クレスタ30年30万キロ記念ブログ
前回は第1章「母の時代」をお送りしました。
引き続き、今回は第2章「私の時代」をお送り致します。
1994年~生まれる時代を間違えた男、爆誕~
とある産婦人科を後にする車があった。
運転手は父が。
後部座席には、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた母の3人が乗っていた。
この赤ん坊こそ、後の1G_HEARTBEATである。
そして親子が乗るこの車こそ、クレスタである。
この時、生まれて初めて乗った車がクレスタとなった。
私とクレスタとの長い関係は、この時始まったのだ。
1995年~覚醒~
私が1歳になった頃、まるで定めだったかのような出会いがあった。
親子3人でディズニーランドへ行った時のことである。
両親は私の1歳のプレゼントにと、お土産屋にてプルバックで走る車のおもちゃを買った。
帰宅して早速私に買ってきたおもちゃをプレゼントした。
ちなみに私は、今まで与えたおもちゃにはほとんど興味を示さなかったのだが、この時は違った。
母がおもちゃの車を走らせてみせると、私は大層興奮した様子で食いついた。
母「こんなによろこんでるの初めてじゃない!?」
父「そうだな!車がお気に入りなのかもな」
その後も長いことこのおもちゃの車を手放さず遊んでいたという。
思えば、私の車好きはこの時に覚醒したのではないかと思う。
大体の男の子が、ロボットや特撮ヒーローにハマる頃、私はそういったものに一切興味を示さなかったという。
喜ぶのは車のおもちゃだけだったため、買い与えられるおもちゃは車ばかりになっていった。
私の記憶が始まった頃、130ハイラックスサーフのおもちゃで遊んでいたのを覚えている。
それからしばらくして、私は立派な車好きの幼稚園児になっていた。
どこに行くにもミニカーと車の図鑑を持ち歩いていた。
街で走っている車の名前なんかも、ほとんど言えるようになっていた。
この頃まではあくまで普通の車好きの子供だったと思う。
それが少しずつ変わり始めるのはもう少し先の事・・・
2007年~かあちゃんの車って古いよな~
私が中学校にあがった頃、自分に変化が生じ始めた。
今までは新しい車が好きだったし、古い車のことはほとんど知らなかった。
あるとき、古いなとしか思っていなかった母の車に興味を持ち始めた。
私の世代では、すでに携帯やパソコンが身の回りにあるのが当たり前であった。
そのため、情報を手に入れたり、動画を見たりするのは容易なこと。
私は母の車について調べていくうちに、気づいたら母の車と同世代の他の車種にも興味が出始めた。
そうなったが最後、古い車が好きになるのに時間はかからなかった。
これと時を同じくして、好きな音楽にも変化が生じた。
今までは流行りの曲しか聞いていなかったが、好きな車と同じ年代の音楽を聴くようになっていた。
80年代の車・80年代の音楽が大好きになり、どっぷりと浸かっていくことになるのであった。
そうして、私の土台がこの頃に出来上がるのであった。
そして月日が流れた・・・
2013年~念願の免許取得~
すっかり周囲の人間とはズレ、80年代一色に染まった私は、毎日指折り数えてある日の到来を待ちわびていた。
その日とは、18歳の誕生日である。
幼い頃から大好きだった車に乗れる日がようやく目前に近づいて来たのだ。
そしてついにその日はやって来た。
高校卒業の前日、卒業式の予行練習をさぼって免許の本試験を受けに行った。
結果は無事に一発合格。
そして高校の卒業式当日、行きは母の運転で学校に向かった。
卒業式が終わり、帰りは私が運転して帰る事になった。
念願の初運転である。
運転席に座り、キーを回した時の感動は、卒業式の感動なぞ忘れるほどのものであった。
私より緊張した様子の母を横に乗せ、走り出した。
この時、生まれて初めて乗った車と、生まれて初めて運転した車が同じになったのだ。
無事帰宅し、母をおろした私は早速友達を迎えに行った。
