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カクシカおじさん(プレミオおじさん)のブログ一覧

2016年07月08日 イイね!

書評 「韓民族こそ歴史の……」

書評 「韓民族こそ歴史の……」

私はいつもいろいろな本を読んでいますが、

アマゾンを徘徊中に見つけたこの一冊。
最近読んだ本のなかで、
   この本は非常に読み応えがありました。

そこでここに簡単にご紹介しようと思います。




ちなみに著者は日本人でなく日本に帰化した中国人です。これは注目に値しますね。



この本の中身はひとことで言いますと、
「(韓)半島人は自己保身のためなら、外国の勢力を利用する、またはその術に非常にたけている。
   … そして彼ら半島人の内部闘争に利用された周辺国は、戦争という形で損害を被る。」


というここを、はるか大昔の新羅・百済・高句麗の時代から近代の朝鮮戦争にいたるまで、その性(さが)を歴史を通して詳細に分析している、ということでしょうか。

 


なぜ白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が負けたのか、私はここで初めてその詳細を知りました。

といいますか、大化の改新の直後なので国内基盤を整備しなければならないときに、日本=倭国がわざわざなんで遠い朝鮮半島まで大軍を派遣したのか今までよく分からなかったのだが、この本に答えが書いてありました。

 

  ということで、ご興味のある方・歴史の好きな方は、この本を買って読んでみてください。
  ほぼ字だけの本ですが。
 
Posted at 2016/07/08 02:13:52 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | その他
2012年04月25日 イイね!

日本の礎を築いた聖徳太子が建てた奈良・斑鳩の法隆寺と、現代の日本を象徴する日銀の失策とそのデフレ経済(2013.10.10追記)

日本の礎を築いた聖徳太子が建てた奈良・斑鳩の法隆寺と、現代の日本を象徴する日銀の失策とそのデフレ経済(2013.10.10追記)
 聖徳太子と聞けば、皆様なにをイメージされるでしょうか?
 
 昭和の人ならまず思い浮かぶのが、ここのタイトル画像のように、聖徳太子の肖像が載った1984年(昭和59年)まで発行されていました、旧1万円のお札ではないでしょうか。


 ここの旧1万円札の画像は、フリー百貨辞典のウィキペディアに掲載されていたものをお借りしましたが、現在の福沢諭吉版よりも一回りだけ札が大きいものの、私個人的にはこの聖徳太子のお姿のお札のほうが威厳もあってより1万円らしく、こちらのほうがいまだに好きですね。


 日本の経済も、昭和33年から発行されたこの聖徳太子像の1万円札とともに、オイルショックもなんとか克服しながら大いに発展していったものの、諭吉さんの時代になるとお札のパワーが落ちたのか、バルブも崩壊し日本国家全体がデフレ経済から脱却できないまま今日まで続いています。

 私はここで別に福沢諭吉の批判をするのが目的ではないのですが、両者の残した業績をかんがみると、福沢諭吉ファンには申し訳ないですが、もう圧倒的に聖徳太子のほうが上ですね。まったくといっていいほど違いすぎています。


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 ところで先日、あるところでちょっと小耳にはさんだのですが、諸外国では自国の通貨流通量がだいたいGDP=国内総生産額の3~5倍程度は、自国通貨を流通させているらしいのです。

 ところが日本は、政府でなく日銀が貨幣流通量をにぎっており、しかもこの日銀の総裁というのが順送り人事みたいな感じで選ばれ、自分の代で責任を取りたくないのか名誉を傷つけたくないのか、ずっとこのかたデフレが続いているのに、GDPの1.6倍程度しかない貨幣流通量を全く変えようとしないのです。




 まあ保守的で、事なかれ主義で、しかもお役人体質そのものの日銀が、いったい何を考えているのか庶民には全く分かりませんけど、これが日本がデフレを克服できない隠れた本当の原因なんだ、ということを先日あるところで聞きました。で、その後ネットでも徘徊してみると同じような論説をいくつも見かけました。

 そしてあくまでうわさの範疇ですが、日銀のお官僚は財務省の言いなりにはなりたくないといいますかエリート意識というのか、お互いに官僚の派閥意識がある?ようなのです。

 そのひとつにはたすきがけ人事といわれている日銀総裁が、日銀出身者と旧大蔵省(現財務省)の事務次官との間で交互に日銀総裁に就任していることもあげられるでしょう。政治家(与党)連中も、このような馬鹿げた慣行をコントロールする力もないのか、全く情けない限りですね。

 そして本当に両者のエリート意識が対立しているのが金融緩和をしない原因のひとつなら、東大法学部なんてもう完全にぶっ潰したほうが、ほかの省庁も含め日本のためにも良いです。




 結局バブル発生も、その崩壊も、直接的には!日銀の金利政策が招いたといえるもので、その功罪は非常に大きいといえるのではないでしょうか。日本にしかないあの馬鹿げた日銀法もとっとと廃止し、日銀も財務省も一度完全に解体したほうがいいです。

 エリート意識丸出しで自己保身ばかりで全く役に立たない日銀総裁連中たちに対し、聖徳太子は推古天皇の摂政で、今で言う総理大臣のような最高の立場でしたが、あの時代にも関わらず残された言動(冠位十二階の制度や十七条の憲法ほか)を見ると、本当に庶民の立場に立った腰が低いお人でしたね。

 また国を預かる政治家たちも、明治維新の頃の政治家は立派な人が多かったし、明治天皇様ご自身も国の行く末を思い、庶民を思い、とても聡明で立派だったけど、今の政治家は小選挙区制度の弊害も出ているのか、民主党や自民党の言動を見れば分かるように、党利党略ばかりを追求し、一方の官僚は自らの保身ばかりを考えるような非常にレベルが低い人が本当に多いです。

 これこそが財界も含め、現代の日本の沈滞している真の原因でしょう。



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 で、今現在(2012年初頭)、日本の政界では野田首相が消費税増税をひんぱんに声高に叫んでいますが (ギリシャのこともあるだろうが、これは財務官僚の言いなり? なのでしょう)、たとえ消費税を10%に上げても、現在はデフレ不況なので、庶民感覚から見るとさらに物が売れなくなり、思ったほど税収は増えないのではないか…と庶民感覚から見れば普通に思いますよね。
 
 これは近い過去に事例もあり、自民党政権の時の橋本龍太郎総理の時に、最悪のタイミング(1997年)で消費税を3%から5%に引き上げて国民からお金を吸い上げた結果、かえって大不況になりデフレ経済となって、国民の皆様が苦しんだだけで正直効果はなかったです。

 その証拠に1997年度には消費税の2%アップによる収入増4兆円に対し、2年後の1999年度になると主にデフレ不況により、法人税+所得税の税収の減収が6兆5千億円にものぼり、財政もまったく改善せずかえって悪化しました。




 それよりも戦前の高橋是清大蔵大臣が行ったように、デフレ経済下では一時的に通貨発行量を引き上げて、それを活用した政策をおこなうほうが、長期デフレ退治にはよっぽど効果が高いはずではないでしょうか。

 特に緊急を要する東北の復興はこれでやればいいのにと思うのに、政府・民主党は党利党略ばかりで本当に腹が立ちますが全くのなしのつぶてですね。現在ではデフレ経済下なので不景気で税収自体も少なく、もしこのままではどこかでまた災害が起これば、そのたびに予算がなく増税を繰り返すということにもなるでしょう。



 (高橋是清大蔵大臣 : ウィキペディア)

 で、いきなり冒頭から今を悩ませているデフレ経済のお話だったのですが、もし聖徳太子が現代に生きていたなら、この苦境の経済をどう立て直すのだろう、とつい考えてしまいました。

