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カクシカおじさん(プレミオおじさん)のブログ一覧

2012年04月26日 イイね!

みなと神戸の夜景(2012.12.11 DP1メリル/2015.6.15 DP3メリルの写真を追加掲載)

みなと神戸の夜景(2012.12.11 DP1メリル/2015.6.15 DP3メリルの写真を追加掲載)日本の三大夜景は、
函館・神戸・長崎といわれていますが、

先日2012.4.16の日に奈良・法隆寺参詣からの帰り道、神戸市中央区にあるポートアイランドの北公園内から、神戸の夜景をお遊びでDP1xで撮影してみました。

冒頭の赤色の橋は、
ポートアイランドへと行く神戸大橋を撮影したものです。
 
 撮影方向ですが最初の5枚は、ちょうどJR神戸駅からすぐのハーバーランド方向へ向けました。



 神戸ポートタワーですが、広角単焦点カメラのためズームが効かないので、像が小さくて少し分かりにくくなっていますが、モザイクガーデンの観覧車の、絶えずいくつにも変化しているネオンの色が写っています。現像のパターンも、明るめやら暗めなどいろいろにしてみました。


 が、残念ながら撮影データそのものの生RAWデータでは、対岸のネオンの光の粒まで細かく判別できるのに対し、ここみんカラのブログへ掲載するためにJPEG圧縮した段階で、光の粒は大方つぶれてしまい、もとの画像の美しさがお伝えできないのが、少し残念です。

 一部ピントがずれているのがありますが、撮影枚数は多くなかったので掲載しています。後で完全マニュアル撮影すれば良かったと思った次第です。このカメラの自動AFは、あまり夜景には向いてなさそうですね。













   ここから下の2枚の写真は、同じポートアイランドの北公園から、
   対岸のポートターミナルに停泊中の客船らしき物を写したものです。






   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  


       【ここから以下は2012.12.11 の追記となります】

 2012(H24).12.9の日、所用で神戸へ行った際、帰宅が遅くなったので、
 今年2012年の4月に行った神戸のポートアイランドへと、シグマのフルモデルチェンジされたコンデジDP1メリルを引っさげて、再度同じ夜景を撮影しに行きました。


 この日は気温が0℃近くで、しかも風も強くてとても寒すぎなため15分ほどでここを退散しましたが、ここのページにDP1 Merrillで撮影した初写真を掲載したいと思います。

 そしてここに掲載した写真ですが、この撮影日は風がとても強かったため、すべて飾り岩や構造物にカメラを置いて微動しないようにして撮影しましたが、露出時間は1秒・ISO感度は100かもしくは200で撮影しました。



 まず対岸のモザイクガーデン内の色とりどりに変化する観覧車と神戸ポートタワーほかを撮影。


   次に神戸ポートタワーやモザイクガーデンの観覧車を少し大きくなるよう
   写真の周囲を少しカット(トリミング)してみました。こんな感じです。


   その次は、大胆に周囲をバッサリとカット。大幅にトリミングしてみました。

 大トリミングしたこの画像はトリミングしても3578×2372ピクセルもありました(元の写真)。
   さすがに画素が3倍になってトリミングが強くなったには関心しました。

 うちのパソコンのモニターが古いタイプ(19インチ)なので、
 最大画素撮影ではピクセル等倍表示にはならず、ボヤケ気味にて表示されてしまいます。

 ちなみにここへアップした掲載写真はブログの仕様上、自動的に1280×1280ピクセル以下に縮小されるので、むやみに解像度を上げても無駄かもしれませんが、これだけ大幅なトリミングをしてもまだ十分見れるようです。




       【さらに2015.6.15 の追記となります】

 それから我が家に、当時最新のシグマの中望遠75mmのDP3 Merrill(メリル)が2013(H25)年の7月にやってきて丸2年近くが経過しましたが、このカメラでの神戸のポートアイランドの北公園からの、モザイクガーデンや神戸ポートタワーの夜景撮影テストはしておりませんでした。

 つい先日の2015(H27).6.12の日、
 神戸に用事とプチオフをした際、帰宅が夜になっちゃったので寒くないこともあり、DP3メリルを使って急遽撮影テストをしに行きました。ただ残念ながらこれは予定していなかったことでしたので三脚を持参しておらず、撮影画像は極力修正したものの水平度が出ていないのはご勘弁を。


  では下4枚にDP3メリルで撮影した写真を掲載です。ほぼノートリミングです。




       


  (2015.6.12にDP3メリルで撮影した神戸ポートタワーとモザイクガーデンの観覧車)


 みんカラ付属のアップロードでは100万画素弱となってしまうので、対岸のホテル名のプレートまでは画像がつぶれて判別できませんが、元のJepg画像だと等倍で見ると鮮明に判別できます。

