師の不採用」が続きました。ここ数年で定年で辞める教師が増大し、結果的に教師が足りなくなる事態になりました。あわてて採用された20代~30代の若い先生に、ベテラン先生が退職したために、積み上げてきた数々のノウハウを伝授できずに、教師としての専門性・集団性が薄れてしまっていることが現場の「子どもたちの心の荒れ」を助長させているといわれます。
すべてをなげうってでも、いじめられている生徒の前に立ちふさがり守りきる。問題がおきたらクラス討論にかけて、いじめを直視して解決する。そういった対応にならなかったことに上記のような問題が横たわっていると思います。
子どもたちの立場としてはどうでしょうか?確かに(もしいじめが事実だとしたら)自殺まで追い詰めた生徒の罪は重いと思わざるを得ません。同時に怖いのは「こんないじめをしたら死ぬかもしれない」とは思い至っていなかったのではないだろうか?自殺の練習をさせようが、きっと本気で死ぬことは思っていなかった。あるいは「死」というものの表裏である「生きること」の尊さを感じていなかったために、安易にいじめに走って面白がっていたのかもしれません。
もう30年以上前の話ですが、私は小学生の頃、いじめられっこでした。女の子にもいじめられたし、友達からも「おい500円札もってこいよ」としばらく家の財布からお金を盗んで渡していました。みんなが輪になっている中で、弱いものどうしが喧嘩させられたこともありました。誰も守ってくれなかったし、先生も知らなかった。怖くて先生に打ち明けることもできませんでした。
今では更にいじめは見えにくくなっています。今日いじめる側にいた生徒が、明日は突然いじめられる側になっていたりします。加害者があっという間に被害者になっている。「ある日の一言」「ある日のひとつの行動」が、いじられる側になる理由になるのだそうです。つまり、誰が被害者なのか、誰が加害者なのか、生徒自身もわからなくなるくらい心が荒れている状態になっているのです。
昔だったら「長ラン」とか「ヤンキー」という分かりやすい表現をする生徒がいて、タバコを吸ったり、消火器を撒き散らしたり、ガラスを割ったり、バイクで校庭を走り回ったりと一種の「社会的アピール」をして、いじめる側の相手がわかったものでした。こういう人たちは今では成人式に現れるくらいで、日常的には見かけなくなりました。
つまり「ふつうのおとなしい生徒」がいじめたり、いじめられたりして「自殺」に追い立てられていくのに、次の日には見た目には「ふつうの生徒」に戻ってしまうわけで、先生としても判断しにくくなっているのです。たとえ「その時にこの子がいじめていた」ということがわかったとして、その生徒だけを何らかの制裁をしても、問題の根本はまったく解決されない。そして明日には同じような事件がおきる危険性が全国の学校でまだまだ続いていく…ということなのです。
おそらく、全国の学校では必死にいじめ根絶に取り組んでいる学校もあるだろうし、身をていして守っている教師もいるのだと思います。同時に、大津市だけが特別悪かったのではなく、実は「言えなかったけど、うちの学校でもいじめがある」というところはたくさんあるわけで、「自殺」というサイアクの形で出たから表面化したものの、潜在的には「氷山の一角」だと思わざるをえません。
私は、もし「死や生というものへの尊厳を感じられないような子どもたち」を作り出してしまったとしたら、我々大人というのは何という国にしてしまったのかと自らを責めずにはいられないのです。教育の責任でもあるし、先生や教育委員会、行政の責任でもあるし、国の責任でもある。子どもたちの責任にしてしまったら、今よりももっと歪んだ教育になってしまいます。絶対に今回のことは「その子どもだけの責任」ではないのです。そうさせてしまった大人の責任として考えなければなりません。
その意味で、今回の事件では教師の対応を私は強く非難したいと思います。「どうしていじめられている子どもを守れなかったのか」「どうして、いじめるような生徒を見過ごしてしまったのか」いじめられた生徒もいじめた生徒も、どちらも被害者であると私は思います。しかし、同時に教師や教育委員会の責任で終わらせることのできない国の施策の誤りを指摘せずにはいられないのです。
もし、クラスが20人ぐらいの小編成だったら、あるいはすべてのクラスに副担任がいれば、確実に危険信号をキャッチできたでしょう。親父は言っていました。「教師というのは、えんぴつの動きだけでその子が問題を理解できているか見分ける力をもっておるものだ」国が欧米なみに教師を配置していれば防げた事件だともいえます。
また「ゆとり教育」でもなく、「競争教育」でもなく、「わかるまで教えることのできる教育にする」ためにどうしたらいいか、学校ごと・学年ごとにしっかり対応できる教師集団をつくれたら、こうはなりませんでした。教師同士がゆっくりと相談できる「余裕」が保障されていることが事件を未然に防ぐことになります。つまらない評価や報告書の実務などやっているときではありません。子どもたちを「分断し、敵対しあう」立場から「助け合い、守りあう」人間的な集団に育てるためには、教師もまた集団的に成長しなければならないのです。
いじめの原因は何か?これがすべての問題解決の根本になります。友達関係・ネットでのいじめ・クラブ活動・麻薬・地域の問題・家庭での人間関係・・・・・・いろいろな問題があって一概には言えない部分もあるでしょうが、最大公約数としていえるのは「勉強が分からない」ということが一番の問題だと言えます。勉強をするために中学校に通っているのに、分からないままイスに座っていることほど惨めで辛いことはありません。「わかって、おもしろい」と感じられたら、学校に行きたいと思うでしょうし、いじめや何か問題が発生しても、ちゃんと教えてくれる先生を信頼して相談することもできるでしょう。勉強が分かるということが教師と生徒との信頼関係の基礎にならなければならないと思うのです。
ともすれば、「いじめ」というのは教育の問題とは切り離された個別の問題として考えられがちです。しかし、「学校」という社会の中で起こっているわけですから、教育の問題を切り離してしまうことこそ、問題の根本を見誤らせることになってしまいます。「教えたことがすべての子どもたちに分かるということ」これが、教育の最大の目標であるし、この国(学校)の主人公(主権者)としての自覚を育てる道であるし、「わたしをしっかり見ていてくれる」という教師への信頼を培う最大の武器となるのです。
そうでなければ学校がある意味がないじゃないですか。命令した通りに動く人間をつくるだけなら軍隊があればよい。知識だけつめこめんでエリートができるならマンツーマンの塾だけあればよい。そうではなくて、生身の人間が学び方、集団的助けあいの仕方を心と体で学ぶから学校が必要なのです。それを切り刻んで「できる人間」だけをピックアップするような教育を国がしてきたから、いじめ・自殺という形で子ども達は反乱を起こした・・・私にはそう思えてならないのです。
自殺というのは「本当は生きたいんだ!」との切実な願いの裏返しでもあります。どうか死なないで欲しい。そして、すべての大人たちは子どもの叫びを無視せずに、真っ向から受け止める決意をしてほしいと思います。何よりも政府は、「すべての子どもたちが勉強がわかる学校」へと大改革を一日も早くすべきであると指摘したいと思います。
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2012/07/08 13:34:30