
聖徳太子と聞けば、皆様なにをイメージされるでしょうか?
昭和の人ならまず思い浮かぶのが、ここのタイトル画像のように、聖徳太子の肖像が載った1984年(昭和59年)まで発行されていました、旧1万円のお札ではないでしょうか。
ここの旧1万円札の画像は、フリー百貨辞典のウィキペディアに掲載されていたものをお借りしましたが、現在の福沢諭吉版よりも一回りだけ札が大きいものの、私個人的にはこの聖徳太子のお姿のお札のほうが威厳もあってより1万円らしく、こちらのほうがいまだに好きですね。
日本の経済も、昭和33年から発行されたこの聖徳太子像の1万円札とともに、オイルショックもなんとか克服しながら大いに発展していったものの、諭吉さんの時代になるとお札のパワーが落ちたのか、バルブも崩壊し日本国家全体がデフレ経済から脱却できないまま今日まで続いています。
私はここで別に福沢諭吉の批判をするのが目的ではないのですが、両者の残した業績をかんがみると、福沢諭吉ファンには申し訳ないですが、もう圧倒的に聖徳太子のほうが上ですね。まったくといっていいほど違いすぎています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで先日、あるところでちょっと小耳にはさんだのですが、諸外国では自国の通貨流通量がだいたいGDP=国内総生産額の3~5倍程度は、自国通貨を流通させているらしいのです。
ところが日本は、政府でなく日銀が貨幣流通量をにぎっており、しかもこの日銀の総裁というのが順送り人事みたいな感じで選ばれ、自分の代で責任を取りたくないのか名誉を傷つけたくないのか、ずっとこのかたデフレが続いているのに、GDPの1.6倍程度しかない貨幣流通量を全く変えようとしないのです。
まあ保守的で、事なかれ主義で、しかもお役人体質そのものの日銀が、いったい何を考えているのか庶民には全く分かりませんけど、これが日本がデフレを克服できない隠れた本当の原因なんだ、ということを先日あるところで聞きました。で、その後ネットでも徘徊してみると同じような論説をいくつも見かけました。
そしてあくまでうわさの範疇ですが、日銀のお官僚は財務省の言いなりにはなりたくないといいますかエリート意識というのか、お互いに官僚の派閥意識がある?ようなのです。
そのひとつにはたすきがけ人事といわれている日銀総裁が、日銀出身者と旧大蔵省(現財務省)の事務次官との間で交互に日銀総裁に就任していることもあげられるでしょう。政治家(与党)連中も、このような馬鹿げた慣行をコントロールする力もないのか、全く情けない限りですね。
そして本当に両者のエリート意識が対立しているのが金融緩和をしない原因のひとつなら、東大法学部なんてもう完全にぶっ潰したほうが、ほかの省庁も含め日本のためにも良いです。
結局バブル発生も、その崩壊も、
直接的には!日銀の金利政策が招いたといえるもので、その功罪は非常に大きいといえるのではないでしょうか。日本にしかないあの馬鹿げた日銀法もとっとと廃止し、日銀も財務省も一度完全に解体したほうがいいです。
エリート意識丸出しで自己保身ばかりで全く役に立たない日銀総裁連中たちに対し、聖徳太子は推古天皇の摂政で、今で言う総理大臣のような最高の立場でしたが、あの時代にも関わらず残された言動(冠位十二階の制度や十七条の憲法ほか)を見ると、本当に庶民の立場に立った腰が低いお人でしたね。
また国を預かる政治家たちも、明治維新の頃の政治家は立派な人が多かったし、明治天皇様ご自身も国の行く末を思い、庶民を思い、とても聡明で立派だったけど、今の政治家は小選挙区制度の弊害も出ているのか、民主党や自民党の言動を見れば分かるように、党利党略ばかりを追求し、一方の官僚は自らの保身ばかりを考えるような非常にレベルが低い人が本当に多いです。
これこそが財界も含め、現代の日本の沈滞している真の原因でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で、今現在(2012年初頭)、日本の政界では野田首相が消費税増税をひんぱんに声高に叫んでいますが (ギリシャのこともあるだろうが、これは財務官僚の言いなり? なのでしょう)、たとえ消費税を10%に上げても、現在はデフレ不況なので、庶民感覚から見るとさらに物が売れなくなり、思ったほど税収は増えないのではないか…と庶民感覚から見れば普通に思いますよね。