 恐らく、まず誠意を尽くしてこの状況を説明し政策を変えるよう懸命に説得するものと思いますが、もしそれでもダメなら、行動を起こさない事なかれ主義で役立たずの日銀総裁を交代させ、それ相応にふさわしい人を見つけて日銀の総裁にし、日本のお国のために貨幣流通量を増やす方向に持っていくのだろうと思います。




 私が聞いたお話では(ウィキペディアの高橋是清さんのページにも記載されていますが)、戦前にこのようなデフレ状態になったときに、日露戦争の戦費調達で一躍有名になった高橋是清さんが、ちょうど大蔵大臣に就任して貨幣流通量を増やし、このデフレを克服したというものでした。

 そしてたいへん優秀だった高橋是清さんでしたが、通貨大量発行によりデフレ経済を大方克服したあと、今度は当然のことながらインフレの傾向が見られたため、当然の処置として通貨発行量を逆に引き締めにかかりました。

 ところがこれにより予算を削減された陸軍の、国の大きな経済が理解できない青年将校たちに恨まれてしまい、陸軍内部の争いに発するニ・ニ六事件に巻き込まれまして、お気の毒にも暗殺されてしまうのですね。


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      【2013.3.30 追記】
 経済雑誌 WEDGE(ウェッジ)の2013年 3月号 60~61ページに渡って 「日銀総裁はなぜもっと早く辞任しなかった?」 という掲載記事が載っていまして、実に面白いことが書かれていました。その記事自体は2ページに渡って早稲田大学教授の原田泰さんという方が書かれているのですが、要約すると、
 

 地方の地銀のなかには、銀行資産の大半がデフレ期に購入した長期の日本国債??というところがあるらしく、もし景気が良くなってデフレを脱却し金利も上昇すれば、デフレ経済に苦しむ大多数の国民は助かるが、長期の国債をたくさん保有している地銀は大損害をこうむるのは必定で、そうならないよう金融を引き締め続けて、絶対に日本経済がインフレにならないようにしている…といった内容でした。

 私はこれらの専門家ではないのでこの記事の真偽のほどは判断できませんが、この論評のとおり確かに日銀は決して金融の専門家などではなく、「銀行の利害の代理人」 という指摘は正しいでしょうね。

 そして記事では、さらにあの福島の原発事故のことも取り上げていましたが、日本の場合「○○の専門家」といった場合、業界の利害の代理人という場合が非常に多い、という指摘は的を得ていると思います。


 20年ほども続いているこのデフレ経済、国民不在のこのおかしな日銀の金融政策について、真剣に考えた総理(現 安倍総理)がようやく現れて、この日銀(理論)のまやかしを見抜き、やっとこの白川総裁を辞任させ(実質罷免だが)、経済の舵切りの方向転換がなされました。
                     …と、この論評記事はこう結んでいました。



 ここからはあくまで私個人的な主張ですが、
だいたい通貨量のコントロールを政府が管理していない国なんてあるでしょうか?

 まあ戦前の軍国主義一色だった時の日本や、無秩序に通貨を乱発し経済危機を招いたギリシャ(GDPの5倍ほども通貨を発行していたらしい) などの国ならばいざ知らず、国民不在のこんな日銀なんて全くもって無用の長物で、役人のポストだけが増えてやつらを養っているだけなので、こんな無用な長物はとっとと潰してしまったほうが良いです。

 頭脳も明晰、かつ現実界にも強かった聖徳太子とは違い、こんな学校頭の人間ばかりで実社会には全く役立たない、自己保身と事なかれ主義ばかりの日銀の幹部連中なんて、総裁だけでなく一人残らず全員罷免すべき!でしょう。


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   ここまでは聖徳太子像の印刷された一万円札のお話から、
   現在の日本のデフレ経済へつながるお話でしたが、

 もともと今回のブログは、日本の礎を築いた聖徳太子が残したものの一つに、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺がありますが、先日の2012.4.16の日にそこを訪ねたので、合わせて日本国家の礎を築いた聖徳太子について取り上げようと思います。


            (桜が咲いていた西院伽藍と五重塔 : 筆者撮影)


              (西院伽藍の大講堂 : ウィキペディアより)




 先ほど、日本のデフレ経済が深刻で、しかも動かない日銀のせいで、より状況を深刻にしている…という話でしたが、実は聖徳太子が生きていた時代(574年生~622年没)も、学校の歴史の授業ではまず教えないが、どうやら今と変わらない深刻な世の中の状況だったようです。

            (4世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)


            (6世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)


 時は西暦554年、当時の朝鮮半島は一触触発状態だったようで、日本と仲が良かった百済(くだら)が新羅(しらぎ)に攻められて聖明王が敗死。その8年後の562年には、任那(みまな)全土が新羅に奪われ任那日本府も滅亡しました。


 それまで持っていた朝鮮半島の拠点を失った日本は、新羅が攻めてくるかもしれない危機感もあったのですが、遣隋使という使節を派遣することにより、巨大国家の隋と対等な国家外交を実現するとともに、合わせて隋の情勢も探っていましたが、その隋も二代目の相次ぐ失政(追記 : 主な原因は高句麗侵攻に失敗)により国力を落とし、ついに618年に李 淵(り えん)が唐を建国します。

            (7世紀後半の半島勢力図 : ウィキペディアより)



 それから少し後の半世紀後の660年、強大な国力をつけた唐が新羅に加担し連合軍として、まず百済を攻めてこれを滅ぼしました。これはお隣の強国 高句麗よりも攻撃しやすかったので先に手をつけた、ということでしょうか。

 それから8年後の668年、唐と新羅は長らく敵対していた高句麗を滅ぼしていますね。

 またその前後の663年には、有名な白村江(はくすきのえ)の戦いで、日本側の作戦の不手際?なのか、とにかくも唐・新羅連合軍に倭国(日本)は大敗して引き上げることになります。


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             【2017.10.8 追記】
 つい最近まで、最も弱小だった新羅が朝鮮半島を統一できた理由、及び日本が白村江の戦いで負けた理由が私には分かりませんでしたが、中国からの帰化人であられる石平さんが 「韓民族こそ歴史の加害者である」 という本で、日本人になりかわり見事にこれらを解明してくれました。


 日本人の歴史学者やマスゴミは、自虐史観に毒されているバカな学者ばかりで、このような内容の本など出版されることもなく本当に腹立たしいが、百済の将軍に娘を殺害された新羅皇族の金春秋、後の武烈王が、当時の大国であった唐にさかんに働きかけ、とうとう唐の軍隊を引っ張り出して百済を滅ぼしてしまいます。

 つまりこの時から恐るべき半島民族の事大主義が始まったわけです。
 



 ここで滅ぼされてしまった百済国ですが、当時日本に人質に取られていた百済の王子である扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)を帰国させて王とし、さらに大軍の日本軍まで応援させてやったのに、このアホな王子、やはり半島人の血を引いているのか、せっかく百済復興にと立ち上がった同じ皇室の鬼室 福信(きしつ ふくしん)を、内部の内輪もめか妬みが原因かは知らぬが、何故か殺害してしまいます。

 これがもとで百済軍は総崩れとなり、なんとこの扶余豊璋はわずかな部下と共になんと高句麗国内へと逃亡したようです。そして残された日本軍が唐軍にやられて悲惨な結果になったのが白村江の戦いの真相のようです。