 シグマDP3メリル、もう製造中止となり後継のDP3クワトロとなったものの、現像ソフトが使いにくい大きな欠点がありますが5~6万円で購入出来るカメラとしては驚異的です。ただこれらの写真、ここでのアップロードでは限界があるので、後でフォト蔵の当ページへアップしておきます。





次にご紹介するのは、本州側からポートアイランドとを結ぶ橋 「神戸大橋」 を撮影したものです。

            (2012.12.9 DP1メリルで撮影した神戸大橋)


こちらはほぼ同じ場所で2015(H27).6.12にDP1メリル&DP3メリルで撮影したもの。


       






最後に撮影したのは撮影場所にある洋風な建物です。これはかなり明るめの現像にしました。

       (2012.12.9 DP1メリルで撮影した北公園内にある洋館) 


こちらはDP3メリルで撮影した同じ場所の洋館ですが、
このカメラISO200が最大ダイナミックレンジとなる変な仕様のカメラのため白とびを起こしやすく、
    洋館の左奥に白とびが発生。でもそのまま掲載しました。ノートリミングです。

       (2015.6.12 DP3メリルで撮影した北公園内にある洋館)
 
2012年04月25日 イイね!

日本の礎を築いた聖徳太子が建てた奈良・斑鳩の法隆寺と、現代の日本を象徴する日銀の失策とそのデフレ経済(2013.10.10追記)

日本の礎を築いた聖徳太子が建てた奈良・斑鳩の法隆寺と、現代の日本を象徴する日銀の失策とそのデフレ経済(2013.10.10追記)
 聖徳太子と聞けば、皆様なにをイメージされるでしょうか?
 
 昭和の人ならまず思い浮かぶのが、ここのタイトル画像のように、聖徳太子の肖像が載った1984年(昭和59年)まで発行されていました、旧1万円のお札ではないでしょうか。


 ここの旧1万円札の画像は、フリー百貨辞典のウィキペディアに掲載されていたものをお借りしましたが、現在の福沢諭吉版よりも一回りだけ札が大きいものの、私個人的にはこの聖徳太子のお姿のお札のほうが威厳もあってより1万円らしく、こちらのほうがいまだに好きですね。


 日本の経済も、昭和33年から発行されたこの聖徳太子像の1万円札とともに、オイルショックもなんとか克服しながら大いに発展していったものの、諭吉さんの時代になるとお札のパワーが落ちたのか、バルブも崩壊し日本国家全体がデフレ経済から脱却できないまま今日まで続いています。

 私はここで別に福沢諭吉の批判をするのが目的ではないのですが、両者の残した業績をかんがみると、福沢諭吉ファンには申し訳ないですが、もう圧倒的に聖徳太子のほうが上ですね。まったくといっていいほど違いすぎています。


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 ところで先日、あるところでちょっと小耳にはさんだのですが、諸外国では自国の通貨流通量がだいたいGDP=国内総生産額の3~5倍程度は、自国通貨を流通させているらしいのです。

 ところが日本は、政府でなく日銀が貨幣流通量をにぎっており、しかもこの日銀の総裁というのが順送り人事みたいな感じで選ばれ、自分の代で責任を取りたくないのか名誉を傷つけたくないのか、ずっとこのかたデフレが続いているのに、GDPの1.6倍程度しかない貨幣流通量を全く変えようとしないのです。




 まあ保守的で、事なかれ主義で、しかもお役人体質そのものの日銀が、いったい何を考えているのか庶民には全く分かりませんけど、これが日本がデフレを克服できない隠れた本当の原因なんだ、ということを先日あるところで聞きました。で、その後ネットでも徘徊してみると同じような論説をいくつも見かけました。

 そしてあくまでうわさの範疇ですが、日銀のお官僚は財務省の言いなりにはなりたくないといいますかエリート意識というのか、お互いに官僚の派閥意識がある?ようなのです。

 そのひとつにはたすきがけ人事といわれている日銀総裁が、日銀出身者と旧大蔵省(現財務省)の事務次官との間で交互に日銀総裁に就任していることもあげられるでしょう。政治家(与党)連中も、このような馬鹿げた慣行をコントロールする力もないのか、全く情けない限りですね。

 そして本当に両者のエリート意識が対立しているのが金融緩和をしない原因のひとつなら、東大法学部なんてもう完全にぶっ潰したほうが、ほかの省庁も含め日本のためにも良いです。




 結局バブル発生も、その崩壊も、直接的には!日銀の金利政策が招いたといえるもので、その功罪は非常に大きいといえるのではないでしょうか。日本にしかないあの馬鹿げた日銀法もとっとと廃止し、日銀も財務省も一度完全に解体したほうがいいです。