これは近い過去に事例もあり、自民党政権の時の橋本龍太郎総理の時に、最悪のタイミング(1997年)で消費税を3%から5%に引き上げて国民からお金を吸い上げた結果、かえって大不況になりデフレ経済となって、国民の皆様が苦しんだだけで正直効果はなかったです。
その証拠に1997年度には消費税の2%アップによる収入増4兆円に対し、2年後の1999年度になると主にデフレ不況により、法人税+所得税の税収の減収が6兆5千億円にものぼり、財政もまったく改善せずかえって悪化しました。
それよりも戦前の高橋是清大蔵大臣が行ったように、デフレ経済下では一時的に通貨発行量を引き上げて、それを活用した政策をおこなうほうが、長期デフレ退治にはよっぽど効果が高いはずではないでしょうか。
特に緊急を要する東北の復興はこれでやればいいのにと思うのに、政府・民主党は党利党略ばかりで本当に腹が立ちますが全くのなしのつぶてですね。現在ではデフレ経済下なので不景気で税収自体も少なく、もしこのままではどこかでまた災害が起これば、そのたびに予算がなく増税を繰り返すということにもなるでしょう。
(高橋是清大蔵大臣 : ウィキペディア)
で、いきなり冒頭から今を悩ませているデフレ経済のお話だったのですが、もし聖徳太子が現代に生きていたなら、この苦境の経済をどう立て直すのだろう、とつい考えてしまいました。
恐らく、まず誠意を尽くしてこの状況を説明し政策を変えるよう懸命に説得するものと思いますが、もしそれでもダメなら、行動を起こさない事なかれ主義で役立たずの日銀総裁を交代させ、それ相応にふさわしい人を見つけて日銀の総裁にし、日本のお国のために貨幣流通量を増やす方向に持っていくのだろうと思います。
私が聞いたお話では(ウィキペディアの高橋是清さんのページにも記載されていますが)、戦前にこのようなデフレ状態になったときに、日露戦争の戦費調達で一躍有名になった高橋是清さんが、ちょうど大蔵大臣に就任して貨幣流通量を増やし、このデフレを克服したというものでした。
そしてたいへん優秀だった高橋是清さんでしたが、通貨大量発行によりデフレ経済を大方克服したあと、今度は当然のことながらインフレの傾向が見られたため、当然の処置として通貨発行量を逆に引き締めにかかりました。
ところがこれにより予算を削減された陸軍の、国の大きな経済が理解できない青年将校たちに恨まれてしまい、陸軍内部の争いに発するニ・ニ六事件に巻き込まれまして、お気の毒にも暗殺されてしまうのですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【2013.3.30 追記】
経済雑誌 WEDGE(ウェッジ)の2013年 3月号 60~61ページに渡って 「日銀総裁はなぜもっと早く辞任しなかった?」 という掲載記事が載っていまして、実に面白いことが書かれていました。その記事自体は2ページに渡って早稲田大学教授の原田泰さんという方が書かれているのですが、要約すると、
地方の地銀のなかには、銀行資産の大半がデフレ期に購入した長期の日本国債??というところがあるらしく、もし景気が良くなってデフレを脱却し金利も上昇すれば、デフレ経済に苦しむ大多数の国民は助かるが、長期の国債をたくさん保有している地銀は大損害をこうむるのは必定で、そうならないよう金融を引き締め続けて、絶対に日本経済がインフレにならないようにしている…といった内容でした。
私はこれらの専門家ではないのでこの記事の真偽のほどは判断できませんが、この論評のとおり確かに日銀は決して金融の専門家などではなく、
「銀行の利害の代理人」 という指摘は正しいでしょうね。
そして記事では、さらにあの福島の原発事故のことも取り上げていましたが、日本の場合「○○の専門家」といった場合、業界の利害の代理人という場合が非常に多い、という指摘は的を得ていると思います。
20年ほども続いているこのデフレ経済、国民不在のこのおかしな日銀の金融政策について、真剣に考えた総理(現 安倍総理)がようやく現れて、この日銀(理論)のまやかしを見抜き、やっとこの白川総裁を辞任させ(実質罷免だが)、経済の舵切りの方向転換がなされました。
…と、この論評記事はこう結んでいました。
ここからはあくまで私個人的な主張ですが、
だいたい通貨量のコントロールを政府が管理していない国なんてあるでしょうか?