 左翼史観に固まった日本の文科省や教科書会社はこれらの真実をフタしているが、現代まで続く半島民族の節操のなさや二枚舌外交は、すでにこの時から存在していたようです。

 その後700年も続いていた高句麗末期に出た、あの有名な淵蓋蘇文(えん がいそぶん、ヨンゲソムン)は、見事侵略してきた唐軍を何度も撃退したものの、残された3人の息子が仲間割れし、追い出された長男がなんと敵軍の唐に降伏して、しかもなんと逆に高句麗侵攻に買ってでて、とうとう700年も続いた高句麗が滅ぼされてしまいました。

 自己保身のためには自らの国を自ら滅ぼすという、日本人の感覚からは信じられないようなことをやりのけたこの人物=淵男建、最悪な人物です。

 


 半島国家で自主独立を貫いた強力な軍事国家だった高句麗でしたが、滅んだことにより防波堤役を果たしていた高句麗はなくなったので、新羅は大陸国家の侵略をモロに受けることになりました。その高句麗の遺民たちは高麗川とか高麗神社とかありますように、主に日本の関東地区へと逃れて鎌倉武士へとつながっていきますね。

 まあ半島人は自ら防波堤を壊すというようなことをしてアホと言えば非常にアホですが、これは現代の韓国と北朝鮮の外交政策も同様ですね。

                           追記はここまで。


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 ただネットを徘徊していますと、次のような記事を見つけました。
    「唐」・「新羅」との戦いについて
  リンク先はこちら → http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body238.html

 このリンク先の内容を要約すれば、北九州の豪族の王? が敵方に囚われたので、これを救出すべく主に九州の軍勢が参加したのが、この白村江の戦いだというのです。

 私は歴史学者ではないので詳細なことは分からないけれど、この白村江の敗北の衝撃は大きかったらしく、当時の天皇、つまり天智天皇(蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子)は、唐・新羅軍が日本に攻めてこないよう、聖徳太子の遺志を受け継ぎ防備を固め国家の体制作りを急ぐことになります。



 この頃の大陸の歴史の興亡(五胡十六国とその後の時代)についてはかなり複雑なようで、韓半島の三国、高句麗・百済・新羅と、大陸側にある鮮卑族の後燕、また北魏、隋、その後の唐などの興亡が、少なからず我が国の政治体制を変革せざろう得ない状況になっていったように思えます。

 そしてそのすぐ後に起こった白村江の戦いに倭国と百済連合は負けたことにより、とにかく攻めてきた時にこれを防ぐことを念頭に、国防を第一とした日本初の中央集権国家へと脱皮が図られました。


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 では少し前の日本の国内はというと、中央では蘇我氏を始めとして物部氏とかの豪族たちが派閥争い・権力闘争をしている状態のようでした。そういうような日本のお隣の大陸が騒がしいときに、女帝・推古(すいこ)天皇と厩戸(うまやど)の王子と呼ばれた聖徳太子が中央政界に登場してきます。
 


 女帝と言えば、三韓征伐で有名な神功皇后(じんぐうこうごう:在位 201-269年)も、昔は15代天皇として数えられていて、応神天皇(おうじんてんのう)の母であり、実質初の女性天皇といえそうです。魏志倭人伝の卑弥呼は、実はこの神功皇后のことを指しているとも言われていますね。

 今年(2012年)は古事記編纂1300年目ということで古事記が脚光を浴びていますが、その古事記や日本書紀には、
  「九州で反乱した熊襲の背後には、新羅があるからそれをたたけ」
という神託が神功皇后に降りたが、その夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、それを全く? 信じなかったために、そのまま即死したと記述されています。


 それで夫を亡くしたあとの神功皇后は、軍の士気が下がってはいけないからと、後の応神天皇を身ごもっていたのを皆に隠したまま実は死んだことにし、男装して三韓征伐(さんかんせいばつ)に出かけ、強烈な風雨を伴って新羅に行き戦わずして新羅を圧倒し勝利して凱旋します。


    (三韓征伐に赴く神功皇后 / 1880年 月岡芳年による版画・ウィキペディア)



 古事記によると、その後無事生まれた神功皇后のお子様である品陀和気命(ほむだわけのみこと)、後の応神天皇になるお子様は無事成長し、いよいよ天皇に即位する段階になって、過去に死んでいるとされたので 「穢れている(けがれている) との神託がおり、天皇即位を拒まれます。

 そうして母の神功皇后、福井県の敦賀にある気比(けひ)神宮にて宣りなおし(のりなおし)て神より許され、第15代天皇として息子の応神天皇が即位することになります。

(神宮皇后が穢れを祓い宣りなおしたとされる、福井県敦賀にある気比神宮:ウィキペディア)



 神に懺悔し反省して許していただく、というおおらかで咀嚼力のある 「宣りなおしの精神」 は、もうこの頃には日本人の精神文化の中にしっかりと根付いていたようで、中国大陸や朝鮮半島の王朝のようにいつの時代も絶えず皆殺し、というような残虐極まる行為は日本の歴史ではほとんどありませんね。  

  この一点だけを見ても、
 どちらがより軍国主義なのか分かろうというものです。


 
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 そしてそれから約350年後、また似たような状況のときに、今度は女帝の推古天皇(すいこてんのう)が即位し、その参謀として抜擢したのが甥にあたる聖徳太子です。

 もちろん聖徳太子自らが天皇になることも出来たのかもしれませんが、あえて影から補佐する摂政という道を選んだのだと思います。
    
     (女帝 推古天皇:在位 593-628年)       (摂政 聖徳太子:在官 593-622年)
 


 で、不穏な大陸の動きに合わせ、国防を充実させるべく国家体制への整備を急いでいくわけですが、その中で門閥にとらわれず優秀な人材を採用するべく冠位十二階制度を作ったり、
 派閥争いに明け暮れている貴族たちに言い聞かせるように「和をもって尊しとなす」というような、十七条憲法を作ったりして、貴族の門閥政治から中央集権国家への脱皮を図ろうとします。

 でも結局、聖徳太子のやろうとした改革は太子の生存中には完成せず、その次の世代になる中大兄皇子、後の天智天皇(てんち てんのう)に聖徳太子の遺志は引き継がれて、大化の改新により、とりあえず太子の遺志はほぼ完成したようです。




 また聖徳太子は自分の子や孫が自ら門閥政治をしないよう、
 自分のお墓に わざわざ子孫が断絶するような! 墓相の墓 を建てています。

    (聖徳太子が祭られている、いや聖徳太子の墓がある叡福寺 磯長の門前)



           未だ参詣者が絶えない、磯長(しなが)にある聖徳太子の御廟(ごびょう)
       



 (大阪府南河内郡太子町 叡福寺にある聖徳太子の御廟所 : 3枚とも筆者撮影)




その子孫が断絶する墓相の通り、のちに蘇我入鹿は聖徳太子の子供であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲って皆殺しにしようとしますね。入鹿の軍に追い詰められた山背大兄王、いったんは聖徳太子が毘沙門天像を自ら彫り、伽藍を築いたとされる信貴山(しぎさん)のある生駒山に無事逃げ延びました。

     (山背大兄王がいったんは逃げたとされる信貴山 : ウィキペディアより)


       
  (創建当時の呼び名は分からないが、聖徳太子が創建したとされる朝護孫子寺:ウィキペディア)



 けれどもここからがなんとも不思議なのですが、
    父の聖徳太子の門閥政治をしないように、という遺志を尊重したのか、
    はたまた父 聖徳太子から夢のお告げでもあったのか、

 お父さんの、聖徳太子が自ら建てた斑鳩寺、つまり法隆寺になぜか戻り、そして周りの関係ない人々を戦に巻き込みたくない…と思ったのか、あえて入鹿と一戦を交えることさえなく、一族郎党みな自決する道を選びまして、聖徳太子の直系(上宮王家)は、家系断絶の墓相の通りに! ここで途絶えてしまうことになります。



