
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
《プロローグ》
この一文、桓武平氏が全盛を迎えてのち、源氏に追われて徐々に没落していくさまを詠んだ平家物語のあまりにも有名な冒頭部分ですね。
冒頭のタイトル写真(この写真はウィキペディア)の、瀬戸内の海に浮かぶ朱塗りの厳島神社の鳥居は全国的によく知られていると思いますが、そう、この日本三景のひとつに数えられている安芸の宮島にあります厳島神社、平氏には非常に縁の深い神社でございます。
もともと厳島(宮島)は、島内の最高峰「弥山(みせん)」を中心とした古代からの霊場があったところなので、そのため島内に人が住むのは恐れ多いこととして昔は誰も人は住んでいませんでした。俗に言う「ご神体山」です。

(厳島・宮島の弥山 : 2012.10.27 宮島フェリー内より筆者撮影)

(海の上に浮かぶ厳島神社の大鳥居 : 2014.11.5 宮島フェリー内より筆者撮影)
そして推古元年(593年)に、ここ厳島神社が創建されましたが、推古元年っていえば以前の法隆寺参詣のブログでも触れましたが、女帝であった推古(すいこ)天皇がちょうど即位した年にあたり、その補佐役の聖徳太子が摂政となって手腕を振るい始めたのと合わせたように、ここ厳島神社は創建されたようです。
そして厳島神社のご祭神は、もともと九州の玄界灘に面して建てられている宗像(むなかた)大社の三女神で、市杵島姫命(いちきしま ひめ の みこと)、田心姫命(たごりひめ の みこと)、湍津姫命(たぎつひめ の みこと)です。俗に言う弁財天女ですね。
そして弁財天は水気を好まれることから、発祥の宗像大社にしても、三大弁天である厳島・竹生島・江ノ島弁天も、弁財天をお祭りするところは水辺の傍ということになっています。

(九州玄界灘に浮かぶ周囲4kmの孤島 沖ノ島)
そういえば弁財天の元にあたる宗像大社奥宮は、日本海にある玄界灘沖合い49kmに浮かぶ周囲4kmの小島のような沖ノ島にある沖津宮です。こちらは現在も女人禁制のご神体山として、神職以外は年に一度の大祭しか上陸が許されないことになっています。
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その厳島神社が創建されてから時を経ること約500年、
冒頭にも記した平家物語によると、当時国司(安芸守)だった若い頃の平清盛が高野山の大塔の修理をしていたところ、夢枕に一人の僧が立ちはだかり 「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」 との霊告があったため、
それからの清盛、この厳島の神社を何十回も参詣してたくさんのお経を納経したり、前代未聞とも思われる海の上に大規模な社殿を1168年(仁安3年)に造営することになります。

(厳島を大変篤く信仰した平清盛 像)
海の上に社殿を造営した理由については科学的にはいろいろ言われていますが、それはあくまで現代人の見方で、ひと昔前までは厳島は山自体が神のおわすところ、つまりご神体山だから恐れ多いということで、その手前の海の上から山を遥拝する形にしたのだと思います。
それがあの有名な海に浮かぶ大鳥居が建てられた理由でもあるのでしょう。

(熊野本宮大社 旧社殿の絵図)
蟻(あり)の熊野詣というけれど清盛もよく参拝した熊野本宮大社は、明治22年の大水害までは上の絵図のように大斎原(おおゆのはら)という川の中洲に大きな社殿がありましたが、こちらはごく普通の神社の形態です。
それだけ信仰に篤かった平家と平清盛でしたが、やはりといいますか権力を手にした者には当然の成りゆきなのか、もしくは人間の性が出てきたのか、霊夢のごとく厳島神社を再建し篤く信仰したおかげで一時は大出世したのだけれども、
冒頭の平家物語の最初の一文の 「…盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず…」 との文言のとおり、平清盛の晩年と死後、急速に平家は没落していくことになります。