 エリート意識丸出しで自己保身ばかりで全く役に立たない日銀総裁連中たちに対し、聖徳太子は推古天皇の摂政で、今で言う総理大臣のような最高の立場でしたが、あの時代にも関わらず残された言動(冠位十二階の制度や十七条の憲法ほか)を見ると、本当に庶民の立場に立った腰が低いお人でしたね。

 また国を預かる政治家たちも、明治維新の頃の政治家は立派な人が多かったし、明治天皇様ご自身も国の行く末を思い、庶民を思い、とても聡明で立派だったけど、今の政治家は小選挙区制度の弊害も出ているのか、民主党や自民党の言動を見れば分かるように、党利党略ばかりを追求し、一方の官僚は自らの保身ばかりを考えるような非常にレベルが低い人が本当に多いです。

 これこそが財界も含め、現代の日本の沈滞している真の原因でしょう。



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 で、今現在(2012年初頭)、日本の政界では野田首相が消費税増税をひんぱんに声高に叫んでいますが (ギリシャのこともあるだろうが、これは財務官僚の言いなり? なのでしょう)、たとえ消費税を10%に上げても、現在はデフレ不況なので、庶民感覚から見るとさらに物が売れなくなり、思ったほど税収は増えないのではないか…と庶民感覚から見れば普通に思いますよね。
 
 これは近い過去に事例もあり、自民党政権の時の橋本龍太郎総理の時に、最悪のタイミング(1997年)で消費税を3%から5%に引き上げて国民からお金を吸い上げた結果、かえって大不況になりデフレ経済となって、国民の皆様が苦しんだだけで正直効果はなかったです。

 その証拠に1997年度には消費税の2%アップによる収入増4兆円に対し、2年後の1999年度になると主にデフレ不況により、法人税+所得税の税収の減収が6兆5千億円にものぼり、財政もまったく改善せずかえって悪化しました。




 それよりも戦前の高橋是清大蔵大臣が行ったように、デフレ経済下では一時的に通貨発行量を引き上げて、それを活用した政策をおこなうほうが、長期デフレ退治にはよっぽど効果が高いはずではないでしょうか。

 特に緊急を要する東北の復興はこれでやればいいのにと思うのに、政府・民主党は党利党略ばかりで本当に腹が立ちますが全くのなしのつぶてですね。現在ではデフレ経済下なので不景気で税収自体も少なく、もしこのままではどこかでまた災害が起これば、そのたびに予算がなく増税を繰り返すということにもなるでしょう。



 (高橋是清大蔵大臣 : ウィキペディア)

 で、いきなり冒頭から今を悩ませているデフレ経済のお話だったのですが、もし聖徳太子が現代に生きていたなら、この苦境の経済をどう立て直すのだろう、とつい考えてしまいました。

 恐らく、まず誠意を尽くしてこの状況を説明し政策を変えるよう懸命に説得するものと思いますが、もしそれでもダメなら、行動を起こさない事なかれ主義で役立たずの日銀総裁を交代させ、それ相応にふさわしい人を見つけて日銀の総裁にし、日本のお国のために貨幣流通量を増やす方向に持っていくのだろうと思います。




 私が聞いたお話では(ウィキペディアの高橋是清さんのページにも記載されていますが)、戦前にこのようなデフレ状態になったときに、日露戦争の戦費調達で一躍有名になった高橋是清さんが、ちょうど大蔵大臣に就任して貨幣流通量を増やし、このデフレを克服したというものでした。

 そしてたいへん優秀だった高橋是清さんでしたが、通貨大量発行によりデフレ経済を大方克服したあと、今度は当然のことながらインフレの傾向が見られたため、当然の処置として通貨発行量を逆に引き締めにかかりました。

 ところがこれにより予算を削減された陸軍の、国の大きな経済が理解できない青年将校たちに恨まれてしまい、陸軍内部の争いに発するニ・ニ六事件に巻き込まれまして、お気の毒にも暗殺されてしまうのですね。


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      【2013.3.30 追記】
 経済雑誌 WEDGE(ウェッジ)の2013年 3月号 60~61ページに渡って 「日銀総裁はなぜもっと早く辞任しなかった?」 という掲載記事が載っていまして、実に面白いことが書かれていました。その記事自体は2ページに渡って早稲田大学教授の原田泰さんという方が書かれているのですが、要約すると、
 