 日本書紀によると、蘇我入鹿の父であった蘇我蝦夷(そがのえみし)は、「これはやりすぎだ」と嘆いたと伝えています。 そして中大兄皇子、宮中にて横暴きわまる蘇我入鹿を殺害し、それを見た父の蝦夷は自らの邸に火をつけて自害して果てたことにより、これでようやく門閥政治は終わりを告げました。

 蘇我入鹿のおじいさんにあたる蘇我馬子も、自分の思い通りにならない天皇を殺害までしていたので、蘇我一族は対立していた物部守屋を滅ぼしたあと、あまりにも横暴すぎた報いを受けたといえばそれまでですが、お隣の大陸が隋から唐へと動乱が続いているときに、内輪もめなどしている場合ではなかったはずですね。




 それと私からあえてひとこと、
 聖徳太子について今回いろいろ調べているとよく目に付いたのが、梅原猛さんが 「聖徳太子の呪い…うんぬんかんぬん」 なんて、本などで言っていることです。

 日本の礎を築いた聖徳太子、

 神道・仏教・儒教を深く修め、自ら天皇にもなれたのにもかかわらずその道はあえて推古天皇(女帝)に譲り、
 しかも自らの家系を断絶させてまで、日本の国と政治と国民の行く末を思いはかった聖徳太子、

 どう考えても、決して個人的な恨みなんてするような度量の狭いお方ではないですよね



 「恨み・呪い…」うんぬんかんぬんなどと言っている梅原猛、こういっちゃなんですが、肩書きだけはとても立派なのかもしれないが、全くもって読みが浅いです。

 これでよく哲学者だと世間から評価されているのには本当に笑っちゃいますが、至誠 という言葉の意味が全く分からないのでしょうね、いや自ら命を投げ出すようなことも無かったのでしょう、きっと。

 明治維新の原動力となった幕末の吉田松陰のほうがよほど立派ですよ。

 
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それから、その後、強大になった唐の情勢を絶えず探るべく、遣隋使にかわり遣唐使が派遣されることになります。大陸文化の輸入というより、情報収集の側面が強かったように言われています。

           (復元された遣唐使 : 上海万博・ウィキペディアより)


 またこの当時、新たに建国された「渤海国(ぼっかいこく:698年~926年)」との通商も、日本への渤海からの朝貢という形で行われたらしいです(35回も日本へ来たらしい)。そしてこれらも大陸・半島情勢の情報交換の側面が強かったようです(豊田隆雄著 本当は怖ろしい韓国の歴史より)。

           (8~9世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)



そして時は進み、755~763年に唐の国で起こった安史の乱(あんしのらん)で、唐の国力は大いに落ちて、もう日本への侵略はないと確信した菅原道真公(845生~903年没)によって、894年に遣唐使は廃止され、さらに大幅な武装解除も行われて日本の国家財政は大幅に好転しました。

        (宇多法皇に別れを告げる道真公 : 北野天神縁起絵巻より)



 こののちに天神となる、優秀だった道真公をねたんだのが時の左大臣藤原時平で、要は自分よりはるかに優秀だった菅原道真公を、出世のジャマだといって讒言し太宰府という僻地へと左遷させてしまうのですね。実に鼻持ちならない嫌なやつですが、ここでも聖徳太子の思いはなかなか通じなかったですね。

     (930年7月24日 京都御所の清涼殿を襲う雷 : 北野天神縁起絵巻より)


そしてその藤原時平、やはりやってきた行いも心持も良くなかったためなのか、39歳という若さであの世へといくことになります。

 また菅原道真公を最終的に左遷させた醍醐天皇へ、自らの娘を嫁がせて生まれた男子はことごとく病死してしまい、時平系統の藤原北家は力を失うことになります。しかも醍醐天皇自身もこの清涼殿落雷事件で体調を崩して三ヵ月後に崩御してしまいます。


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 それから聖徳太子は政治だけではなしに、当時神道しかなかった?倭国(日本)に、仏教を取り入れ民衆の強化も図ろうとします。現代でいうなら教育事業みたいなものです。

 仏教伝来は公式には538年とも552年ともいわれておりますが、教理経論がない神道(しんとう)に対し、仏教は膨大な教え=経典がありました。 そのもたらされた膨大な仏教経典の中から、日本人の特性と文化に合うものとして聖徳太子は3つだけ選びました。

 それは法華経(ほけきょう)と維摩経(ゆいまきょう)と勝鬘経(しょうまんきょう)です。そして、その選んだ三つのお経の解説書まで後に自ら書いていますが、それが有名な三経義疏(さんぎょうぎしょ)です。




 法華経といえば、どうもあの「南無妙法蓮華経」を唱えた鎌倉時代の僧、強烈な日蓮を連想しがちですが、お経自体は世の中を良くしていこう、といった内容が書かれているようです。ちなみに観音経もこの法華経の中に含まれていますね(普門品第二十五)。

 次に勝鬘経(しょうまんきょう)は、勝鬘夫人という出家していなくて、在家の女性の方の仏道修行への誓いというような内容が書かれているみたいです。昔は特に仏教では女性は卑しいものとして見る事が多かったが(女人禁制など)、これに真っ向から異議をとなえたのが聖徳太子だということでしょう。

 そして私が一番面白く感じまた笑ってしまうのが、残るこの維摩経(ゆいまきょう)というお経ですね。




 今回訪ねた最初期の頃の仏教寺院といえる法隆寺は、

 元は用明天皇が自らの病気平癒のためのお寺ということで作り始めたのだけど、用明天皇はほどなくお亡くなりになったので、その遺志を推古天皇と聖徳太子が受け継いで、当時あった飛鳥の都からちょうど神の位(天位)とされる北西の位置にあたる斑鳩の地にお寺を作ったのが、今に残る世界最古の木造建築「法隆寺」です。

 まあ斑鳩の地は、現代で言うパワースポットの地にあたるとでもいいましょうか。


そしてこの素晴らしい仏教寺院の法隆寺が建てられたことにより、その後日本の各地に大なり小なりはあるけれど、仏教寺院が建立され飛鳥文化が現代にまで末永く残っていくことになります。

(法隆寺の五重塔・筆者撮影 / それぞれの正面入口には仏教にちなんだ彫り物がある)


 その五重塔の4つの面のそれぞれ正面入口をみると、お釈迦様や仏教にちなんだ、立体的な彫り物があるのですが、そのうちの東側の入口には維摩経に書かれていますが、文殊菩薩が維摩居士の邸宅にお見舞いに行き、そして二人で問答を交わしているところが、わざわざ粘土のような彫り物(塑造:そぞう)として残されています。


 その聖徳太子も高く評価したという維摩経(ゆいまきょう)の中身というのが、

 あるところに維摩という、出家しないで在家のまま深く仏道に帰依する者=居士(こじ)の方がおられて、この維摩居士、大金持ちで広大な邸宅を持ち召使もたくさん、そして色街にも繰り出すというような人物なのですが、悟りの深さはお釈迦様並で、したがってお釈迦様の十大弟子は、有無を言うことが出来ないぐらいに、ことごとく維摩に論破されやられてしまうのですね。

 お経と言えば、読めないような漢文がえんえんと続く面白くないイメージですが、筆者がネットを徘徊して見つけたのが、下記の【関連情報URL】 にご案内している維摩経の現代の日本語訳のホームページで、
 こちらは内容がちょっと脚色しすぎですが、現代風にアレンジされた維摩経の口語訳が記載されていまして、普通の物語として楽しみながら読むことが出来のでぜひおすすめです。