(平家物語絵巻 壇ノ浦の合戦の巻)
そしてその結果はもう良く知られているところですが、
ひとつ言えることは中国大陸では元が出てきて強大な国となり、いずれ日本が元寇で二度も攻められることになるのですが、この貴族化していった平家の政権なら、この外敵の攻撃を退けることはできなかったであろう、ということですね。
この絵詞はモンゴル・元が、
日本(倭国)に攻めてきたときの模様を描いた物の一つのようですが、

(蒙古襲来絵詞 1293年頃 : 竹崎季長による)
質実剛健な北条氏の執権政治による鎌倉幕府と北条時宗というすぐれた執権により、当時このまれに見る外敵の攻撃を無事退けることができました。ただしその後、北条高時という情けない執権が出現することにより鎌倉幕府は滅んでいくことになります。
そう考えれば「厳島」というところ、持ち上げるだけ持ち上げておいて、そこで奢れてしまうと平家がたどった運命のように容赦なく人を裁く、といった「厳島=厳しい島」という文字の要素を持った神社なのかと思います。
現代の世でも同じですが、いつの世でも変わらない 「驕れる者久しからず」 を、私たち後世の人間にも平家の興亡の歴史を通してここの神様が教えているのでしょう。
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長い前置きはこれで終わりにしまして、
ここからはその独特な厳島神社の様子をご紹介していきたいと思います。
宮島へ行くフェリーを降り桟橋から堤防を覗くと潮の跡が。
温暖な瀬戸内地区ですが、それでもこれだけの潮の満ち引きがあります。

JR西日本 宮島航路の宮島桟橋側から撮影。 2012.10.27 13:05撮影
宮島へ上陸するといたるところに鹿が。

宮島の鹿は奈良公園の鹿に比べておとなしくて、のんびりしています。
奈良公園では鹿せんべいを観光客が購入して与えるせいか、鹿が物乞いするけれど、
宮島では 「鹿にエサを与えないように」 と注意書きが書かれているせいか、
鹿もほとんど物乞いはしないですね。
そしてここの目玉の厳島神社のほうへ向かって歩いてゆきます。
日本三景の碑がありました。
安芸の宮島、丹後の天橋立、陸奥の松島(陸前松島)、これが日本三景として名高いですが、
海上に建立された独特な神社の厳島神社、
不思議な地形をした天橋立、
たくさんの島が林立している松島、
開発が進む前の日本では、とても風光明媚だったんでしょうね。

(丹後にある天橋立 : 2011.1.8撮影 ウィキペディア)

(陸奥の松島 : ウィキペディアより)

(宮島の案内図)

(厳島神社の説明文)
ここからがどうやら厳島神社の参道となるようです。
昔はこの島には人が住まなかったので、人工的なものは一切なかったのでしょう。
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厳島神社へ向かって歩いていくと、
この神社の象徴とも言うべき朱色の大鳥居が見えてきました。
今日のこの時間は引潮、ちょっとだけ足元がぬかるんでいますが、
着替えもあることなので気にせず大鳥居に接近していきます。
海の上に浮かぶ鳥居は趣があっていいけれど、
せっかくの引潮時に来たので大鳥居のふもとまで行きました。
今度は北側(海側)に回り込んで撮影。
真下から撮影。高さは16mだそうです。

厳島神社では、鳥居の扁額(へんがく)が両方に付いています。
ここ厳島神社が出している書籍コードのない専用本によりますと、
大鳥居の扁額は、有栖川熾仁(たるひと)親王の御染筆だと記載されていました。
ちなみに扁額の大きさは、たて273cm、横183cmと大きなものです。

神社の入口にあたる海側の鳥居の扁額には
「嚴嶋神社」 と書かれていました。

ご神体山側にあたる社殿側の鳥居の扁額には
「伊都岐島神社」 と書かれていました。
マイカメラのDP1xは望遠が効かない単焦点カメラなので、トリミングで大幅拡大しました。
鳥居の表裏の両方とも扁額があり、しかも表記が違っているというのは珍しいですね。
清盛の時代に「嚴嶋神社」と表記するようになったとのことですが、
神道では字が違えばお働きが違うと聞きますので、なにか深い意味があるのでしょうか。

