
滋賀県のど真ん中にあります日本一大きな湖である琵琶湖には小さな島が4つございます。
面積が大きい順に、沖島(おきしま)、竹生島(ちくぶじま)、多景島(たけしま)、沖の白石(おきのしらいし)という名がついています。
その4つの琵琶湖の島の中でとりわけ有名なのが竹生島ではないかと思われます。
竹生島には弁財天が祀られていまして、平清盛が篤く信仰した広島の厳島神社、神奈川の江ノ島神社と、そしてこの竹生島弁天を合わせ、日本三大弁天というのだそうです。
筆者は秋も終わりに近い今年2011年 11月 13日の日、初めてこの竹生島を訪問いたしました。
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で、その竹生島の歴史を紐解きますと、
神亀元年(724年)、聖武天皇の夢枕に天照大神様が現れ、
「琵琶湖に小島がある。そこは弁財天(弁才天)の聖地であるから寺院を建立せよ。さすれば国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」
との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院を開基させた。行基は弁財天の像を彫刻して本尊とした。延喜式神名帳では小社に列する (ウィキペディアより引用し、筆者がさらに加筆) といいますから、もう1300年近くの歴史がありますね。
竹生島がとりわけ有名になったのは、今年(2011年度)の大河ドラマのせいもありますが、豊臣秀吉が篤くここを信仰したからではないかと思います。
1573年、もともと羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、小者とも下男とも呼ばれていた最下層から次第に出世し、浅井長政攻めの功で、ついにこの年に織田信長から初めて領地を拝領しました。そこが今の滋賀県長浜市あたりで、当時は今浜と呼ばれ何もなかった土地でしたが、信長の一字をもらい受け長く続くようにと「長浜」と改名し、長浜城を作りさらに城下町を作って整備し近江の一大拠点としました。
琵琶湖のそばに住まいを持った秀吉のその後の躍進はすざましい限りで、それはすでに歴史が証明していることですが、どうやら秀吉、ねね、秀頼、秀長など豊臣一家はそれを感謝して、終生この琵琶湖にぽつんと浮かぶ竹生島を篤く信仰しよく参拝もしたようです。直筆の願文も残っていることからもそれは証明されていますね。
この時代は一般庶民でさえ参加できた北野大茶会とかもやっています。秀吉の中国返しの時には急ぐあまり、たくさんの金銀を沿線にばらまいたとも。とにかくこの時代は豪華絢爛という語句の通り、国も発展し庶民も裕福だった時代のようでした。
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それに比べて265年の歴史こそ誇ったが、徳川の治めた江戸時代というのは、特に赤穂浪士が討ち入りを果たした元禄の時代を過ぎると、もう全国的に飢饉と天災と失政の連続で、庶民も大名も幕府自体も貧しく、天災と飢饉による生き地獄も続きまさに暗黒の時代ともいえ、とてもほめられる時代ではないですね。
その中でも特筆に値する、保科正之公とか上杉鷹山公とか、現代の政治家よりもはるかに優れた方もおられました。
賛否両論はあろうかと思いますが、正直徳川家康とその一族が作った江戸時代というのは、鎖国政策と政権転覆を恐れるあまり、人間扱いしていない非情とも言える身分制度と、庶民や大名から金を巻き上げていき、それがまた国の発展を大幅に阻害し、ろくな時代ではなかったと私はいつも思っています。
最近とにかく悪い意味で話題を振りまいている北○○という国と、本当にほんと~うにそっくりな社会体制・政治体制です。
そしてもし江戸時代がそのまま続いていたなら、国力が発展することもなく日本は欧米の植民地になっていたことでしょう。