 地方の地銀のなかには、銀行資産の大半がデフレ期に購入した長期の日本国債??というところがあるらしく、もし景気が良くなってデフレを脱却し金利も上昇すれば、デフレ経済に苦しむ大多数の国民は助かるが、長期の国債をたくさん保有している地銀は大損害をこうむるのは必定で、そうならないよう金融を引き締め続けて、絶対に日本経済がインフレにならないようにしている…といった内容でした。

 私はこれらの専門家ではないのでこの記事の真偽のほどは判断できませんが、この論評のとおり確かに日銀は決して金融の専門家などではなく、「銀行の利害の代理人」 という指摘は正しいでしょうね。

 そして記事では、さらにあの福島の原発事故のことも取り上げていましたが、日本の場合「○○の専門家」といった場合、業界の利害の代理人という場合が非常に多い、という指摘は的を得ていると思います。


 20年ほども続いているこのデフレ経済、国民不在のこのおかしな日銀の金融政策について、真剣に考えた総理(現 安倍総理)がようやく現れて、この日銀(理論)のまやかしを見抜き、やっとこの白川総裁を辞任させ(実質罷免だが)、経済の舵切りの方向転換がなされました。
                     …と、この論評記事はこう結んでいました。



 ここからはあくまで私個人的な主張ですが、
だいたい通貨量のコントロールを政府が管理していない国なんてあるでしょうか?

 まあ戦前の軍国主義一色だった時の日本や、無秩序に通貨を乱発し経済危機を招いたギリシャ(GDPの5倍ほども通貨を発行していたらしい) などの国ならばいざ知らず、国民不在のこんな日銀なんて全くもって無用の長物で、役人のポストだけが増えてやつらを養っているだけなので、こんな無用な長物はとっとと潰してしまったほうが良いです。

 頭脳も明晰、かつ現実界にも強かった聖徳太子とは違い、こんな学校頭の人間ばかりで実社会には全く役立たない、自己保身と事なかれ主義ばかりの日銀の幹部連中なんて、総裁だけでなく一人残らず全員罷免すべき!でしょう。


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   ここまでは聖徳太子像の印刷された一万円札のお話から、
   現在の日本のデフレ経済へつながるお話でしたが、

 もともと今回のブログは、日本の礎を築いた聖徳太子が残したものの一つに、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺がありますが、先日の2012.4.16の日にそこを訪ねたので、合わせて日本国家の礎を築いた聖徳太子について取り上げようと思います。


            (桜が咲いていた西院伽藍と五重塔 : 筆者撮影)


              (西院伽藍の大講堂 : ウィキペディアより)




 先ほど、日本のデフレ経済が深刻で、しかも動かない日銀のせいで、より状況を深刻にしている…という話でしたが、実は聖徳太子が生きていた時代(574年生~622年没)も、学校の歴史の授業ではまず教えないが、どうやら今と変わらない深刻な世の中の状況だったようです。

            (4世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)


            (6世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)


 時は西暦554年、当時の朝鮮半島は一触触発状態だったようで、日本と仲が良かった百済(くだら)が新羅(しらぎ)に攻められて聖明王が敗死。その8年後の562年には、任那(みまな)全土が新羅に奪われ任那日本府も滅亡しました。


 それまで持っていた朝鮮半島の拠点を失った日本は、新羅が攻めてくるかもしれない危機感もあったのですが、遣隋使という使節を派遣することにより、巨大国家の隋と対等な国家外交を実現するとともに、合わせて隋の情勢も探っていましたが、その隋も二代目の相次ぐ失政(追記 : 主な原因は高句麗侵攻に失敗)により国力を落とし、ついに618年に李 淵(り えん)が唐を建国します。

            (7世紀後半の半島勢力図 : ウィキペディアより)



 それから少し後の半世紀後の660年、強大な国力をつけた唐が新羅に加担し連合軍として、まず百済を攻めてこれを滅ぼしました。これはお隣の強国 高句麗よりも攻撃しやすかったので先に手をつけた、ということでしょうか。

 それから8年後の668年、唐と新羅は長らく敵対していた高句麗を滅ぼしていますね。

 またその前後の663年には、有名な白村江(はくすきのえ)の戦いで、日本側の作戦の不手際?なのか、とにかくも唐・新羅連合軍に倭国(日本)は大敗して引き上げることになります。


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             【2017.10.8 追記】
 つい最近まで、最も弱小だった新羅が朝鮮半島を統一できた理由、及び日本が白村江の戦いで負けた理由が私には分かりませんでしたが、中国からの帰化人であられる石平さんが 「韓民族こそ歴史の加害者である」 という本で、日本人になりかわり見事にこれらを解明してくれました。


