つづきです。クルマとは全く関係の無い話題なので、興味ない方はスルーして下さい😅
ピアノの師・ヴィークの怒りを買ったロベルトとクララの交際。
ロベルトはヴィークと街で出会えば
罵詈雑言を浴びせられ、周囲にはあることないこと悪評を流されるというひどい扱い。
クララは転居させられ、単独外出禁止という
軟禁状態。
あまりの父の仕打ちに一時はロベルトと別れる事を承諾したりもしたようです。
しかし父の監視をくぐり抜け、ふたりは連絡を取っていたようです。
1837年、ついにロベルトとクララは
秘密裡に婚約しました。
まだ未成年だったクララが結婚するには父親の同意が必要。意を決してロベルトはヴィークと直談判に及びましたが、当然の如く物別れに😭
ヴィークはクララとロベルトを会わせまいという意図もあったのか、度々演奏ツアーに出かけるようになりました。
この時期、ロベルトは「ピアノソナタ」「子供の情景」「クライスレリアーナ」等の名曲を次々と作曲しています。クララとの愛に燃える心情が込められているようです。
クララも演奏会でロベルトの曲を演奏して応えました。
1839年、ついにロベルトとクララはヴィークに対し結婚を認めるよう、ロベルトへの誹謗中傷を止めるよう
裁判所に訴えました。
裁判では、ヴィークの辛辣な行動があからさまに😅
1840年、裁判所はふたりに勝訴の判決、
ようやく結婚式を挙げました。ロベルトは30歳、クララは21歳の誕生日の前日でした。
5年もの苦難を乗り越え、ようやく結ばれました。
めでたしめでたし。
・・・とはならない😨
ふたりの結婚生活はなかなかにハードでした。
タイトル画像は1847年(シューマン37歳)頃の肖像画。表情が暗いような気がします。
理由の一つ、
子だくさん。
熱愛を貫き結婚したふたり、次々と子供が生まれます。
1841年から1854年にかけて、なんと
8人、4男4女😅
長男エミールこそ1歳で夭折したものの7人は成人しました。クララは毎年のように妊娠出産、子育ては大変だったでしょう。
新婚当時、ロベルトは音楽家・評論家として徐々に存在感を増していたものの稼ぎは充分ではなく、家計は
19世紀最高のピアニストの一人と評価されていた、クララのコンサートに頼っていました。
ロベルトは子煩悩で「子供は何人でも欲しい」タイプでしたが、クララは日記の中で「子供は3、4人で十分」と書いています。相当しんどかったようです😅
当時のコンサートは自分の作品の演奏会、というかたちが多かったようです。クララも自身で作曲もして、その出来映えはリストも賞賛するほどでしたが、当時は”職業婦人” ”女性の作曲家”が認められる社会風土ではありませんでした(
メンデルスゾーンの姉・ファニーも同様の境遇)。
クララはシューマンやメンデルスゾーンの作品を演奏し世に広めました。演奏者と作曲者は別、という現代のコンサートの原型を定着させました。
もう一つの理由、
ロベルトの病気。
元々内向的な性格のロベルトでしたが、新婚当初は
奥様の方が遥かに有名人。
クララの演奏旅行に同伴すると”ピアニストの夫”と粗略に扱われました。日記では強がっていたもののかなり傷付いたようです。
そういうストレスもあったのか、徐々に
精神を病んでいきました。
さらにつづく?<(_ _;)>
参考HP
Wikipedia:ロベルト・シューマン、クララ・シューマン
Robert Schumannの生涯
クララ&ロベルト・シューマン、時代を先行く夫婦像
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記 〜クララ・シューマンを支えた男性たち〜
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Posted at
2025/05/07 13:36:28