    その維摩さん、
    あるとき仮病を使って説法をしようと考え、病気で寝込んでいるということにしました。

 そうするとたくさんの方がお見舞いに来てくれまして、そこで説法をしたのですが、それをお釈迦様が察知いたしまして、自分の十大弟子を含む500人の門徒に、維摩さんのところへお見舞いに行くよう頼むのですが、みんな以前に維摩にこっぴどくやられていたので、難くせをつけて誰一人として維摩のところへお見舞いに行こうとはしません。

    そこで最後にお釈迦様のお願いを引き受けたのが、
    最も知恵が深いといわれた文殊(もんじゅ)菩薩でした。

 文殊菩薩 対 維摩との論争ということでこれは見ものだと、あれほど維摩のところへ行くのを嫌がっていたお釈迦様の大勢の弟子たちは、文殊菩薩が維摩邸へお見舞いに行くときに、後ろからゾロゾロとついていくことになります。




 その文殊菩薩と維摩との二人の会話の内容は非常に長いので、下記の 【関連情報URL】 をクリックしてじっくり読んでいただくとして、この維摩経の中身はかなり深遠で、現代語訳を読んでいてもけっこう考えさせるところがありますよ。

 出家せず在家でどうやって深く悟っていくのか、はたまた仏教の真実の教えはこれだと、いろいろな例えをあげて維摩さん熱く語っておられますが、最後には「維摩の真実の教えはこれだ!」といって、もう言葉を超え無言の世界への問答へと突き進んでいきます。

 その維摩経の中身ですが、読めばなにかひとつのおとぎ話のような感じではございますが、ひょっとするとお釈迦様が生きていた時代のインドに、維摩のモデルになるような人物がいたのかもしれませんね~。




 ちなみに五重塔の東面にあります、維摩と文殊菩薩との問答の場面を表現している下写真の塑造は撮影禁止だったため、とあるページから画像を拝借しました。

 (法隆寺五重塔の東面にある維摩居士と文殊菩薩との問答の場面 : とあるネットより)


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 で結局、聖徳太子は特に外国からの国防の危機を乗り切るために中央集権的な国家を構築して、国力の増大と主に防衛体制の強化を図ろうとし、

 今まで日本(当時は倭国)には、古来からの神道しかなかったのを新たに仏教も取り入れたうえで、さらに神道との融和を図り(神仏習合-これは江戸末期まで続く)、仏教の教えを通して末端の人まで教育していこうとし、

 冠位十二階制度や十七条憲法を通して、身分にこだわらず優れた人材を登用しようとしたり、儒教の精神を持って人としての道(特に為政者)を示し、蘇我氏みたいな強欲・強権的な貴族を諭そうとしたりもしました。




 特に微妙な宗教の問題は、聖徳太子がうまく神道と仏教と儒教との融和を図り、教えがなかった神道に仏教の教えがもたらされました。
 そしてうまく神儒仏の融和をおこなったおかげで、同じキリスト教国でありながら、カトリックとプロテスタントが強烈に何百年も宗教戦争をしている、というようなことは日本では起こらずに済みました。

 ゆえに聖徳太子が日本仏教の祖とあがめられている由縁ですね。



 またその後、達磨大師が始めたとされるインド禅(禅宗)が中国にもたらされ、「本来無一物」で有名な六祖慧能(えのう)禅師によって生活に密着した中国禅(南禅)となっていきます。

 それが鎌倉期に日本にもたらされ、その次の時代の室町期になると日本の禅宗となって開花し、お茶・お華・歌舞伎・田楽・書道・書院造りなどと禅宗とが結びついていき、以前の銀閣寺のブログでも触れましたように、さらに独自の日本文化が花開いていくことになります。


  (日本独自の文化が花開いた室町期中期に建てられた京都 銀閣寺 : 筆者撮影)

       
                   (ウィキペディアに掲載されている雪を頂いた銀閣寺)




        (筆者が撮影した雪景色の銀閣寺 : 2017.1.16撮影)



  (和風建築を代表する書斎 この写真は東求堂の同仁斎 : 筆者所有の絵葉書より)

 
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 法隆寺には現在、五重塔で有名な西院伽藍と、それから大宝蔵院、そして東院伽藍(とういんがらん)の3つからなっていますが、下3枚の写真は聖徳太子自身を祀っている東院伽藍からのものです。
 
 前にも触れましたが、聖徳太子の跡継ぎだった山背大兄王の上宮王家(じょうぐうおうけ)の皆様が蘇我入鹿に攻められて、この斑鳩の地で自決して聖徳太子の直系が途絶えた後、ここ斑鳩宮・法隆寺は荒れ果てたままだったそうですが、約100年後に僧・行信が東院の再興に尽力したそうです。


現存する八角形の夢殿の原型は、聖徳太子の頃にはすでに建てられていたのでしょうね、恐らく。

              (法隆寺 東院大伽藍の四脚門 : 筆者撮影)     


            (法隆寺 夢殿外観 : 2014.7.28 筆者撮影)




 1884(明治17)年、岡倉天心とフェノロサの2人が、自分たちはたたりを受けてもいいからと、1000年? 以上も白い布で巻かれていた秘仏の救世観音像を、布をはがして世に現したことはあまりにも有名です。

 現在でも聖徳太子像だといわれているこの救世観音は秘仏扱いで、年2回の春と秋に期間を決めて公開しています。筆者ももちろん今回初めて拝見しましたが、残念ながら個別の写真撮影は禁止となっているので、ここに掲載するにあたりとあるネットにあった画像をお借りしました。


 法隆寺が発行(編集は小学館)し、ご当地で販売している本「法隆寺」を買いますと、この中にはたくさんの秘仏の写真が鮮明な画像で記載されていますので、ご興味のある方は法隆寺境内でお求めになってくださいね。

(法隆寺夢殿 救世観音像 : とあるネットより)
 
Posted at 2012/04/25 22:18:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | その他
2011年12月24日 イイね!

琵琶湖の竹生島参詣と近世日本の歴史(追記:室町・南北朝から太平洋戦争まで)

琵琶湖の竹生島参詣と近世日本の歴史(追記:室町・南北朝から太平洋戦争まで)滋賀県のど真ん中にあります日本一大きな湖である琵琶湖には小さな島が4つございます。
 
 面積が大きい順に、沖島(おきしま)、竹生島(ちくぶじま)、多景島(たけしま)、沖の白石(おきのしらいし)という名がついています。

 その4つの琵琶湖の島の中でとりわけ有名なのが竹生島ではないかと思われます。

 竹生島には弁財天が祀られていまして、平清盛が篤く信仰した広島の厳島神社、神奈川の江ノ島神社と、そしてこの竹生島弁天を合わせ、日本三大弁天というのだそうです。


 筆者は秋も終わりに近い今年2011年 11月 13日の日、初めてこの竹生島を訪問いたしました。
 
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で、その竹生島の歴史を紐解きますと、

  神亀元年(724年)、聖武天皇の夢枕に天照大神様が現れ、
「琵琶湖に小島がある。そこは弁財天(弁才天)の聖地であるから寺院を建立せよ。さすれば国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」
 との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院を開基させた。行基は弁財天の像を彫刻して本尊とした。延喜式神名帳では小社に列する (ウィキペディアより引用し、筆者がさらに加筆) といいますから、もう1300年近くの歴史がありますね。
 