まあ戦前の軍国主義一色だった時の日本や、無秩序に通貨を乱発し経済危機を招いたギリシャ(GDPの5倍ほども通貨を発行していたらしい) などの国ならばいざ知らず、国民不在のこんな日銀なんて全くもって無用の長物で、役人のポストだけが増えてやつらを養っているだけなので、こんな無用な長物はとっとと潰してしまったほうが良いです。
頭脳も明晰、かつ現実界にも強かった聖徳太子とは違い、こんな学校頭の人間ばかりで実社会には全く役立たない、自己保身と事なかれ主義ばかりの日銀の幹部連中なんて、総裁だけでなく一人残らず全員罷免すべき!でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまでは聖徳太子像の印刷された一万円札のお話から、
現在の日本のデフレ経済へつながるお話でしたが、
もともと今回のブログは、日本の礎を築いた聖徳太子が残したものの一つに、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺がありますが、先日の2012.4.16の日にそこを訪ねたので、合わせて日本国家の礎を築いた聖徳太子について取り上げようと思います。
(桜が咲いていた西院伽藍と五重塔 : 筆者撮影)
(西院伽藍の大講堂 : ウィキペディアより)
先ほど、日本のデフレ経済が深刻で、しかも動かない日銀のせいで、より状況を深刻にしている…という話でしたが、実は聖徳太子が生きていた時代(574年生~622年没)も、学校の歴史の授業ではまず教えないが、どうやら今と変わらない深刻な世の中の状況だったようです。
(4世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)
(6世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)
時は西暦554年、当時の朝鮮半島は一触触発状態だったようで、日本と仲が良かった百済(くだら)が新羅(しらぎ)に攻められて聖明王が敗死。その8年後の562年には、任那(みまな)全土が新羅に奪われ任那日本府も滅亡しました。
それまで持っていた朝鮮半島の拠点を失った日本は、新羅が攻めてくるかもしれない危機感もあったのですが、遣隋使という使節を派遣することにより、巨大国家の隋と対等な国家外交を実現するとともに、合わせて隋の情勢も探っていましたが、その隋も二代目の相次ぐ失政(追記 : 主な原因は高句麗侵攻に失敗)により国力を落とし、ついに618年に李 淵(り えん)が唐を建国します。
(7世紀後半の半島勢力図 : ウィキペディアより)
それから少し後の半世紀後の660年、強大な国力をつけた唐が新羅に加担し連合軍として、まず百済を攻めてこれを滅ぼしました。これはお隣の強国 高句麗よりも攻撃しやすかったので先に手をつけた、ということでしょうか。
それから8年後の668年、唐と新羅は長らく敵対していた高句麗を滅ぼしていますね。
またその前後の663年には、有名な白村江(はくすきのえ)の戦いで、日本側の作戦の不手際?なのか、とにかくも唐・新羅連合軍に倭国(日本)は大敗して引き上げることになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【2017.10.8 追記】
つい最近まで、最も弱小だった新羅が朝鮮半島を統一できた理由、及び日本が白村江の戦いで負けた理由が私には分かりませんでしたが、中国からの帰化人であられる石平さんが 「韓民族こそ歴史の加害者である」 という本で、日本人になりかわり見事にこれらを解明してくれました。
日本人の歴史学者やマスゴミは、自虐史観に毒されているバカな学者ばかりで、このような内容の本など出版されることもなく本当に腹立たしいが、百済の将軍に娘を殺害された新羅皇族の金春秋、後の武烈王が、当時の大国であった唐にさかんに働きかけ、とうとう唐の軍隊を引っ張り出して百済を滅ぼしてしまいます。
つまりこの時から恐るべき半島民族の事大主義が始まったわけです。
ここで滅ぼされてしまった百済国ですが、当時日本に人質に取られていた百済の王子である
扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)を帰国させて王とし、さらに大軍の日本軍まで応援させてやったのに、このアホな王子、やはり半島人の血を引いているのか、せっかく百済復興にと立ち上がった同じ皇室の