でも明るく治めるという意味が込められたような「明治」という元号の時代となり、藩が無くなって中央集権国家となり国も開国され、渋沢栄一や五代友厚なども世に現れ出てきて、徐々にですが不十分ながら経済も発展してきて国力が増強されていました。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の文言のように、
とにかく富士川とか大井川などの大きな川に橋をかけさせない・しかも渡し舟さえも禁止、とかの極端な徳川家維持ばかりを重視した政策を、江戸時代が終わるまでの265年!もの間、制度を一切変えることもなく、バカの一つ覚えのようにずっと続けていました。
(大井川 : 2005.11.8撮影・ウィキペディアより)
(富士川 : 2005.12.24撮影・ウィキペディアより)
よって、日本の土木技術、特に架橋技術とトンネル掘削技術は江戸時代の間には全く発展せず、交通体系の整備もなく、蒸気機関の発達により諸外国では大幅に交通体系が変革していても、日本では江戸期の265年間に渡りずっと馬かほとんどは徒歩で、産業革命を経た欧米比べてどれほど遅れたか計りしりませんね。
1879年(明治12年)になって、ようやく「蓬莱橋(ほうらいばし)」という名の橋が大井川にも架けられました。
(蓬莱橋 正面 : 2011.11.2撮影・ウィキペディアより)
(蓬莱橋 横から : 2011.11.2撮影・ウィキペディアより)
(蓬莱橋 横から : 2010.6.4撮影・ウィキペディアより)
ちなみにこの蓬莱橋は現在ギネスブックに 「世界一の長さを誇る木造歩道橋」 として認定されました。日本の橋の中では歴史が古いこの橋、さすがに木では橋脚が持たなかったのか、1965年(昭和40年)に橋脚がコンクリートパイル化されたみたいです。
それでも平成の世になってからでも、9回も橋が水害等によって壊されたというのですから、明治の初めの頃の架橋技術では、大きな水害があるとやはり橋自体が持たなくて、江戸時代に橋を架けても維持管理には大変そうではありますね。
でもお城の石垣を綺麗に積み上げる技術はあったのですから、江戸時代には一度も流されなかった岩国にある錦帯橋のように、努力すれば石造りの橋も架けられたはずでしょう。
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徳川の十五代も続いた将軍の中で、最も聡明だったと(私が)思われる徳川慶喜公が大政奉還を決断して江戸城を無血開城し、そして明治になってやっと日本が開国し、殖産興業が行われ国力が増してようやく諸外国に対抗できるようになりました。
そして不凍港を求めて南下政策をとりつつあった、当時世界最強の(軍事)大国であった帝政ロシアに、大抜擢された東郷平八郎が率いる日本海軍が、丁字戦法を使ったりして玄界灘沖の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に大勝しました。
(日本海海戦 1905年・明治38年5月27日 : ウィキペディア)
また陸上では武田と織田との長篠の戦いの歴史が、日露戦争当時、世界最強といわれた帝政ロシアのコサック兵を、奉天会戦(ほうてんかいせん)での機関銃連続掃射で打ち破った、秋山好古の戦法にヒントを与えたのは有名?です。
それで騎兵は世界中から消滅し、変わりに鋼鉄で覆われた戦車が登場しました。
(長篠合戦図屏風 : ウィキペディア)
そしてこれらによりようやく日露戦争に辛くも勝利し、日本がロシアの植民地にならずに済み、当時とても悪名高かったロシア兵との混血も防ぐことが出来て(その理由はご推察くださいね)、太古から続き室町時代にほぼ完成した日本文化もそして日本民族も無事守られました。
ただしその後の日本人、このあとの歴史が証明しているように慢心してしまって、石油の禁輸とかの理由はあるにせよ太平洋戦争でこっぴどく敗戦し、結局反省させられる歴史へと向かうのですね。
