松島観光を終えた6/11土曜日の夕刻、おひさまも沈んだので、お風呂と夕食を済ませ帰宅の途に就くこととしました。
もう一日あれば青森まで遠征したのだけど、休みは3連休しか取れなかったし、以前軽二輪バイクで青森ツーリングをしたので、残念だったけど今回は見送りました。
3日目は帰宅を兼ね、ちょっと寄り道をして会津磐梯山を見に磐梯山ゴールドラインに入って、裏磐梯を見たあと桧原湖に少しの間だけ寄り、表磐梯に回って磐梯山を一周しました。
上のタイトルの写真は桧原湖畔(ひばらこ)、
裏磐梯の写真はいいのが撮れなかったので表磐梯のものを下に載せました。

(表磐梯 : 2011.6.12筆者撮影)
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ところで磐梯山のそびえる会津といえば、真っ先に浮かぶのが保科正之公と野口英世さんではないでしょうか。
で、保科正之公は徳川三代将軍家光の異母弟で、お江の方の嫉妬を恐れて?武田-保科家へと預けられ養子として育てられます。
近年、大河ドラマでお江の方が取り上げられたので言うのはいささかはばかれますが、お江の方は次男の国松をとても溺愛したようで甘やかされて育てられたためでしょうか、幼名は国松ですが後の徳川忠長は、晩年には自分の家臣を籠の中から突き刺して殺してしまうなどご乱行が目立ちすぎまして、もともと家光と折り合いが悪かったためなのか、最後には自害させられることになりますね。
もし忠長が聡明なら源義経の失敗、つまり後白河法皇の策略にはまり兄の頼朝に無断で高い官位を授かって、頼朝の怒りを買った失敗の二の舞を踏むことはなかったでしょう。
で、他家で育てられ苦労したこの保科正之公のほうが、残した業績を見ればよほど人間として立派なのではないでしょうか。
そういえば、先に訪問したここ会津のお隣の米沢にも、上杉鷹山(うえすぎようざん)公という、こちらも特筆に価するすばらしい大名もおられましたね。

(保科正之公 : ウィキペディア)

(上杉鷹山公 : ウィキペディア)
特に1657年(明暦3年)の明暦の大火で江戸の町が丸焼けになった時に江戸の庶民を救い、莫大な費用のかかる江戸天守閣をあえて再建せず、江戸の町の再建に全力を尽くしたことは、あの時代の常識から考えれば特筆に価しますよね。
江戸幕府を開いた徳川家康は自らの政権の維持のため、財力のある大名には普請事業を盛んにやらせ、庶民には身分制度まで設けて大名や庶民の財力を削ぐことばかりを考えていました。
なので徳川265年の世は、泰平の世が続くようになっても 「大井川に橋はまかりならぬ」 …とかいうように橋を架ける努力をしなかったため、特にトンネルと橋梁の土木技術がほとんど発展しなかったのと、産業革命を終えて蒸気機関が発達し驚異の軍事力・輸送力を持った欧米諸国から、日本は完全に取り残されてしまいました。
それが幕末への危機とつながっていきます。
聡明だった(と、私は思っている)徳川慶喜の江戸城の無血開城により、国内で反幕派と争わなかったことが、諸外国が日本に付け入る隙を与えずに済み、明治の世になってようやく開国し急速に世の中が発展して、江戸期の遅れを取り戻し日本海海戦とかの大勝利により、ロシアの植民地になることだけはかろうじて防げました。
その会津が誇る偉大で現代の政治家よりよほど立派な政治家だった保科正之公を祀った神社が、磐梯山のふもとに建っている土津(はにつ)神社です。
もちろんここも当然訪れたのですけど、あいにく写真は撮っていなかったので下2枚の掲載写真は、はなゆみさんのホームページから、私的利用ということでお借りいたしました。

(保科正之公を祀る土津神社入口 : はなゆみさんのホームページより)

(土津神社本殿 : はなゆみさんのホームページより)
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その次の会津の偉人と言えば野口英世さんではないでしょか。1876(明治9)年に生まれ~1928(昭和3)年、51歳にてアフリカのガーナにて没しています。

(野口英世博士 : ウィキペディア)
幼少に左手を火傷して不自由になったため勉学の道に入りまして、いくつかの病気の病原体を発見していくわけですが、晩年には黄熱病の研究に明け暮れ、自ら黄熱病にかかりその地で亡くなります。
もちろん詳しい経歴はすでにいろいろなところで書かれているので、詳しいことはそちらで見ていただくとして、一つだけ言えることは第二次大戦前までの国際社会は白人至上主義で、この野口英世さんはノーベル賞がもらえなかったですね。
もちろん名誉のために仕事をしたわけではないでしょうし、ロックフェラー財団に属していたとかいろいろ言われてもいますが、今もそうですけどこういう地味な研究に今も昔も日本政府はあまりお金を投じないから、当時アメリカに行ったのは仕方なかったのかもしれません。
現代はこれだけ世界中に旅行者が出かけていると言うのに、日本には24時間体制で世界中の病原体の血清を揃えて管理しているところがない、というお話を回虫研究で有名な藤田紘一郎さんが嘆いていたのを思い出しました。

(黄熱病のウイルス : ウィキペディア)
結局野口英世さん、細菌とウイルスとを読み間違えてしまい、志半ばで黄熱病の研究により自らの命を失ってしまうわけですが、ウイルスという知識がほとんどなかった当時の常識と、現代のように電子顕微鏡など豊富な機材がそろっている時代でもなかったので、ウイルスを読み間違えたのも仕方なかった面があるのでしょう。
その失敗をマックス・タイラーという人が生かして、黄熱病のウイルスを発見につながっていったようです。
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ともあれ、猪苗代湖と会津磐梯山を一通り回って、これから帰途の途につくわけですが、
ここから近畿地区まで普通に取ると思われるルート、
磐越道→北陸道→名神高速→中国道というルートは、過去バイクでの青森ツーリングと、この旅行以前にも一度東北に所用で行った際に走ったルートなので、また走ったのでは正直面白くないです。
よって帰宅ルートは高速道路地図とにらめっこし、今まで走ったことがないルートが多く含まれる、
磐越道→東北道→北関東道→関越道→上信越道→長野道→中央道→名神高速→中国道という風に、ジャンクションをたくさん通り、かつあえて複雑な帰宅ルートを選択しました。
Posted at 2011/06/27 19:37:52 | |
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