鬼室 福信(きしつ ふくしん)を、内部の内輪もめか妬みが原因かは知らぬが、何故か殺害してしまいます。
これがもとで百済軍は総崩れとなり、なんとこの扶余豊璋はわずかな部下と共になんと高句麗国内へと逃亡したようです。そして残された日本軍が唐軍にやられて悲惨な結果になったのが白村江の戦いの真相のようです。
左翼史観に固まった日本の文科省や教科書会社はこれらの真実をフタしているが、現代まで続く半島民族の節操のなさや二枚舌外交は、すでにこの時から存在していたようです。
その後700年も続いていた高句麗末期に出た、あの有名な
淵蓋蘇文(えん がいそぶん、ヨンゲソムン)は、見事侵略してきた唐軍を何度も撃退したものの、残された3人の息子が仲間割れし、追い出された長男がなんと敵軍の唐に降伏して、しかもなんと逆に高句麗侵攻に買ってでて、とうとう700年も続いた高句麗が滅ぼされてしまいました。
自己保身のためには自らの国を自ら滅ぼすという、日本人の感覚からは信じられないようなことをやりのけたこの人物=淵男建、最悪な人物です。
半島国家で自主独立を貫いた強力な軍事国家だった高句麗でしたが、滅んだことにより防波堤役を果たしていた高句麗はなくなったので、新羅は大陸国家の侵略をモロに受けることになりました。その高句麗の遺民たちは高麗川とか高麗神社とかありますように、主に日本の関東地区へと逃れて鎌倉武士へとつながっていきますね。
まあ半島人は自ら防波堤を壊すというようなことをしてアホと言えば非常にアホですが、これは現代の韓国と北朝鮮の外交政策も同様ですね。
追記はここまで。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただネットを徘徊していますと、次のような記事を見つけました。
「唐」・「新羅」との戦いについて
リンク先はこちら →
http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body238.html
このリンク先の内容を要約すれば、北九州の豪族の王? が敵方に囚われたので、これを救出すべく主に九州の軍勢が参加したのが、この白村江の戦いだというのです。
私は歴史学者ではないので詳細なことは分からないけれど、この白村江の敗北の衝撃は大きかったらしく、当時の天皇、つまり天智天皇(蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子)は、唐・新羅軍が日本に攻めてこないよう、聖徳太子の遺志を受け継ぎ防備を固め国家の体制作りを急ぐことになります。
この頃の大陸の歴史の興亡(五胡十六国とその後の時代)についてはかなり複雑なようで、韓半島の三国、高句麗・百済・新羅と、大陸側にある鮮卑族の後燕、また北魏、隋、その後の唐などの興亡が、少なからず我が国の政治体制を変革せざろう得ない状況になっていったように思えます。
そしてそのすぐ後に起こった白村江の戦いに倭国と百済連合は負けたことにより、とにかく攻めてきた時にこれを防ぐことを念頭に、国防を第一とした日本初の中央集権国家へと脱皮が図られました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
では少し前の日本の国内はというと、中央では蘇我氏を始めとして物部氏とかの豪族たちが派閥争い・権力闘争をしている状態のようでした。そういうような日本のお隣の大陸が騒がしいときに、女帝・推古(すいこ)天皇と厩戸(うまやど)の王子と呼ばれた聖徳太子が中央政界に登場してきます。
女帝と言えば、三韓征伐で有名な神功皇后(じんぐうこうごう:在位 201-269年)も、昔は15代天皇として数えられていて、応神天皇(おうじんてんのう)の母であり、実質初の女性天皇といえそうです。魏志倭人伝の卑弥呼は、実はこの神功皇后のことを指しているとも言われていますね。
今年(2012年)は古事記編纂1300年目ということで古事記が脚光を浴びていますが、その古事記や日本書紀には、
「九州で反乱した熊襲の背後には、新羅があるからそれをたたけ」