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ミッドウェーでの海戦で大敗を喫した歴史で最も象徴されているように、現代の楠木正成公ともいえるような山口多聞という海軍きっての航空の専門家で、かつ最高に素晴らしい頭と度胸を持った指揮官が当時海軍にいながら、その専門家を戦闘部隊のトップにしなかったのが、太平洋戦争敗戦の最大の要因ですね。
まあ、太平洋戦争の命運を分けてしまった、あのミッドウェー海戦の敗因分析はいたる所でされていますが、私が思うに戦闘は「運」という要素も非常に大きく、それを生かすにはいかに適材適所の配置をし、圧倒的物量と科学技術の差もあったかもしれないけれど、ささいなチャンスをも見逃さず物にするかにもかかっているように思われます。
運という点で見ますと、日露戦争当時は非常に運にも恵まれていましたが、逆に太平洋戦争時には慢心した結果なのか、ことごとく裏目に出ることが多かったですね。
(山口多聞海軍小将 : ウィキペディア)
日本の歴史を振り返れば、巨大な規模の軍隊を持った今川義元に領内を攻められて、
一世一代の大いくさをした織田信長の桶狭間の戦いは、

(尾州桶狭間合戦 歌川豊宣画 : ウィキペディア)
今川義元が細長く狭い場所だったといわれている桶狭間で休息しているという些細な情報を決して見落とさず、天も信長に見方したのか梅雨時期の大雨の雨音により、今川本陣へと迫る信長軍の馬や足軽の移動の音が消されて今川義元を奇襲し、わずかなチャンスを迷うことなくすばやく物にした織田信長の天才的才覚には大いに学ぶべきですね。

(日本の近世を開いた織田信長 : 狩野元秀筆 ウィキペディアより)
そして信長は、その後二度とこの桶狭間と同じ戦法を使いませんでしたが、この桶狭間の戦法はローマ時代の古代カルタゴの知将ハンニバル将軍率いる寄せ集め軍と、団結力と精鋭さを誇ったローマ軍とが、北イタリア地方で紀元前217年 6月に戦ったトラシメヌス湖畔の戦い(現在のトラジメーノ湖)にも通じるものがあります。

(トラシメヌス湖畔の戦いの配置図 赤→ローマ軍,紺→ハンニバル軍 : ウィキペディア)
ただしこの信長、のちには大いに慢心し、しかも性格も変質してしまって人々の恨みを買うことになり、部下の明智光秀に襲われてしまい、結局命を失うことになったのも合わせて歴史が証明しているところです。
でもどちらにしても、従来の常識に全くとらわれず楽市楽座を開設したり、毛利水軍の焙烙火矢(ほうろくひや)や、焙烙玉(ほうろくだまに対抗するため、鉄で覆われた戦艦(鉄甲船)を造り、また農民兵でなく一年中戦うことのできる雇い兵を常備するなど、この革新的だった織田信長の登場からが日本の近世の歴史の始まりともいえると思います。
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ところで日露戦争当時、日本はロシアの不凍港を求めた南下政策により国防の一大危機でしたが、この危機に対処すべく、階級にとらわれず大抜擢された東郷元帥や秋山好古・秋山真之の兄弟らの優れた参謀らの活躍によって、日露戦争に大勝利とまではいかなかったものの、何とか辛くも勝利して日本国は無事守られました。
ところが太平洋戦争の時には日露戦争当時とは違って人事の大抜擢もなく、水雷の専門家でしかなかった南雲中将より後輩だという理由? で、
時すでに海上での航空機戦闘の時代になっているにもかかわらず、
適材適所!の人材を抜擢しなかったこの軍部の人事こそが、
ミッドウェー海戦の最大の敗因原因ですね。
ところでちょっと気になったので、下の三人の海軍兵学校の卒業年次を調べると、
南雲忠一は、1908年(明治41年)海軍兵学校卒業(36期)
小沢治三郎は、1909年(明治42年)海軍兵学校卒業(37期)