 日本人の歴史学者やマスゴミは、自虐史観に毒されているバカな学者ばかりで、このような内容の本など出版されることもなく本当に腹立たしいが、百済の将軍に娘を殺害された新羅皇族の金春秋、後の武烈王が、当時の大国であった唐にさかんに働きかけ、とうとう唐の軍隊を引っ張り出して百済を滅ぼしてしまいます。

 つまりこの時から恐るべき半島民族の事大主義が始まったわけです。
 



 ここで滅ぼされてしまった百済国ですが、当時日本に人質に取られていた百済の王子である扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)を帰国させて王とし、さらに大軍の日本軍まで応援させてやったのに、このアホな王子、やはり半島人の血を引いているのか、せっかく百済復興にと立ち上がった同じ皇室の鬼室 福信(きしつ ふくしん)を、内部の内輪もめか妬みが原因かは知らぬが、何故か殺害してしまいます。

 これがもとで百済軍は総崩れとなり、なんとこの扶余豊璋はわずかな部下と共になんと高句麗国内へと逃亡したようです。そして残された日本軍が唐軍にやられて悲惨な結果になったのが白村江の戦いの真相のようです。




 左翼史観に固まった日本の文科省や教科書会社はこれらの真実をフタしているが、現代まで続く半島民族の節操のなさや二枚舌外交は、すでにこの時から存在していたようです。

 その後700年も続いていた高句麗末期に出た、あの有名な淵蓋蘇文(えん がいそぶん、ヨンゲソムン)は、見事侵略してきた唐軍を何度も撃退したものの、残された3人の息子が仲間割れし、追い出された長男がなんと敵軍の唐に降伏して、しかもなんと逆に高句麗侵攻に買ってでて、とうとう700年も続いた高句麗が滅ぼされてしまいました。

 自己保身のためには自らの国を自ら滅ぼすという、日本人の感覚からは信じられないようなことをやりのけたこの人物=淵男建、最悪な人物です。

 


 半島国家で自主独立を貫いた強力な軍事国家だった高句麗でしたが、滅んだことにより防波堤役を果たしていた高句麗はなくなったので、新羅は大陸国家の侵略をモロに受けることになりました。その高句麗の遺民たちは高麗川とか高麗神社とかありますように、主に日本の関東地区へと逃れて鎌倉武士へとつながっていきますね。

 まあ半島人は自ら防波堤を壊すというようなことをしてアホと言えば非常にアホですが、これは現代の韓国と北朝鮮の外交政策も同様ですね。

                           追記はここまで。


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 ただネットを徘徊していますと、次のような記事を見つけました。
    「唐」・「新羅」との戦いについて
  リンク先はこちら → http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body238.html

 このリンク先の内容を要約すれば、北九州の豪族の王? が敵方に囚われたので、これを救出すべく主に九州の軍勢が参加したのが、この白村江の戦いだというのです。

 私は歴史学者ではないので詳細なことは分からないけれど、この白村江の敗北の衝撃は大きかったらしく、当時の天皇、つまり天智天皇(蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子)は、唐・新羅軍が日本に攻めてこないよう、聖徳太子の遺志を受け継ぎ防備を固め国家の体制作りを急ぐことになります。



 この頃の大陸の歴史の興亡(五胡十六国とその後の時代)についてはかなり複雑なようで、韓半島の三国、高句麗・百済・新羅と、大陸側にある鮮卑族の後燕、また北魏、隋、その後の唐などの興亡が、少なからず我が国の政治体制を変革せざろう得ない状況になっていったように思えます。

 そしてそのすぐ後に起こった白村江の戦いに倭国と百済連合は負けたことにより、とにかく攻めてきた時にこれを防ぐことを念頭に、国防を第一とした日本初の中央集権国家へと脱皮が図られました。


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 では少し前の日本の国内はというと、中央では蘇我氏を始めとして物部氏とかの豪族たちが派閥争い・権力闘争をしている状態のようでした。そういうような日本のお隣の大陸が騒がしいときに、女帝・推古(すいこ)天皇と厩戸(うまやど)の王子と呼ばれた聖徳太子が中央政界に登場してきます。
 


 女帝と言えば、三韓征伐で有名な神功皇后(じんぐうこうごう:在位 201-269年)も、昔は15代天皇として数えられていて、応神天皇(おうじんてんのう)の母であり、実質初の女性天皇といえそうです。魏志倭人伝の卑弥呼は、実はこの神功皇后のことを指しているとも言われていますね。

 今年(2012年)は古事記編纂1300年目ということで古事記が脚光を浴びていますが、その古事記や日本書紀には、
  「九州で反乱した熊襲の背後には、新羅があるからそれをたたけ」
という神託が神功皇后に降りたが、その夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、それを全く? 信じなかったために、そのまま即死したと記述されています。