  
 竹生島がとりわけ有名になったのは、今年(2011年度)の大河ドラマのせいもありますが、豊臣秀吉が篤くここを信仰したからではないかと思います。

 1573年、もともと羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、小者とも下男とも呼ばれていた最下層から次第に出世し、浅井長政攻めの功で、ついにこの年に織田信長から初めて領地を拝領しました。そこが今の滋賀県長浜市あたりで、当時は今浜と呼ばれ何もなかった土地でしたが、信長の一字をもらい受け長く続くようにと「長浜」と改名し、長浜城を作りさらに城下町を作って整備し近江の一大拠点としました。

 琵琶湖のそばに住まいを持った秀吉のその後の躍進はすざましい限りで、それはすでに歴史が証明していることですが、どうやら秀吉、ねね、秀頼、秀長など豊臣一家はそれを感謝して、終生この琵琶湖にぽつんと浮かぶ竹生島を篤く信仰しよく参拝もしたようです。直筆の願文も残っていることからもそれは証明されていますね。
 
 この時代は一般庶民でさえ参加できた北野大茶会とかもやっています。秀吉の中国返しの時には急ぐあまり、たくさんの金銀を沿線にばらまいたとも。とにかくこの時代は豪華絢爛という語句の通り、国も発展し庶民も裕福だった時代のようでした。


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 それに比べて265年の歴史こそ誇ったが、徳川の治めた江戸時代というのは、特に赤穂浪士が討ち入りを果たした元禄の時代を過ぎると、もう全国的に飢饉と天災と失政の連続で、庶民も大名も幕府自体も貧しく、天災と飢饉による生き地獄も続きまさに暗黒の時代ともいえ、とてもほめられる時代ではないですね。

 その中でも特筆に値する、保科正之公とか上杉鷹山公とか、現代の政治家よりもはるかに優れた方もおられました。
 

 賛否両論はあろうかと思いますが、正直徳川家康とその一族が作った江戸時代というのは、鎖国政策と政権転覆を恐れるあまり、人間扱いしていない非情とも言える身分制度と、庶民や大名から金を巻き上げていき、それがまた国の発展を大幅に阻害し、ろくな時代ではなかったと私はいつも思っています。

 最近とにかく悪い意味で話題を振りまいている北○○という国と、本当にほんと~うにそっくりな社会体制・政治体制です。

 そしてもし江戸時代がそのまま続いていたなら、国力が発展することもなく日本は欧米の植民地になっていたことでしょう。

 でも明るく治めるという意味が込められたような「明治」という元号の時代となり、藩が無くなって中央集権国家となり国も開国され、渋沢栄一や五代友厚なども世に現れ出てきて、徐々にですが不十分ながら経済も発展してきて国力が増強されていました。



 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の文言のように、
 とにかく富士川とか大井川などの大きな川に橋をかけさせない・しかも渡し舟さえも禁止、とかの極端な徳川家維持ばかりを重視した政策を、江戸時代が終わるまでの265年!もの間、制度を一切変えることもなく、バカの一つ覚えのようにずっと続けていました。


              (大井川 : 2005.11.8撮影・ウィキペディアより)


              (富士川 : 2005.12.24撮影・ウィキペディアより)


 よって、日本の土木技術、特に架橋技術とトンネル掘削技術は江戸時代の間には全く発展せず、交通体系の整備もなく、蒸気機関の発達により諸外国では大幅に交通体系が変革していても、日本では江戸期の265年間に渡りずっと馬かほとんどは徒歩で、産業革命を経た欧米比べてどれほど遅れたか計りしりませんね。

 1879年(明治12年)になって、ようやく「蓬莱橋(ほうらいばし)」という名の橋が大井川にも架けられました。


             (蓬莱橋 正面 : 2011.11.2撮影・ウィキペディアより)


            (蓬莱橋 横から : 2011.11.2撮影・ウィキペディアより)


             (蓬莱橋 横から : 2010.6.4撮影・ウィキペディアより)

 ちなみにこの蓬莱橋は現在ギネスブックに 「世界一の長さを誇る木造歩道橋」 として認定されました。日本の橋の中では歴史が古いこの橋、さすがに木では橋脚が持たなかったのか、1965年(昭和40年)に橋脚がコンクリートパイル化されたみたいです。

 それでも平成の世になってからでも、9回も橋が水害等によって壊されたというのですから、明治の初めの頃の架橋技術では、大きな水害があるとやはり橋自体が持たなくて、江戸時代に橋を架けても維持管理には大変そうではありますね。

 でもお城の石垣を綺麗に積み上げる技術はあったのですから、江戸時代には一度も流されなかった岩国にある錦帯橋のように、努力すれば石造りの橋も架けられたはずでしょう。


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 徳川の十五代も続いた将軍の中で、最も聡明だったと(私が)思われる徳川慶喜公が大政奉還を決断して江戸城を無血開城し、そして明治になってやっと日本が開国し、殖産興業が行われ国力が増してようやく諸外国に対抗できるようになりました。

 そして不凍港を求めて南下政策をとりつつあった、当時世界最強の(軍事)大国であった帝政ロシアに、大抜擢された東郷平八郎が率いる日本海軍が、丁字戦法を使ったりして玄界灘沖の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に大勝しました。

 
         (日本海海戦 1905年・明治38年5月27日 : ウィキペディア)
     

 また陸上では武田と織田との長篠の戦いの歴史が、日露戦争当時、世界最強といわれた帝政ロシアのコサック兵を、奉天会戦(ほうてんかいせん)での機関銃連続掃射で打ち破った、秋山好古の戦法にヒントを与えたのは有名?です。

 それで騎兵は世界中から消滅し、変わりに鋼鉄で覆われた戦車が登場しました。

 
                  (長篠合戦図屏風 : ウィキペディア)


 そしてこれらによりようやく日露戦争に辛くも勝利し、日本がロシアの植民地にならずに済み、当時とても悪名高かったロシア兵との混血も防ぐことが出来て(その理由はご推察くださいね)、太古から続き室町時代にほぼ完成した日本文化もそして日本民族も無事守られました。

 ただしその後の日本人、このあとの歴史が証明しているように慢心してしまって、石油の禁輸とかの理由はあるにせよ太平洋戦争でこっぴどく敗戦し、結局反省させられる歴史へと向かうのですね。


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 ミッドウェーでの海戦で大敗を喫した歴史で最も象徴されているように、現代の楠木正成公ともいえるような山口多聞という海軍きっての航空の専門家で、かつ最高に素晴らしい頭と度胸を持った指揮官が当時海軍にいながら、その専門家を戦闘部隊のトップにしなかったのが、太平洋戦争敗戦の最大の要因ですね。

 まあ、太平洋戦争の命運を分けてしまった、あのミッドウェー海戦の敗因分析はいたる所でされていますが、私が思うに戦闘は「運」という要素も非常に大きく、それを生かすにはいかに適材適所の配置をし、圧倒的物量と科学技術の差もあったかもしれないけれど、ささいなチャンスをも見逃さず物にするかにもかかっているように思われます。

 運という点で見ますと、日露戦争当時は非常に運にも恵まれていましたが、逆に太平洋戦争時には慢心した結果なのか、ことごとく裏目に出ることが多かったですね。

 
  (山口多聞海軍小将 : ウィキペディア)



 日本の歴史を振り返れば、巨大な規模の軍隊を持った今川義元に領内を攻められて、
 一世一代の大いくさをした織田信長の桶狭間の戦いは、
 
           (尾州桶狭間合戦 歌川豊宣画 : ウィキペディア)

 今川義元が細長く狭い場所だったといわれている桶狭間で休息しているという些細な情報を決して見落とさず、天も信長に見方したのか梅雨時期の大雨の雨音により、今川本陣へと迫る信長軍の馬や足軽の移動の音が消されて今川義元を奇襲し、わずかなチャンスを迷うことなくすばやく物にした織田信長の天才的才覚には大いに学ぶべきですね。