という神託が神功皇后に降りたが、その夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、それを全く? 信じなかったために、そのまま即死したと記述されています。
それで夫を亡くしたあとの神功皇后は、軍の士気が下がってはいけないからと、後の応神天皇を身ごもっていたのを皆に隠したまま実は死んだことにし、男装して三韓征伐(さんかんせいばつ)に出かけ、強烈な風雨を伴って新羅に行き戦わずして新羅を圧倒し勝利して凱旋します。
(三韓征伐に赴く神功皇后 / 1880年 月岡芳年による版画・ウィキペディア)
古事記によると、その後無事生まれた神功皇后のお子様である品陀和気命(ほむだわけのみこと)、後の応神天皇になるお子様は無事成長し、いよいよ天皇に即位する段階になって、過去に死んでいるとされたので
「穢れている(けがれている)」 との神託がおり、天皇即位を拒まれます。
そうして母の神功皇后、福井県の敦賀にある気比(けひ)神宮にて宣りなおし(のりなおし)て神より許され、第15代天皇として息子の応神天皇が即位することになります。
(神宮皇后が穢れを祓い宣りなおしたとされる、福井県敦賀にある気比神宮:ウィキペディア)
神に懺悔し反省して許していただく、というおおらかで咀嚼力のある
「宣りなおしの精神」 は、もうこの頃には日本人の精神文化の中にしっかりと根付いていたようで、中国大陸や朝鮮半島の王朝のようにいつの時代も絶えず皆殺し、というような残虐極まる行為は日本の歴史ではほとんどありませんね。
この一点だけを見ても、
どちらがより軍国主義なのか分かろうというものです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そしてそれから約350年後、また似たような状況のときに、今度は女帝の推古天皇(すいこてんのう)が即位し、その参謀として抜擢したのが甥にあたる聖徳太子です。
もちろん聖徳太子自らが天皇になることも出来たのかもしれませんが、あえて影から補佐する摂政という道を選んだのだと思います。
(女帝 推古天皇:在位 593-628年) (摂政 聖徳太子:在官 593-622年)
で、不穏な大陸の動きに合わせ、国防を充実させるべく国家体制への整備を急いでいくわけですが、その中で門閥にとらわれず優秀な人材を採用するべく冠位十二階制度を作ったり、
派閥争いに明け暮れている貴族たちに言い聞かせるように「和をもって尊しとなす」というような、十七条憲法を作ったりして、貴族の門閥政治から中央集権国家への脱皮を図ろうとします。
でも結局、聖徳太子のやろうとした改革は太子の生存中には完成せず、その次の世代になる中大兄皇子、後の天智天皇(てんち てんのう)に聖徳太子の遺志は引き継がれて、大化の改新により、とりあえず太子の遺志はほぼ完成したようです。
また聖徳太子は自分の子や孫が自ら門閥政治をしないよう、
自分のお墓に
わざわざ子孫が断絶するような! 墓相の墓 を建てています。
(聖徳太子が祭られている、いや聖徳太子の墓がある叡福寺 磯長の門前)
未だ参詣者が絶えない、磯長(しなが)にある聖徳太子の御廟(ごびょう)
(大阪府南河内郡太子町 叡福寺にある聖徳太子の御廟所 : 3枚とも筆者撮影)
その子孫が断絶する墓相の通り、のちに蘇我入鹿は聖徳太子の子供であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲って皆殺しにしようとしますね。入鹿の軍に追い詰められた山背大兄王、いったんは聖徳太子が毘沙門天像を自ら彫り、伽藍を築いたとされる信貴山(しぎさん)のある生駒山に無事逃げ延びました。
(山背大兄王がいったんは逃げたとされる信貴山 : ウィキペディアより)
(創建当時の呼び名は分からないが、聖徳太子が創建したとされる朝護孫子寺:ウィキペディア)
けれどもここからがなんとも不思議なのですが、
父の聖徳太子の門閥政治をしないように、という遺志を尊重したのか、
はたまた父 聖徳太子から夢のお告げでもあったのか、
お父さんの、聖徳太子が自ら建てた斑鳩寺、つまり法隆寺になぜか戻り、そして周りの関係ない人々を戦に巻き込みたくない…と思ったのか、あえて入鹿と一戦を交えることさえなく、一族郎党みな自決する道を選びまして、聖徳太子の直系(上宮王家)は、家系断絶の墓相の通りに! ここで途絶えてしまうことになります。