 それで夫を亡くしたあとの神功皇后は、軍の士気が下がってはいけないからと、後の応神天皇を身ごもっていたのを皆に隠したまま実は死んだことにし、男装して三韓征伐(さんかんせいばつ)に出かけ、強烈な風雨を伴って新羅に行き戦わずして新羅を圧倒し勝利して凱旋します。


    (三韓征伐に赴く神功皇后 / 1880年 月岡芳年による版画・ウィキペディア)



 古事記によると、その後無事生まれた神功皇后のお子様である品陀和気命(ほむだわけのみこと)、後の応神天皇になるお子様は無事成長し、いよいよ天皇に即位する段階になって、過去に死んでいるとされたので 「穢れている(けがれている) との神託がおり、天皇即位を拒まれます。

 そうして母の神功皇后、福井県の敦賀にある気比(けひ)神宮にて宣りなおし(のりなおし)て神より許され、第15代天皇として息子の応神天皇が即位することになります。

(神宮皇后が穢れを祓い宣りなおしたとされる、福井県敦賀にある気比神宮:ウィキペディア)



 神に懺悔し反省して許していただく、というおおらかで咀嚼力のある 「宣りなおしの精神」 は、もうこの頃には日本人の精神文化の中にしっかりと根付いていたようで、中国大陸や朝鮮半島の王朝のようにいつの時代も絶えず皆殺し、というような残虐極まる行為は日本の歴史ではほとんどありませんね。  

  この一点だけを見ても、
 どちらがより軍国主義なのか分かろうというものです。


 
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 そしてそれから約350年後、また似たような状況のときに、今度は女帝の推古天皇(すいこてんのう)が即位し、その参謀として抜擢したのが甥にあたる聖徳太子です。

 もちろん聖徳太子自らが天皇になることも出来たのかもしれませんが、あえて影から補佐する摂政という道を選んだのだと思います。
    
     (女帝 推古天皇:在位 593-628年)       (摂政 聖徳太子:在官 593-622年)
 


 で、不穏な大陸の動きに合わせ、国防を充実させるべく国家体制への整備を急いでいくわけですが、その中で門閥にとらわれず優秀な人材を採用するべく冠位十二階制度を作ったり、
 派閥争いに明け暮れている貴族たちに言い聞かせるように「和をもって尊しとなす」というような、十七条憲法を作ったりして、貴族の門閥政治から中央集権国家への脱皮を図ろうとします。

 でも結局、聖徳太子のやろうとした改革は太子の生存中には完成せず、その次の世代になる中大兄皇子、後の天智天皇(てんち てんのう)に聖徳太子の遺志は引き継がれて、大化の改新により、とりあえず太子の遺志はほぼ完成したようです。




 また聖徳太子は自分の子や孫が自ら門閥政治をしないよう、
 自分のお墓に わざわざ子孫が断絶するような! 墓相の墓 を建てています。

    (聖徳太子が祭られている、いや聖徳太子の墓がある叡福寺 磯長の門前)



           未だ参詣者が絶えない、磯長(しなが)にある聖徳太子の御廟(ごびょう)
       



 (大阪府南河内郡太子町 叡福寺にある聖徳太子の御廟所 : 3枚とも筆者撮影)




その子孫が断絶する墓相の通り、のちに蘇我入鹿は聖徳太子の子供であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲って皆殺しにしようとしますね。入鹿の軍に追い詰められた山背大兄王、いったんは聖徳太子が毘沙門天像を自ら彫り、伽藍を築いたとされる信貴山(しぎさん)のある生駒山に無事逃げ延びました。

     (山背大兄王がいったんは逃げたとされる信貴山 : ウィキペディアより)


       
  (創建当時の呼び名は分からないが、聖徳太子が創建したとされる朝護孫子寺:ウィキペディア)



 けれどもここからがなんとも不思議なのですが、
    父の聖徳太子の門閥政治をしないように、という遺志を尊重したのか、
    はたまた父 聖徳太子から夢のお告げでもあったのか、

 お父さんの、聖徳太子が自ら建てた斑鳩寺、つまり法隆寺になぜか戻り、そして周りの関係ない人々を戦に巻き込みたくない…と思ったのか、あえて入鹿と一戦を交えることさえなく、一族郎党みな自決する道を選びまして、聖徳太子の直系(上宮王家)は、家系断絶の墓相の通りに! ここで途絶えてしまうことになります。



 日本書紀によると、蘇我入鹿の父であった蘇我蝦夷(そがのえみし)は、「これはやりすぎだ」と嘆いたと伝えています。 そして中大兄皇子、宮中にて横暴きわまる蘇我入鹿を殺害し、それを見た父の蝦夷は自らの邸に火をつけて自害して果てたことにより、これでようやく門閥政治は終わりを告げました。