大鳥居の根元部分も撮影しました。
満潮になればここに2mぐらいの海水が押し寄せるのでしょうね。

(海の水をたたえた厳島神社の大鳥居 : ウィキペディアより)
ちなみにこの大鳥居は八代目にあたり、明治維新から間もない頃の1875年(明治8年)に再建されたそうです。ということはもうかれこれ130年以上、こうして海水の満ち引きのなかにたたずんでいるのですね。
鳥居の高さは16mで、棟の長さは24m、主柱の根元の直径は3.64mもあるようです。ちなみに重さは前途の本には書かれていませんでした。
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大鳥居をしばし見た後は、平安時代の様式?で建てられていると思えるような、回廊がたくさんある寝殿造りの厳島神社の社殿へと向かいます。
まず遠方から見た社殿です。
大鳥居の真下まで行けてそれはそれで良かったものの、
やはり海の水をたたえていない厳島神社はちと趣きが少し不足気味な感じです。
社殿入口の手前です。この時期は大変な数の人出のようです。
そして今日は早朝の8時ごろが満潮で、訪れた14時ごろが最も潮が引いていたみたいでした。
神社の中の回廊へと進みます。
昔の参拝者は船で大鳥居を越えて、直接厳島神社へと来たのでしょうか?
回廊は幅3.3m、柱間は2.4mで、柱間は板が八枚張ってあるとの事(厳島の本より)。
こちらの写真は、厳島神社の摂社第一の客神社?を撮影したみたいです。
暗くてノイジーな写真になっちぁいましたが、天忍穂耳命ほかが祀られているようです。
そしてまた回廊へと出ます。
左手には鏡の池が見えました 。
最初の写真が回廊側からみた写真。次のは神社の裏手から撮影した写真です。
回廊から外を見るも砂地ばかりで、少しさみしいですね。
そして厳島神社の本殿へと出ました。
最初にご由緒を撮影、その次に本殿内部を撮影しました。

厳島神社の創建は推古元年といいますから、女帝推古天皇の時代、
つまり日本の礎(いしづえ)を築いた聖徳太子の頃ですね。

この撮影のすぐ後に新郎新婦がお入りになり、神前結婚式がおこなわれていました。
そのせいで左右には白布をかぶせたテーブルが。
そしてここでお祈りをし、おみくじを引いてから社務所で本2冊(後述の写真)を買いました。
そしてここを出るとまた回廊が。まるで迷路のようです。
回廊の途中には長橋が。
ようやく出口に来ました。
今回10年ぶりぐらいに訪れた厳島神社でしたので、非常にゆっくりと回ってきました。
そして厳島神社で買い求めた2冊の本の表紙部分です。自宅のスキャナーで読み取りました。
厳島神社、全盛期の平家一族がたくさんのお経を納めたようです。俗に言う“平家納経”です。
平家納経は数ある納経の中でも特に有名みたいですね。
聖徳太子から始まった神仏習合の時代がずっと江戸末期まで続くのですが、よってお寺でなく神社にも願文や御礼としてお経を納めたわけですが、平家納経の場合は単に写経して納めたというより、芸術品としての品格を備えたものだったようです。
また清盛自身は、代筆でなく自らの直筆で経文を書いてここへ納めていたみたいですよ。
そして右側の本は書籍コードがないので市販されていないと思われ、発行が厳島神社となっていますので、ここ神社でのみ販売されている本のようでした。
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これで「平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣」は終了です。
ここへの道中記は宮島連絡線も含めてフォトギャラリーにアップしました。
次回のブログは、ここからごく近い山口県岩国市にある錦帯橋を、
次々回ブログは、JR貨物フェスティバル 広島車両所公開イベントをアップする予定です。
↓関連情報URLには、厳島神社のサイトをご案内しています。