日本書紀によると、蘇我入鹿の父であった蘇我蝦夷(そがのえみし)は、「これはやりすぎだ」と嘆いたと伝えています。 そして中大兄皇子、宮中にて横暴きわまる蘇我入鹿を殺害し、それを見た父の蝦夷は自らの邸に火をつけて自害して果てたことにより、これでようやく門閥政治は終わりを告げました。
蘇我入鹿のおじいさんにあたる蘇我馬子も、自分の思い通りにならない天皇を殺害までしていたので、蘇我一族は対立していた物部守屋を滅ぼしたあと、あまりにも横暴すぎた報いを受けたといえばそれまでですが、お隣の大陸が隋から唐へと動乱が続いているときに、内輪もめなどしている場合ではなかったはずですね。
それと私からあえてひとこと、
聖徳太子について今回いろいろ調べているとよく目に付いたのが、梅原猛さんが 「聖徳太子の呪い…うんぬんかんぬん」 なんて、本などで言っていることです。
日本の礎を築いた聖徳太子、
神道・仏教・儒教を深く修め、自ら天皇にもなれたのにもかかわらずその道はあえて推古天皇(女帝)に譲り、
しかも自らの家系を断絶させてまで、日本の国と政治と国民の行く末を思いはかった聖徳太子、
どう考えても、決して個人的な恨みなんてするような度量の狭いお方ではないですよね。
「恨み・呪い…」うんぬんかんぬんなどと言っている梅原猛、こういっちゃなんですが、肩書きだけはとても立派なのかもしれないが、全くもって読みが浅いです。
これでよく哲学者だと世間から評価されているのには本当に笑っちゃいますが、
至誠 という言葉の意味が全く分からないのでしょうね、いや自ら命を投げ出すようなことも無かったのでしょう、きっと。
明治維新の原動力となった幕末の吉田松陰のほうがよほど立派ですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、その後、強大になった唐の情勢を絶えず探るべく、遣隋使にかわり遣唐使が派遣されることになります。大陸文化の輸入というより、情報収集の側面が強かったように言われています。
(復元された遣唐使 : 上海万博・ウィキペディアより)
またこの当時、新たに建国された「渤海国(ぼっかいこく:698年~926年)」との通商も、日本への渤海からの朝貢という形で行われたらしいです(35回も日本へ来たらしい)。そしてこれらも大陸・半島情勢の情報交換の側面が強かったようです(豊田隆雄著 本当は怖ろしい韓国の歴史より)。

(8~9世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)
そして時は進み、755~763年に唐の国で起こった安史の乱(あんしのらん)で、唐の国力は大いに落ちて、もう日本への侵略はないと確信した菅原道真公(845生~903年没)によって、894年に遣唐使は廃止され、さらに大幅な武装解除も行われて日本の国家財政は大幅に好転しました。
(宇多法皇に別れを告げる道真公 : 北野天神縁起絵巻より)
こののちに天神となる、優秀だった道真公をねたんだのが時の左大臣藤原時平で、要は自分よりはるかに優秀だった菅原道真公を、出世のジャマだといって讒言し太宰府という僻地へと左遷させてしまうのですね。実に鼻持ちならない嫌なやつですが、ここでも聖徳太子の思いはなかなか通じなかったですね。
(930年7月24日 京都御所の清涼殿を襲う雷 : 北野天神縁起絵巻より)
そしてその藤原時平、やはりやってきた行いも心持も良くなかったためなのか、39歳という若さであの世へといくことになります。
また菅原道真公を最終的に左遷させた醍醐天皇へ、自らの娘を嫁がせて生まれた男子はことごとく病死してしまい、時平系統の藤原北家は力を失うことになります。しかも醍醐天皇自身もこの清涼殿落雷事件で体調を崩して三ヵ月後に崩御してしまいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから聖徳太子は政治だけではなしに、当時神道しかなかった?倭国(日本)に、仏教を取り入れ民衆の強化も図ろうとします。現代でいうなら教育事業みたいなものです。
仏教伝来は公式には538年とも552年ともいわれておりますが、教理経論がない神道(しんとう)に対し、仏教は膨大な教え=経典がありました。 そのもたらされた膨大な仏教経典の中から、日本人の特性と文化に合うものとして聖徳太子は3つだけ選びました。