 蘇我入鹿のおじいさんにあたる蘇我馬子も、自分の思い通りにならない天皇を殺害までしていたので、蘇我一族は対立していた物部守屋を滅ぼしたあと、あまりにも横暴すぎた報いを受けたといえばそれまでですが、お隣の大陸が隋から唐へと動乱が続いているときに、内輪もめなどしている場合ではなかったはずですね。




 それと私からあえてひとこと、
 聖徳太子について今回いろいろ調べているとよく目に付いたのが、梅原猛さんが 「聖徳太子の呪い…うんぬんかんぬん」 なんて、本などで言っていることです。

 日本の礎を築いた聖徳太子、

 神道・仏教・儒教を深く修め、自ら天皇にもなれたのにもかかわらずその道はあえて推古天皇(女帝)に譲り、
 しかも自らの家系を断絶させてまで、日本の国と政治と国民の行く末を思いはかった聖徳太子、

 どう考えても、決して個人的な恨みなんてするような度量の狭いお方ではないですよね



 「恨み・呪い…」うんぬんかんぬんなどと言っている梅原猛、こういっちゃなんですが、肩書きだけはとても立派なのかもしれないが、全くもって読みが浅いです。

 これでよく哲学者だと世間から評価されているのには本当に笑っちゃいますが、至誠 という言葉の意味が全く分からないのでしょうね、いや自ら命を投げ出すようなことも無かったのでしょう、きっと。

 明治維新の原動力となった幕末の吉田松陰のほうがよほど立派ですよ。

 
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


それから、その後、強大になった唐の情勢を絶えず探るべく、遣隋使にかわり遣唐使が派遣されることになります。大陸文化の輸入というより、情報収集の側面が強かったように言われています。

           (復元された遣唐使 : 上海万博・ウィキペディアより)


 またこの当時、新たに建国された「渤海国(ぼっかいこく:698年~926年)」との通商も、日本への渤海からの朝貢という形で行われたらしいです(35回も日本へ来たらしい)。そしてこれらも大陸・半島情勢の情報交換の側面が強かったようです(豊田隆雄著 本当は怖ろしい韓国の歴史より)。

           (8~9世紀ごろの半島勢力図 : ウィキペディアより)



そして時は進み、755~763年に唐の国で起こった安史の乱(あんしのらん)で、唐の国力は大いに落ちて、もう日本への侵略はないと確信した菅原道真公(845生~903年没)によって、894年に遣唐使は廃止され、さらに大幅な武装解除も行われて日本の国家財政は大幅に好転しました。

        (宇多法皇に別れを告げる道真公 : 北野天神縁起絵巻より)



 こののちに天神となる、優秀だった道真公をねたんだのが時の左大臣藤原時平で、要は自分よりはるかに優秀だった菅原道真公を、出世のジャマだといって讒言し太宰府という僻地へと左遷させてしまうのですね。実に鼻持ちならない嫌なやつですが、ここでも聖徳太子の思いはなかなか通じなかったですね。

     (930年7月24日 京都御所の清涼殿を襲う雷 : 北野天神縁起絵巻より)


そしてその藤原時平、やはりやってきた行いも心持も良くなかったためなのか、39歳という若さであの世へといくことになります。

 また菅原道真公を最終的に左遷させた醍醐天皇へ、自らの娘を嫁がせて生まれた男子はことごとく病死してしまい、時平系統の藤原北家は力を失うことになります。しかも醍醐天皇自身もこの清涼殿落雷事件で体調を崩して三ヵ月後に崩御してしまいます。


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 それから聖徳太子は政治だけではなしに、当時神道しかなかった?倭国(日本)に、仏教を取り入れ民衆の強化も図ろうとします。現代でいうなら教育事業みたいなものです。

 仏教伝来は公式には538年とも552年ともいわれておりますが、教理経論がない神道(しんとう)に対し、仏教は膨大な教え=経典がありました。 そのもたらされた膨大な仏教経典の中から、日本人の特性と文化に合うものとして聖徳太子は3つだけ選びました。

 それは法華経(ほけきょう)と維摩経(ゆいまきょう)と勝鬘経(しょうまんきょう)です。そして、その選んだ三つのお経の解説書まで後に自ら書いていますが、それが有名な三経義疏(さんぎょうぎしょ)です。




 法華経といえば、どうもあの「南無妙法蓮華経」を唱えた鎌倉時代の僧、強烈な日蓮を連想しがちですが、お経自体は世の中を良くしていこう、といった内容が書かれているようです。ちなみに観音経もこの法華経の中に含まれていますね(普門品第二十五)。