山口多聞は、1912年(明治45年)海軍兵学校卒業(40期)
でして、世界最大の敵アメリカと勝負するのにもかかわらず、航空戦の専門家であった小沢治三郎や山口多聞は、南雲よりわずか1年、もしくは4年だけ後輩だという理由で? あるいは海軍内部の派閥争いで? この時には第一航空艦隊司令長官に抜擢されず、相変わらず年功序列の順送り人事みたいなことを平気でやっていた日本海軍でありました。
これ、エリート連中で固められた、事なかれ主義・派閥優先主義の軍部の上層部の慢心ぶりが歴史からもじゅうぶんに伺えます。
よく南雲中将を弁護する意見も聞かれますが、
そもそも水雷の専門家で航空戦の知識がないのならば、
第一航空艦隊司令長官のお役は、航空戦闘の専門家に自ら譲るべきで、
そうしなかった南雲中将の知恵のなさ!が、実戦での敗戦へとつながっていきます。
(1941年10月30日当時の真珠湾 : ウィキペディア)
真珠湾攻撃のときにも山口多聞小将(当時)が、当初破壊し損ねたご当地の石油コンビナートなど工業・軍事施設を、徹底的に破壊するよう南雲中将に具申したにもかかわらず、自己保身のため?なのか、あるいは草鹿龍之介の入れ知恵なのか? なぜかこの具申を退けたことも今となってはよく知られています。
しかもあらかじめ逃げていたらしい?? アメリカの主力の航空母艦を追跡することもなく、見方の損害を恐れたのか? 中途半端な攻撃で、可能であったにもかかわらず核心部分を攻撃することなく早々と引き上げてしまう、この南雲忠一のいくさのやり方は、とても戦闘指導官としての器とは言えないです。
(山口多聞が指揮した空母飛龍・1939.7完成直後の写真 : ウィキペディア)
そしてミッドウェー島攻撃中に敵機発見の報を聞き及び、兵装転換中に敵機が来襲して壊滅的打撃を受けてしまうわけですが、ここでも南雲中将、決定的なミスを犯してしまいます。
山口多聞が陸用爆弾のまま攻撃機を発進させるよう具申したにもかかわらず、すぐに攻撃を受けないものと判断したのか、なぜか時間のかかる兵装転換を再度行い、その最中に敵機が来襲して壊滅的打撃を受け一方的に負けてしまいます。
後でならいくらでも言えるかもしれませんが、南雲は元々水雷の専門家だから航空機の爆弾の兵装転換に、どれぐらいの時間がかかるのか把握していなかったのではないか…と思えるぐらいで、この再度の兵装転換の指示ははだはだ疑問に思えます。
が、このことは源田実も悪いでしょう。彼は少し前のセイロン沖海戦で、兵装転換中にイギリス軍の巡洋艦が出現して、魚雷装備→爆弾装備→魚雷装備と変更する混乱を体験していましたが、この時の経験が全く生かされていなかったことから、やはり一級の将とはいえないですね。
詳しくはこちらのブログを見てください
http://www.gates-inn.com/taiheiyo-kaisen-midway.htm
結局、あらゆる面が裏目に出て、ミッドウェー海上の日本海軍が最悪の事態に陥ってしまったのだが、敵機の被弾から逃れた山口多聞が率いる飛龍、相手に一矢報いるために奮闘し米空母ヨークタウンに一撃を加えます。あの最悪の時でさえあそこまでできたのですから、山口多聞が司令長官だったなら、とはつい思わずにはいられませんね。
(アメリカ軍の攻撃を受け最後の姿となった空母飛龍 : 1942.6.5撮影 ウィキ)
(空母飛龍と潜水艦伊一六八の攻撃を受け沈没した米空母ヨークタウン : ウィキ)
そしてとうとう敗色の濃くなった南方のミッドウェーの海で、部下たちは極力退艦させたけれども、部下にいくら言われても自らは全く脱出することなく、最後まで艦に残って太平洋の海の底へと散っていった山口多聞中将。
この山口多門中将の生きざまは、幼少に「多聞丸」と呼ばれ、後醍醐天皇に九州から再起した足利尊氏・直義兄弟の軍に勝つ秘策を献策したけれど、結局献策は退けられ死地へ向かう楠木正成公とそっくりです。