それは法華経(ほけきょう)と維摩経(ゆいまきょう)と勝鬘経(しょうまんきょう)です。そして、その選んだ三つのお経の解説書まで後に自ら書いていますが、それが有名な三経義疏(さんぎょうぎしょ)です。
法華経といえば、どうもあの「南無妙法蓮華経」を唱えた鎌倉時代の僧、強烈な日蓮を連想しがちですが、お経自体は世の中を良くしていこう、といった内容が書かれているようです。ちなみに観音経もこの法華経の中に含まれていますね(普門品第二十五)。
次に勝鬘経(しょうまんきょう)は、勝鬘夫人という出家していなくて、在家の女性の方の仏道修行への誓いというような内容が書かれているみたいです。昔は特に仏教では女性は卑しいものとして見る事が多かったが(女人禁制など)、これに真っ向から異議をとなえたのが聖徳太子だということでしょう。
そして私が一番面白く感じまた笑ってしまうのが、残るこの維摩経(ゆいまきょう)というお経ですね。
今回訪ねた最初期の頃の仏教寺院といえる法隆寺は、
元は用明天皇が自らの病気平癒のためのお寺ということで作り始めたのだけど、用明天皇はほどなくお亡くなりになったので、その遺志を推古天皇と聖徳太子が受け継いで、当時あった飛鳥の都からちょうど神の位(天位)とされる北西の位置にあたる斑鳩の地にお寺を作ったのが、今に残る世界最古の木造建築「法隆寺」です。
まあ斑鳩の地は、現代で言うパワースポットの地にあたるとでもいいましょうか。
そしてこの素晴らしい仏教寺院の法隆寺が建てられたことにより、その後日本の各地に大なり小なりはあるけれど、仏教寺院が建立され飛鳥文化が現代にまで末永く残っていくことになります。
(法隆寺の五重塔・筆者撮影 / それぞれの正面入口には仏教にちなんだ彫り物がある)
その五重塔の4つの面のそれぞれ正面入口をみると、お釈迦様や仏教にちなんだ、立体的な彫り物があるのですが、そのうちの東側の入口には維摩経に書かれていますが、文殊菩薩が維摩居士の邸宅にお見舞いに行き、そして二人で問答を交わしているところが、わざわざ粘土のような彫り物(塑造:そぞう)として残されています。
その聖徳太子も高く評価したという維摩経(ゆいまきょう)の中身というのが、
あるところに維摩という、出家しないで在家のまま深く仏道に帰依する者=居士(こじ)の方がおられて、この維摩居士、大金持ちで広大な邸宅を持ち召使もたくさん、そして色街にも繰り出すというような人物なのですが、悟りの深さはお釈迦様並で、したがってお釈迦様の十大弟子は、有無を言うことが出来ないぐらいに、ことごとく維摩に論破されやられてしまうのですね。
お経と言えば、読めないような漢文がえんえんと続く面白くないイメージですが、筆者がネットを徘徊して見つけたのが、下記の【関連情報URL】 にご案内している維摩経の現代の日本語訳のホームページで、
こちらは内容がちょっと脚色しすぎですが、現代風にアレンジされた維摩経の口語訳が記載されていまして、普通の物語として楽しみながら読むことが出来のでぜひおすすめです。
その維摩さん、
あるとき仮病を使って説法をしようと考え、病気で寝込んでいるということにしました。
そうするとたくさんの方がお見舞いに来てくれまして、そこで説法をしたのですが、それをお釈迦様が察知いたしまして、自分の十大弟子を含む500人の門徒に、維摩さんのところへお見舞いに行くよう頼むのですが、みんな以前に維摩にこっぴどくやられていたので、難くせをつけて誰一人として維摩のところへお見舞いに行こうとはしません。
そこで最後にお釈迦様のお願いを引き受けたのが、
最も知恵が深いといわれた文殊(もんじゅ)菩薩でした。
文殊菩薩 対 維摩との論争ということでこれは見ものだと、あれほど維摩のところへ行くのを嫌がっていたお釈迦様の大勢の弟子たちは、文殊菩薩が維摩邸へお見舞いに行くときに、後ろからゾロゾロとついていくことになります。
その文殊菩薩と維摩との二人の会話の内容は非常に長いので、下記の 【関連情報URL】 をクリックしてじっくり読んでいただくとして、この維摩経の中身はかなり深遠で、現代語訳を読んでいてもけっこう考えさせるところがありますよ。
出家せず在家でどうやって深く悟っていくのか、はたまた仏教の真実の教えはこれだと、いろいろな例えをあげて維摩さん熱く語っておられますが、最後には「維摩の真実の教えはこれだ!」といって、もう言葉を超え無言の世界への問答へと突き進んでいきます。
