
今年初のブログです。お久しぶりです。生きてます~(^^)
5月に法事があったので故郷和歌山市へ行ってきました。
これに合わせて数日前に四日市で恒例MR-S飲み会開催。
GINPARAさん、クーガさん、キイロ君、IFAさん。
久しぶりに会ったけどいつものメンバーなので居心地良いのよね。
次回は未定ですがまた飲みましょ!
MR-Xメンテ中のため今回は妻の車ラクティスで帰省します。
法事(祖母三十五、父三十三、兄十三回忌)は無事終えて翌日は昔の記憶をたどりながら和歌山市内を散策しました。
(画像メチャ多いです)
■旧西本組(現三井住友建設)本社ビル
大正時代に建てられた鉄筋コンクリート造建築。
太平洋戦争の和歌山市大空襲で焼け野原となった市内にこのビルは消失を免れポツンとここに建っていたそうです。
■築港(和歌山港)
紀州徳川時代から続く和歌山海運の玄関口。
こどもの頃、何度となく父に連れられ船を見ていた懐かしい場所です。
■養翠園
紀州徳川家の別邸庭園。
池は海水を取り入れた汐入のため潮位により水位変動が起きる珍しい庭園。
青い庭石は紀州青石と呼ばれ、和歌山市内(県内)の和歌山城や一般家屋の石垣や庭石敷石などに使われている見慣れた石です。
詳しい解説は後述します。
■水軒堤防
江戸時代の海岸線に築かれた南北1kmに及ぶ堤防跡。(画像後方防風林が実際の堤防)
画像は移築した一部のため高さは1m少しだが実際は4m程あったといわれる。
■紀州青石の洋館
学術的にはこの青石は「緑泥片岩(緑色片岩)」と呼ばれ、
紀州青石、伊予青石、阿波青石、秩父(長瀞)青石、伊勢青石が有名です。
ここで気付いた方は相当な地質マニアですね(笑)
実はこれら青石の産地は、日本最大断層である中央構造線の南側に集中しています。
緑泥片岩は、海底火山由来の玄武岩や火山灰がプレート運動による低温高圧の変成作用を受けてできた岩石です。
太古の海底火山で生まれた岩石が長い年月をかけて変成し、紀伊半島を形作る地層の一部となって和歌山市周辺に姿を現しました。
地球の営みに壮大さを感じますね。
また、緑泥片岩は板状に割れやすいため、庭石・石碑・板碑・古墳の石材などに広く利用されてきました。
この洋館の建つ和歌山市南部には秋葉山があり、かつて緑泥片岩の産地として知られていました。
そのため石職人も多く住んでいたようです。
和歌山市では、市内のあちこちで見かけるごく身近な石ですが、その正体は太古の海底火山とプレート運動が生み出した地球の記録なのです。
実家の庭にも使われて子供の頃から見慣れた岩なので、和歌山に住んでいた頃は特に何も感じませんでした。
しかし地形や地質に興味を持ち、その成り立ちを調べていくと次々に新しい発見があり地球の歴史ロマンを感じます。
■実家周辺
和歌山城南地区の母校は明治6年開校なので創立150年を迎える古い小学校です。
在校時代は木造校舎も多かったので、今は当時の面影はほとんどない。
母校周辺は元々は江戸時代の武家屋敷街でそのお隣はお寺が密集してるエリア。
こども頃は寺境内の木に登ったりお墓を走り回ったりの遊び場でした(笑)
■レンガアパート跡 (旧紀陽織布社宅)
お寺から続く人ひとりがやっと通れる細い坂を下ると、そこだけ時代が止まったような路地に出る。
大正9年に建てられた旧紀陽織布のレンガ造り社宅跡だ。
実家近くにあり向かいや裏には同級生も住んでいたので、この建物は子供の頃から数え切れないほど見てきた。
ただ当時まだ人が住んでいたのかどうかは記憶にない。
SNSで知られるようになってからは、時折廃墟マニアが訪れるようになったそうだ。
レンガ造りの建物を見ると、貧しかったけれど楽しかったあの頃の記憶が自然とよみがえる。
そしてレンガアパートの向こう、はるか奥に地元シンボルである和歌山城が見える風景には何とも言えない郷愁が漂う。
■再び実家周辺
昔から変わらぬお宅(登録有形文化財)もあれば、代変わりや新しい人もいて少しずつ故郷の記憶は上書きされる。
■和歌山城外堀-市堀川
実家城南から城北地区に移動する。
1585(天正13)年に築城された和歌山城の外堀の一つとして開削された人工河川。
和歌山城防衛と同時に舟による物資の輸送路としての役割を果たし、画像【築港(和歌山港)】に繋がる河川です。
大正から昭和に掛けては河川両岸に材木屋が軒を連ね河川は貯木場となった。
こどもの頃は貯木場の材木の上に乗って遊んでいたら何度か叱られたよ(笑)
その頃はヘドロと貯木による河川汚染が酷くて日本一汚い川と呼ばれていた。
いや、マジで汚かったし、材木の上で遊んで落ちたら死んでしたと思う。
現在はかなり浄化されて綺麗になりました。
■南方熊楠生家
市堀川沿いにある南方熊楠生家。
植物学では世界的に有名らしいけど和歌山県人でもあまり知られてないのではないか?
日本酒酒蔵の世界一統は和歌山市民では誰もが知ってるがそれが南方熊楠の実家だったのはこの時初めて知ったわ
■和歌山城外堀-真田堀
市堀川に繋がる人工河川の真田堀。 真田とはあの真田幸村の真田だ。
だが、なぜこの堀が真田と呼ばれてるかは誰も知らない。
真田昌幸・幸村親子は和歌山県九度山に幽閉されていたので和歌山にゆかりはあるのだがよくわからん。
一説には幸村の兄・真田信幸が江戸城真田濠(現四谷駅付近)を開削したのでそれに関係したのではないかとも言われてるが詳細は不明だ。
飲食店や商店が集まるこの両岸は昭和ネオン街を色濃く残し建物は法的には怪しい一帯。
でもそれも古い記憶の奥にある残像と重なる。
懐かしい、その一言に尽きる。
法事で故郷和歌山への帰省だったが、前日から体調が激悪く法事もその後の会席も正直きつかった。
翌日は南紀白浜あたりまで足を延ばそうと思っていたが、体調は相変わらず優れず市内散策が限界だった。
それでも歩いていると子供の頃の記憶が次々と甦る。
ゆっくりと流れる時間の中で、亡き両親と兄の元気だった頃の姿が重なり、楽しくもあり悲しくもある情景に心を揺さぶられた。
歳取ると故郷とはそんな置き場のない想いが漂う場所なのかもしれない。
今回写真は載せてないが、亡き母が戦時中勤務していた和歌山市内にある軍需工場跡地にも行った。
母いわく、米軍B29による和歌山大空襲(昭和20年7月9日)の時、工場から同僚と逃げて焼夷弾を避けるように近くの小川に飛び込んだらしい。
しかしその時母の頭部に焼夷弾が当たったそうだ。
幸いにも不発弾だったので母は生きながらえた。
戦時の話しとともにその時にできた頭部のハゲを何度となく見せられた。
工場跡地に立ち、母の当時の話しを思い出すと涙が溢れて言葉を失った。
その時に焼夷弾がさく裂してたなら私は今いないだろう。
海軍航空隊所属の父がもし外地に飛んでいたら...
自分が幸せだったあの頃の記憶と、両親やその世代の辛かった戦争時代の語りとは相いれない。
切ないな。。。