九州から足利尊氏・直義兄弟が再起してきた時、楠公さんは後醍醐天皇に、尊氏方に勝つための秘策を献策したけれど、坊門清忠(ぼうもん きよただ)という一介の保守的な公卿が、この時の楠公さんの献策に反対し、しかもあろうことか後醍醐天皇はそれを支持。
天皇の命だということで仕方なく後醍醐天皇の命に従い、九州から再起した足利尊氏・直義兄弟の軍に
負けると分かっていながらあえて出陣し、最後には神戸の湊川(みなとがわ)での戦で散っていった、楠木正成公とその一族を思い起こさせずにはいられません。
といいますか、楠公さんは湊川の戦いで再起してきた足利尊氏・直義軍に敗れて、
自分の役目は終わったということで湊川の地にあえて散っていきました。

(神戸の湊川神社の境内にある楠公さんの御墓所 : 2014.2.19 筆者撮影)
そしてその後、花の御所のそばに室町幕府が開かれ、質実剛健だった鎌倉政権に対し、応仁の乱を引き起こした一人となる八代将軍の足利義政の時に、現在の日本人を形作っている日本文化が花咲いていくことになるのですね。

(洛中洛外圖上杉本陶版より花の御所 : ウィキペディア)
これらのことは、
次のブログ「足利義政の作った銀閣寺(東山慈照寺)」にて詳しく取り上げる予定です。
で現代の、このミッドウェーの海戦では、建武の中興の時の坊門清忠と全く同じような、アホな南雲中将の総指揮官と草鹿龍之介や源田実らのアホな参謀のせいで、最後には日本海軍が取り返しが付かない状況となりました。
そしてここミッドウェーの海で負けると分かった以上、もう日本に勝ち目はないと理解したのか山口多聞中将、自分の役目はもう終わったと悟って、自分の艦とともに太平洋の海に沈むことで、軍人としての責任を最大限果たしたのではないかと思えます。
あげまんだった楠木正成公が湊川で自決した時点で後醍醐天皇方の南朝の命運が尽きたように、ここミッドウェーの海で山口多聞が亡くなった時点から、日本は敗戦への道を突き進むことになります。
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ところで先ほど触れたその死地に赴く楠公さんですが、いったんは天皇方に負けた足利尊氏が再起し九州から攻め上ってきたので、後醍醐天皇の命に従い新田義貞とともに神戸・湊川の地へと赴くのですが、ここは負けると分かっている戦をしないで、再起を図ったほうが良いのかずいぶん迷ったようです。
これは自分の命が惜しくて迷ったのではなく、あくまで後醍醐天皇のお命とその政権を守るために今まで戦ってきたように、ここでわざわざ負ける戦さをせず、体制を立て直してから最終的に勝負に勝てればよいとの考えもあったみたいです。
(皇居外苑の公園にある大楠公・楠木正成像 : ウィキペディア)
1336(建武3)年 5月25日の湊川の戦さの日の前日だと歴史では言われているのですが、当時湊川付近の広厳寺(こうごんじ)いた、有名な渡来僧であった明極楚俊(みんきそしゅん)に会いに行き、そのときの自分の気持ちをどうやらぶつけたようです。
楠公さん 「生死交謝の時如何 (そもさんか、生死の境)」
明極楚俊 「両頭倶(とも)に截断(せつだん)して、一剣天に倚って寒(すさま)じ」
楠公さん 「落処作麼生 (落所は如何)」
明極楚俊 「カァーッ」
この問答は禅問答としてけっこう有名だそうですが、
「ここまでくれば、もう生きるも死ぬも無い、生死で迷っているその頭を一剣で割ってみよ。
その気迫をもって、もう天命のまま行くだけだ」 …という和尚の言葉に対して、
「(剣の)落所は如何」と切り返す楠公さん。
明極和尚 「カァーッ(おまえ自身だ)」 …と、一喝で楠公さんに諭した、という内容のようです。
この禅問答で楠公さん大いに悟り、今までのすべての迷いも吹き飛んで、戦さで負けて死ぬのが分かっていても堂々と勝負して使命を果たし、最後は弟の正季公と700騎からなる一族郎党と共に湊川の地へと散っていきました。