その維摩経の中身ですが、読めばなにかひとつのおとぎ話のような感じではございますが、ひょっとするとお釈迦様が生きていた時代のインドに、維摩のモデルになるような人物がいたのかもしれませんね~。
ちなみに五重塔の東面にあります、維摩と文殊菩薩との問答の場面を表現している下写真の塑造は撮影禁止だったため、とあるページから画像を拝借しました。
(法隆寺五重塔の東面にある維摩居士と文殊菩薩との問答の場面 : とあるネットより)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で結局、聖徳太子は特に外国からの国防の危機を乗り切るために中央集権的な国家を構築して、国力の増大と主に防衛体制の強化を図ろうとし、
今まで日本(当時は倭国)には、古来からの神道しかなかったのを新たに仏教も取り入れたうえで、さらに神道との融和を図り(神仏習合-これは江戸末期まで続く)、仏教の教えを通して末端の人まで教育していこうとし、
冠位十二階制度や十七条憲法を通して、身分にこだわらず優れた人材を登用しようとしたり、儒教の精神を持って人としての道(特に為政者)を示し、蘇我氏みたいな強欲・強権的な貴族を諭そうとしたりもしました。
特に微妙な宗教の問題は、聖徳太子がうまく神道と仏教と儒教との融和を図り、教えがなかった神道に仏教の教えがもたらされました。
そしてうまく神儒仏の融和をおこなったおかげで、同じキリスト教国でありながら、カトリックとプロテスタントが強烈に何百年も宗教戦争をしている、というようなことは日本では起こらずに済みました。
ゆえに聖徳太子が日本仏教の祖とあがめられている由縁ですね。
またその後、達磨大師が始めたとされるインド禅(禅宗)が中国にもたらされ、「本来無一物」で有名な六祖慧能(えのう)禅師によって生活に密着した中国禅(南禅)となっていきます。
それが鎌倉期に日本にもたらされ、その次の時代の室町期になると日本の禅宗となって開花し、お茶・お華・歌舞伎・田楽・書道・書院造りなどと禅宗とが結びついていき、以前の銀閣寺のブログでも触れましたように、さらに独自の日本文化が花開いていくことになります。
(日本独自の文化が花開いた室町期中期に建てられた京都 銀閣寺 : 筆者撮影)
(ウィキペディアに掲載されている雪を頂いた銀閣寺)

(筆者が撮影した雪景色の銀閣寺 : 2017.1.16撮影)
(和風建築を代表する書斎 この写真は東求堂の同仁斎 : 筆者所有の絵葉書より)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
法隆寺には現在、五重塔で有名な西院伽藍と、それから大宝蔵院、そして東院伽藍(とういんがらん)の3つからなっていますが、下3枚の写真は聖徳太子自身を祀っている東院伽藍からのものです。
前にも触れましたが、聖徳太子の跡継ぎだった山背大兄王の上宮王家(じょうぐうおうけ)の皆様が蘇我入鹿に攻められて、この斑鳩の地で自決して聖徳太子の直系が途絶えた後、ここ斑鳩宮・法隆寺は荒れ果てたままだったそうですが、約100年後に僧・行信が東院の再興に尽力したそうです。
現存する八角形の夢殿の原型は、聖徳太子の頃にはすでに建てられていたのでしょうね、恐らく。
(法隆寺 東院大伽藍の四脚門 : 筆者撮影)

(法隆寺 夢殿外観 : 2014.7.28 筆者撮影)
1884(明治17)年、岡倉天心とフェノロサの2人が、自分たちはたたりを受けてもいいからと、1000年? 以上も白い布で巻かれていた秘仏の救世観音像を、布をはがして世に現したことはあまりにも有名です。
現在でも聖徳太子像だといわれているこの救世観音は秘仏扱いで、年2回の春と秋に期間を決めて公開しています。筆者ももちろん今回初めて拝見しましたが、残念ながら個別の写真撮影は禁止となっているので、ここに掲載するにあたりとあるネットにあった画像をお借りしました。
法隆寺が発行(編集は小学館)し、ご当地で販売している本「法隆寺」を買いますと、この中にはたくさんの秘仏の写真が鮮明な画像で記載されていますので、ご興味のある方は法隆寺境内でお求めになってくださいね。
(法隆寺夢殿 救世観音像 : とあるネットより)