どこに向かうかは既に決まっていた。
車好きのメッカとも言える筑波山である。
初めての峠道を、手に汗握りながら登った時の高揚感は今でも鮮明に記憶している。
はじまりの場所、筑波山であった。
免許を取って1週間も経たないある日、母が卒業旅行に連れて行ってくれると言った。
行先は静岡。
卒業後暇を持て余していた私はすぐに承諾し、翌日出発することになった。
母「お前運転な」
私「・・・え!?」
スパルタな母は免許取得後1週間も経たない私に、首都高と箱根の山を運転させた。
かなりビビったが、おかげであっという間に車の運転に慣れることができた。
免許取得後は毎日車に乗りたくて仕方がないものだ。
かくいう私も、毎週のように筑波山に通っていた。
その筑波山では、沢山の車好きの方々と知り合った。
はじまりの場所筑波山は、まだまだ未熟な私に様々な知識と出会いをくれたのだ。
ある時、運命とも言える出会いがあった。
その晩も、筑波山に走りに来た。
駐車場でのんびりしていると1台の車が入ってきた。
月明かりが照らしたその車は、赤黒ツートンが映えるDR30だ。
ハチマルヒーローで知って以来、大好きな車の一つであった。
(実はこのDR30、私が路上教習をしている際に、コンビニに停まっているのを目撃したことがあった。そのときの車に再会したのだから、まさに運命の出会いである)
興奮を抑えきれず、近づいていきオーナーに話しかけた。
はじめは訝しげな様子のオーナーであったが、80年代車好き同士、打ち解けるに時間はかからなかった。
その後、朝日が昇る時間になるまで車トークで盛り上がった。
DRのオーナーさんの話のなかで、筑波山で車の集まりをやっているという話がでた。
次回はいついつにやるので、よかったら来てよとの事。
私は絶対に行くぞと決意した。
そして話にあった日、筑波山に向かうと・・・
本当に80年代~90年代の車が集まっていた。
そのなかに以前会ったDR30を見つけた。
早速クレスタを停めオーナーに話しかけにいった。
私「お久しぶりです!以前お会いしたクレスタのものです!」
DRのオーナー「ああ!あの時の!本当に来てくれたんだ!」
以前会ったときに連絡先を交換したりしなかったので、私が来るかどうかは半々だと思っていたそうなのだが、本当に来たので嬉しかったとの事。
初めて参加した車のイベントは最高に楽しかった。
そのイベントこそ・・・
筑波山ミーティングである。
(注:写真は最近のもの)
ここでは様々な方と交流し、みんカラの存在を知ったのもこの時であった。
ここからの交流の広がりは早かった。
さっそくみんカラを始め、沢山の人々と知り合った。
ここから更にイベントへの参戦や、交流を広げていくことに・・・
↑筑波山ミーティングで知り合った方や私の友人とともに旧車天国に初参戦したり・・・
↑茨城空港のイベントにも初参戦。
↑秋ヶ瀬ミーティングにも初参戦。
↑前回までは一人も知り合いのいなかったハチマルミーティングでは、沢山の方々とお話しできるようになったり・・・
はじめて、同年齢の80・90車好きの方と知り合うことにもなった。
↑Toshiミーティングにも初参加。
同年齢の輪がさらに広がることに。
↑71の日にも行ってみたり。
高校の頃から読んでいた雑誌があった。
いつか自分も載りたいと思っていたが、本当に実現することになった。
↑初めて雑誌にクレスタと私が掲載された。
白黒ではあったが、嬉しくて何冊も買った。
↑初めてカラーで掲載された。
嬉しくて本屋で買い占めた。
様々な方との縁で実現したのは、雑誌だけではなかった。
ある時、71マークⅡのミニカーが発売された。
ミニカーを集めるのが大好きな私は迷わず購入した。
聞くところによると、このミニカーは実車のモデルがいるという事を知った。
「クレスタも発売して欲しいな~その時はうちのクレスタがモデルになれたらな~」
なんてことを夢のように思い描いていたのである。
そんな夢が現実のものとなったのである。