 
(日本の近世を開いた織田信長 : 狩野元秀筆 ウィキペディアより)



そして信長は、その後二度とこの桶狭間と同じ戦法を使いませんでしたが、この桶狭間の戦法はローマ時代の古代カルタゴの知将ハンニバル将軍率いる寄せ集め軍と、団結力と精鋭さを誇ったローマ軍とが、北イタリア地方で紀元前217年 6月に戦ったトラシメヌス湖畔の戦い(現在のトラジメーノ湖)にも通じるものがあります。
 
 (トラシメヌス湖畔の戦いの配置図 赤→ローマ軍,紺→ハンニバル軍 : ウィキペディア)



 ただしこの信長、のちには大いに慢心し、しかも性格も変質してしまって人々の恨みを買うことになり、部下の明智光秀に襲われてしまい、結局命を失うことになったのも合わせて歴史が証明しているところです。

 でもどちらにしても、従来の常識に全くとらわれず楽市楽座を開設したり、毛利水軍の焙烙火矢(ほうろくひや)や、焙烙玉(ほうろくだまに対抗するため、鉄で覆われた戦艦(鉄甲船)を造り、また農民兵でなく一年中戦うことのできる雇い兵を常備するなど、この革新的だった織田信長の登場からが日本の近世の歴史の始まりともいえると思います。


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 ところで日露戦争当時、日本はロシアの不凍港を求めた南下政策により国防の一大危機でしたが、この危機に対処すべく、階級にとらわれず大抜擢された東郷元帥や秋山好古・秋山真之の兄弟らの優れた参謀らの活躍によって、日露戦争に大勝利とまではいかなかったものの、何とか辛くも勝利して日本国は無事守られました。

 ところが太平洋戦争の時には日露戦争当時とは違って人事の大抜擢もなく、水雷の専門家でしかなかった南雲中将より後輩だという理由? で、
 時すでに海上での航空機戦闘の時代になっているにもかかわらず、
 適材適所!の人材を抜擢しなかったこの軍部の人事こそが、
            ミッドウェー海戦の最大の敗因原因ですね。



 ところでちょっと気になったので、下の三人の海軍兵学校の卒業年次を調べると、

      南雲忠一は、1908年(明治41年)海軍兵学校卒業(36期)
     小沢治三郎は、1909年(明治42年)海軍兵学校卒業(37期)
      山口多聞は、1912年(明治45年)海軍兵学校卒業(40期)

でして、世界最大の敵アメリカと勝負するのにもかかわらず、航空戦の専門家であった小沢治三郎や山口多聞は、南雲よりわずか1年、もしくは4年だけ後輩だという理由で? あるいは海軍内部の派閥争いで? この時には第一航空艦隊司令長官に抜擢されず、相変わらず年功序列の順送り人事みたいなことを平気でやっていた日本海軍でありました。

 これ、エリート連中で固められた、事なかれ主義・派閥優先主義の軍部の上層部の慢心ぶりが歴史からもじゅうぶんに伺えます。


よく南雲中将を弁護する意見も聞かれますが、
そもそも水雷の専門家で航空戦の知識がないのならば、
第一航空艦隊司令長官のお役は、航空戦闘の専門家に自ら譲るべきで、
そうしなかった南雲中将の知恵のなさ!が、実戦での敗戦へとつながっていきます。


          (1941年10月30日当時の真珠湾 : ウィキペディア)
   

 真珠湾攻撃のときにも山口多聞小将(当時)が、当初破壊し損ねたご当地の石油コンビナートなど工業・軍事施設を、徹底的に破壊するよう南雲中将に具申したにもかかわらず、自己保身のため?なのか、あるいは草鹿龍之介の入れ知恵なのか? なぜかこの具申を退けたことも今となってはよく知られています。

 しかもあらかじめ逃げていたらしい??  アメリカの主力の航空母艦を追跡することもなく、見方の損害を恐れたのか? 中途半端な攻撃で、可能であったにもかかわらず核心部分を攻撃することなく早々と引き上げてしまう、この南雲忠一のいくさのやり方は、とても戦闘指導官としての器とは言えないです。

   (山口多聞が指揮した空母飛龍・1939.7完成直後の写真 : ウィキペディア)



 そしてミッドウェー島攻撃中に敵機発見の報を聞き及び、兵装転換中に敵機が来襲して壊滅的打撃を受けてしまうわけですが、ここでも南雲中将、決定的なミスを犯してしまいます。

 山口多聞が陸用爆弾のまま攻撃機を発進させるよう具申したにもかかわらず、すぐに攻撃を受けないものと判断したのか、なぜか時間のかかる兵装転換を再度行い、その最中に敵機が来襲して壊滅的打撃を受け一方的に負けてしまいます。



 後でならいくらでも言えるかもしれませんが、南雲は元々水雷の専門家だから航空機の爆弾の兵装転換に、どれぐらいの時間がかかるのか把握していなかったのではないか…と思えるぐらいで、この再度の兵装転換の指示ははだはだ疑問に思えます。

 が、このことは源田実も悪いでしょう。彼は少し前のセイロン沖海戦で、兵装転換中にイギリス軍の巡洋艦が出現して、魚雷装備→爆弾装備→魚雷装備と変更する混乱を体験していましたが、この時の経験が全く生かされていなかったことから、やはり一級の将とはいえないですね。


    詳しくはこちらのブログを見てください
        http://www.gates-inn.com/taiheiyo-kaisen-midway.htm


結局、あらゆる面が裏目に出て、ミッドウェー海上の日本海軍が最悪の事態に陥ってしまったのだが、敵機の被弾から逃れた山口多聞が率いる飛龍、相手に一矢報いるために奮闘し米空母ヨークタウンに一撃を加えます。あの最悪の時でさえあそこまでできたのですから、山口多聞が司令長官だったなら、とはつい思わずにはいられませんね。

    (アメリカ軍の攻撃を受け最後の姿となった空母飛龍 : 1942.6.5撮影 ウィキ)


  (空母飛龍と潜水艦伊一六八の攻撃を受け沈没した米空母ヨークタウン : ウィキ)


 そしてとうとう敗色の濃くなった南方のミッドウェーの海で、部下たちは極力退艦させたけれども、部下にいくら言われても自らは全く脱出することなく、最後まで艦に残って太平洋の海の底へと散っていった山口多聞中将。

 この山口多門中将の生きざまは、幼少に「多聞丸」と呼ばれ、後醍醐天皇に九州から再起した足利尊氏・直義兄弟の軍に勝つ秘策を献策したけれど、結局献策は退けられ死地へ向かう楠木正成公とそっくりです。




 九州から足利尊氏・直義兄弟が再起してきた時、楠公さんは後醍醐天皇に、尊氏方に勝つための秘策を献策したけれど、坊門清忠(ぼうもん きよただ)という一介の保守的な公卿が、この時の楠公さんの献策に反対し、しかもあろうことか後醍醐天皇はそれを支持。

 天皇の命だということで仕方なく後醍醐天皇の命に従い、九州から再起した足利尊氏・直義兄弟の軍に負けると分かっていながらあえて出陣し、最後には神戸の湊川(みなとがわ)での戦で散っていった、楠木正成公とその一族を思い起こさせずにはいられません。


 といいますか、楠公さんは湊川の戦いで再起してきた足利尊氏・直義軍に敗れて、
       自分の役目は終わったということで湊川の地にあえて散っていきました。


       
          (神戸の湊川神社の境内にある楠公さんの御墓所 : 2014.2.19 筆者撮影)