(神戸の湊川神社の境内にある楠公さんの御一代記より : 2014.2.19 筆者撮影)
そしてこの山口多聞中将の死にざまも、なにか神戸の湊川に散っていった大楠公、つまり楠木正成公を彷彿とさせるところがありますね。
この山口多聞中将のご両親、自分の子に楠木正成公のご幼名である「多聞」という名前を名づけたことからしても、楠木正成公をたいへん尊敬していたのでしょうね。恐らく山口多聞自身も楠木正成公をたいへん尊敬し、楠公さんの生きざまもよく勉強もしていたのではなかったかと思われます。
ちなみにこのミッドウェー海戦の最高責任者だった南雲忠一及び草鹿龍之介や源田実らは、作戦ミスを犯して大敗を帰したうえ、たくさんの尊い人命が失われたにもかかわらず、部下に言われるままのこのこと戦艦から脱出して自らは助かり、その後も
全く責任を取ることもなくミッドウェーの海から逃げましたけれどもねぇ~。
軍人としても最低な、武士道にも恥じる情けない奴らです。
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信長・秀吉からが近世の日本の始まりということで、お話がだいぶん横道にそれてしまいましたが、
ここの上に掲載いたしました写真が神社の参道案内ですが、お寺の弁財天堂は明治の初めごろに行われた神仏分離令の影響で、あやうくお取り壊しになるところを、当時の庶民の熱い大反対によりかろうじて廃寺とはならずに現在まで無事残りました。
江戸時代までは竹生島に限らずどことも神仏習合だったので、お寺も神社も仲良く同居していたところがたくさんあったのですが、明治初頭の神仏分離令のやりすぎで、たくさんのお寺が神社と分離されてお寺が取り壊されて無くなったようです。
(竹生島 弁財天堂)
ここの写真が日本三大弁天となる弁財天が祀られています弁財天堂です。
本来は竹生島宝厳寺(ほうごんじ)というのだそうです。弘法大師が開いた真言宗の一派に所属しているそうです。
この上の写真に写っていますお堂は、なんと物資の不足していた太平洋戦争中の1942年に、平安時代の様式で新築されたものだそうですよ。
そして弁財天堂の下には、西国三十番札所となる観音堂があり千手観音が祀られているそうです。入口の唐門は国宝ですが、観音堂の中は残念ながら撮影禁止となっているため、写真は一枚もなく残念ながらご紹介はできないです。
(竹生島 観音堂唐門:国宝)
そして、観音堂の東側にある渡廊(重要文化財)ですが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付きの木製の廊下です。これは竹生島を篤く信仰した豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「船廊下」と名づけられました。 ここの写真は撮り損ねましたのでウィキペディアから借用しました。
(竹生島 船廊下:重文)
そして、下の最後の写真が都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)の竜神拝所から琵琶湖を見た写真です。私が撮影したここの写真もあるのですが、あいにく雨がふりそうなお天気だったため美しい眺めの琵琶湖が映えず、ここに掲載のお写真も拝借いたしました
(竹生島 晴天の竜神拝所 : ウィキペディア)
【関連情報URL】には、
豊臣秀吉公の遺構ある竹生島というサイトをご案内しています。
もっといろいろな写真がご紹介されていますので参照してみてくださいね。
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次回のブログは歴史ある京都銀閣寺を取り上げる予定です → 2012.1.1のブログにアップしました。
その次はもう来年になりそうですが、
カーナビの音楽機能とパソコンでの音楽編集を取り上げる予定です。
→ これは2012年 2月28日にやっとアップしました。