実際に私のクレスタがミニカーのモデルとなり、発売されることになったのだ。
これは本当に嬉しかった。
母も「一生の記念になった、今まで所有していて本当に良かった」と言った。
こんなことは私一人の力では絶対に実現しなかった。
様々な方々の協力と縁があったからこそだ。
本当に感謝である。
↑成人式もクレスタとともに迎えた。
初めて彼女を乗せてデートしたのも、このクレスタだ。
そして念願であった、同年代のGX71乗りとも知り合うことができた。
車の方向性や趣味嗜好が他人とは思えない方で、非常に嬉しい出会いだ。
唐突だが、ここで言っておかなければならないことがある。
それは・・・
実は私はクレスタという車自体はそんなに好きではないということである。
個人的には「運転が楽しく、コンセプトが明確で、作り手の情熱を感じる車」が好きなのだ。
この点クレスタは実に平凡で退屈な車なのだ。
しかし、決して嫌いというわけではない。
運転しやすいし、狭いながらも大人4人がちゃんと乗れる。
税金もバカ高くないし、燃費だって劣悪ではない。
当たり前だが、現代の車のように楽で快適ではない。
あちこちボロボロで嫌になることもたくさんある。
実際に嫌になり、浮気をしたこともあった。
しかし、何故かクレスタに戻ってきてしまうのだ。
どハマりすることもないが、時間を共にすればするほど離れられなくなる。
私とクレスタの関係は、お互いの良いところも悪いところも知り尽くした熟年夫婦のようなものかもしれない。
愛はないけど情はある。
昔からそこにあるのが当たり前だからこそ、有り難みが薄れていて、
無くして初めて大切さに気付くのかもしれない。
楽しい時も辛い時も
私の傍にいたのはクレスタなのだ。
そう考えるとクレスタはやはり、かけがえのない存在であると思った。
なんだかんだ文句を言いつつも、これからも共に歩んでいくのだろう・・・
第2章「私の時代」 完
「30年30万キロの歩み」は以上になります。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
ここからは、あとがきのようなものになります。
やはり丁寧口調の方が慣れています。
本編は書いていて違和感しかありませんでした(汗)
読みにくいところがあったかと思います。
申し訳ありませんm( -_- )m
こうして振り返ってみると、免許取得後の5年間は怒涛の勢いでありました。
そんななか、意識の変化も多々ありました。
免許取得当時は、クレスタを弄るつもりマンマンでした。
MT載せ替え、ローダウン、タコ足等々・・・
実際にアルミ入れたり、ダウンサスを入れたりもしました。
しかし、2年後くらいにはやはり車はノーマルが一番だと思うようになり、
フルノーマルに戻したりしました。
ここにきてクレスタ30年30万キロというのは一つの区切りであるように感じます。
最近は車に対して少し冷めてきている自分がいます。
洗車の回数は目に見えて減り、ドライブに行くことはほとんどなくなりました。
ピーク時には年3万キロ弱走っていましたが、今では1万キロ弱になりました。
自覚した当初は焦りと驚きがありましたが、今はそれでいいと思えるようになりました。
あえて距離を置くことで、今までより視野が広がったと思います。
冷めてきたと言っても歩みを止めるわけではありません。
これからは少しペースを落として、のんびり向き合っていこうと思います。
やはり私にとって車とは、切っても切り離せない大切な物ですので^^
そして最後に、
これまで出会ったすべての方々に、心より感謝申し上げます。
私が得た知識の数々、貴重な経験、有意義な時間は、
皆様との出会いなくしてはあり得なかったものです。
今の私があるのは皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。
これからもポンコツなクレスタと私を、宜しくお願い致します。
1G_HEARTBEAT