
紀伊半島ぐるりの続きです。
本州最南端潮岬から隣の紀伊大島へ移動する。
昔は、
♪ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ巡航船♪
と唄われたように船でしか行き来できなかったが、
平成11年に念願の橋が架けられ誰でもすぐに渡れるようになった。
県道終点の駐車場から徒歩で進むと、そこには大きな慰霊塔が建っている。
◆トルコ軍艦 エルトゥールル号遭難事件
1890年(明治23年)9月16日夜半、トルコ(オスマン帝国)最初の親善訪日使節団が乗るエルトゥールル号は帰国途中にこの島の岩礁に座礁して多くのトルコ人が亡くなった。
島民総出で救助するが助かったのは僅か69名、残る587名は行方不明もしくは亡くなった。
慰霊碑近くにはトルコ記念館があり、眼下の岩礁が遭難地点。
写真右の草が生えてる岩に座礁した。
この事件と島民の献身的な救助活動はトルコ国民に知れ渡り、それ以降親日と言われるようになった。
後に、親日といわれる有名かつ劇的な救出活動が繰り広げられた。
1985年、イラン・イラク戦争の最中、帰国出来ない日本人を救助するために戦火の中、トルコ航空2機がテヘラン空港に降り立ち無事日本人を救助した。
エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。
当時・在日トルコ大使の言葉である。
◆樫野埼灯台
エルトゥールル号は座礁したのち浸水して水蒸気爆発を起こして沈没した。
投げ出された乗員のうち10名程の生存者は断崖を這い登って辿り着いたのが、
明治3年(1870年)に完成した樫野埼灯台。
石造灯台としては最古の灯台である。
右の建物は旧官舎。
灯台内部には入れないが外階段から灯台に登れる。
灯台から見る太平洋。
時を刻む機械はいらない
言葉もいらない
BGMは潮風
感じるのは感動という鼓動
※今年1月、エルトゥールル号遭難事件を題材にした日本・トルコ合作映画「エルトゥールル(仮題)」(2015年公開予定)を、田中光敏監督のメガホンで映画化することを発表した。
【エルトゥールル号遭難事件】 by wiki
エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertu?rul F?rkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。
現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。
■来日
木造フリゲート・エルトゥールル(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた大日本帝国の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。
1889年7月14日、イスタンブルを出港。数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて翌1890年6月7日に、ようやく大日本帝国に到着した。横浜港に入港したエルトゥールルの司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。
■帰途に遭難
エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた大日本帝国側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。
9月16日21時ごろに折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半ごろに沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出された。
■救難活動
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当てを行なったがお互いの言葉が通じず、万国信号本を使用して遭難したのがトルコ軍艦である事を知った[1]。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。その一方で残る587名は死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡の為神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された[1]。沖村長は県を通じて日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
■送還
こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、日本海軍の「比叡」と「金剛」が、遭難事故の20日後の10月5日に、東京の品川湾から出航、神戸で生存乗員を分乗させ、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けた[1]。なお2隻には、秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗り組んだ。
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ドライブ_紀伊半島 | 日記
Posted at
2014/05/11 19:05:22