 そしてその後、花の御所のそばに室町幕府が開かれ、質実剛健だった鎌倉政権に対し、応仁の乱を引き起こした一人となる八代将軍の足利義政の時に、現在の日本人を形作っている日本文化が花咲いていくことになるのですね。

         (洛中洛外圖上杉本陶版より花の御所 : ウィキペディア)

 これらのことは、
 次のブログ「足利義政の作った銀閣寺(東山慈照寺)」にて詳しく取り上げる予定です。



 で現代の、このミッドウェーの海戦では、建武の中興の時の坊門清忠と全く同じような、アホな南雲中将の総指揮官と草鹿龍之介や源田実らのアホな参謀のせいで、最後には日本海軍が取り返しが付かない状況となりました。

 そしてここミッドウェーの海で負けると分かった以上、もう日本に勝ち目はないと理解したのか山口多聞中将、自分の役目はもう終わったと悟って、自分の艦とともに太平洋の海に沈むことで、軍人としての責任を最大限果たしたのではないかと思えます。

 あげまんだった楠木正成公が湊川で自決した時点で後醍醐天皇方の南朝の命運が尽きたように、ここミッドウェーの海で山口多聞が亡くなった時点から、日本は敗戦への道を突き進むことになります。


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ところで先ほど触れたその死地に赴く楠公さんですが、いったんは天皇方に負けた足利尊氏が再起し九州から攻め上ってきたので、後醍醐天皇の命に従い新田義貞とともに神戸・湊川の地へと赴くのですが、ここは負けると分かっている戦をしないで、再起を図ったほうが良いのかずいぶん迷ったようです。

 これは自分の命が惜しくて迷ったのではなく、あくまで後醍醐天皇のお命とその政権を守るために今まで戦ってきたように、ここでわざわざ負ける戦さをせず、体制を立て直してから最終的に勝負に勝てればよいとの考えもあったみたいです。

        (皇居外苑の公園にある大楠公・楠木正成像 : ウィキペディア)


 1336(建武3)年 5月25日の湊川の戦さの日の前日だと歴史では言われているのですが、当時湊川付近の広厳寺(こうごんじ)いた、有名な渡来僧であった明極楚俊(みんきそしゅん)に会いに行き、そのときの自分の気持ちをどうやらぶつけたようです。

    楠公さん  「生死交謝の時如何 (そもさんか、生死の境)」
    明極楚俊 「両頭倶(とも)に截断(せつだん)して、一剣天に倚って寒(すさま)じ」
    楠公さん  「落処作麼生 (落所は如何)」
    明極楚俊 「カァーッ」

    この問答は禅問答としてけっこう有名だそうですが、

 「ここまでくれば、もう生きるも死ぬも無い、生死で迷っているその頭を一剣で割ってみよ。
        その気迫をもって、もう天命のまま行くだけだ」 …という和尚の言葉に対して、
        「(剣の)落所は如何」と切り返す楠公さん。
 明極和尚 「カァーッ(おまえ自身だ)」 …と、一喝で楠公さんに諭した、という内容のようです。


 この禅問答で楠公さん大いに悟り、今までのすべての迷いも吹き飛んで、戦さで負けて死ぬのが分かっていても堂々と勝負して使命を果たし、最後は弟の正季公と700騎からなる一族郎党と共に湊川の地へと散っていきました。
  
   (神戸の湊川神社の境内にある楠公さんの御一代記より : 2014.2.19 筆者撮影)



 そしてこの山口多聞中将の死にざまも、なにか神戸の湊川に散っていった大楠公、つまり楠木正成公を彷彿とさせるところがありますね。

 この山口多聞中将のご両親、自分の子に楠木正成公のご幼名である「多聞」という名前を名づけたことからしても、楠木正成公をたいへん尊敬していたのでしょうね。恐らく山口多聞自身も楠木正成公をたいへん尊敬し、楠公さんの生きざまもよく勉強もしていたのではなかったかと思われます。


 ちなみにこのミッドウェー海戦の最高責任者だった南雲忠一及び草鹿龍之介や源田実らは、作戦ミスを犯して大敗を帰したうえ、たくさんの尊い人命が失われたにもかかわらず、部下に言われるままのこのこと戦艦から脱出して自らは助かり、その後も全く責任を取ることもなくミッドウェーの海から逃げましたけれどもねぇ~。

  軍人としても最低な、武士道にも恥じる情けない奴らです。

 
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


信長・秀吉からが近世の日本の始まりということで、お話がだいぶん横道にそれてしまいましたが、
 


 ここの上に掲載いたしました写真が神社の参道案内ですが、お寺の弁財天堂は明治の初めごろに行われた神仏分離令の影響で、あやうくお取り壊しになるところを、当時の庶民の熱い大反対によりかろうじて廃寺とはならずに現在まで無事残りました。
 
 江戸時代までは竹生島に限らずどことも神仏習合だったので、お寺も神社も仲良く同居していたところがたくさんあったのですが、明治初頭の神仏分離令のやりすぎで、たくさんのお寺が神社と分離されてお寺が取り壊されて無くなったようです。

 

                      (竹生島 弁財天堂)

 ここの写真が日本三大弁天となる弁財天が祀られています弁財天堂です。
 本来は竹生島宝厳寺(ほうごんじ)というのだそうです。弘法大師が開いた真言宗の一派に所属しているそうです。
 この上の写真に写っていますお堂は、なんと物資の不足していた太平洋戦争中の1942年に、平安時代の様式で新築されたものだそうですよ。


 そして弁財天堂の下には、西国三十番札所となる観音堂があり千手観音が祀られているそうです。入口の唐門は国宝ですが、観音堂の中は残念ながら撮影禁止となっているため、写真は一枚もなく残念ながらご紹介はできないです。


                    (竹生島 観音堂唐門:国宝)


 そして、観音堂の東側にある渡廊(重要文化財)ですが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付きの木製の廊下です。これは竹生島を篤く信仰した豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「船廊下」と名づけられました。 ここの写真は撮り損ねましたのでウィキペディアから借用しました。


                    (竹生島 船廊下:重文)


 そして、下の最後の写真が都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)の竜神拝所から琵琶湖を見た写真です。私が撮影したここの写真もあるのですが、あいにく雨がふりそうなお天気だったため美しい眺めの琵琶湖が映えず、ここに掲載のお写真も拝借いたしました


              (竹生島 晴天の竜神拝所 : ウィキペディア)

 
 【関連情報URL】には、
    豊臣秀吉公の遺構ある竹生島というサイトをご案内しています。
    もっといろいろな写真がご紹介されていますので参照してみてくださいね。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


次回のブログは歴史ある京都銀閣寺を取り上げる予定です → 2012.1.1のブログにアップしました。

 その次はもう来年になりそうですが、
 カーナビの音楽機能とパソコンでの音楽編集を取り上げる予定です。
                    → これは2012年 2月28日にやっとアップしました。
Posted at 2011/12/24 01:14:35 | コメント(4) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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「我がコンテ号、325327kmにて初めてCVTオイルパンを開封(写真)。

CVTは3~4万kmでのフルード交換ぐらいしかメンテはしてませんでしたが、左端の円形のマグネットにヘドロがこびりついている以外はきれいでした。

当然、新品のストレーナ・マグネット・ガスケットへと交換。」
何シテル?   10/26 21:55
カクシカおじさんです。 ニックネームの由来は、我が愛馬コンテカスタムRSの別称、ダイハツの『カクカクシカジカ』と現在の年齢がおじさんになっているところから...
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