 次に勝鬘経(しょうまんきょう)は、勝鬘夫人という出家していなくて、在家の女性の方の仏道修行への誓いというような内容が書かれているみたいです。昔は特に仏教では女性は卑しいものとして見る事が多かったが(女人禁制など)、これに真っ向から異議をとなえたのが聖徳太子だということでしょう。

 そして私が一番面白く感じまた笑ってしまうのが、残るこの維摩経(ゆいまきょう)というお経ですね。




 今回訪ねた最初期の頃の仏教寺院といえる法隆寺は、

 元は用明天皇が自らの病気平癒のためのお寺ということで作り始めたのだけど、用明天皇はほどなくお亡くなりになったので、その遺志を推古天皇と聖徳太子が受け継いで、当時あった飛鳥の都からちょうど神の位(天位)とされる北西の位置にあたる斑鳩の地にお寺を作ったのが、今に残る世界最古の木造建築「法隆寺」です。

 まあ斑鳩の地は、現代で言うパワースポットの地にあたるとでもいいましょうか。


そしてこの素晴らしい仏教寺院の法隆寺が建てられたことにより、その後日本の各地に大なり小なりはあるけれど、仏教寺院が建立され飛鳥文化が現代にまで末永く残っていくことになります。

(法隆寺の五重塔・筆者撮影 / それぞれの正面入口には仏教にちなんだ彫り物がある)


 その五重塔の4つの面のそれぞれ正面入口をみると、お釈迦様や仏教にちなんだ、立体的な彫り物があるのですが、そのうちの東側の入口には維摩経に書かれていますが、文殊菩薩が維摩居士の邸宅にお見舞いに行き、そして二人で問答を交わしているところが、わざわざ粘土のような彫り物(塑造:そぞう)として残されています。


 その聖徳太子も高く評価したという維摩経(ゆいまきょう)の中身というのが、

 あるところに維摩という、出家しないで在家のまま深く仏道に帰依する者=居士(こじ)の方がおられて、この維摩居士、大金持ちで広大な邸宅を持ち召使もたくさん、そして色街にも繰り出すというような人物なのですが、悟りの深さはお釈迦様並で、したがってお釈迦様の十大弟子は、有無を言うことが出来ないぐらいに、ことごとく維摩に論破されやられてしまうのですね。

 お経と言えば、読めないような漢文がえんえんと続く面白くないイメージですが、筆者がネットを徘徊して見つけたのが、下記の【関連情報URL】 にご案内している維摩経の現代の日本語訳のホームページで、
 こちらは内容がちょっと脚色しすぎですが、現代風にアレンジされた維摩経の口語訳が記載されていまして、普通の物語として楽しみながら読むことが出来のでぜひおすすめです。



    その維摩さん、
    あるとき仮病を使って説法をしようと考え、病気で寝込んでいるということにしました。

 そうするとたくさんの方がお見舞いに来てくれまして、そこで説法をしたのですが、それをお釈迦様が察知いたしまして、自分の十大弟子を含む500人の門徒に、維摩さんのところへお見舞いに行くよう頼むのですが、みんな以前に維摩にこっぴどくやられていたので、難くせをつけて誰一人として維摩のところへお見舞いに行こうとはしません。

    そこで最後にお釈迦様のお願いを引き受けたのが、
    最も知恵が深いといわれた文殊(もんじゅ)菩薩でした。

 文殊菩薩 対 維摩との論争ということでこれは見ものだと、あれほど維摩のところへ行くのを嫌がっていたお釈迦様の大勢の弟子たちは、文殊菩薩が維摩邸へお見舞いに行くときに、後ろからゾロゾロとついていくことになります。




 その文殊菩薩と維摩との二人の会話の内容は非常に長いので、下記の 【関連情報URL】 をクリックしてじっくり読んでいただくとして、この維摩経の中身はかなり深遠で、現代語訳を読んでいてもけっこう考えさせるところがありますよ。

 出家せず在家でどうやって深く悟っていくのか、はたまた仏教の真実の教えはこれだと、いろいろな例えをあげて維摩さん熱く語っておられますが、最後には「維摩の真実の教えはこれだ!」といって、もう言葉を超え無言の世界への問答へと突き進んでいきます。

 その維摩経の中身ですが、読めばなにかひとつのおとぎ話のような感じではございますが、ひょっとするとお釈迦様が生きていた時代のインドに、維摩のモデルになるような人物がいたのかもしれませんね~。




 ちなみに五重塔の東面にあります、維摩と文殊菩薩との問答の場面を表現している下写真の塑造は撮影禁止だったため、とあるページから画像を拝借しました。

 (法隆寺五重塔の東面にある維摩居士と文殊菩薩との問答の場面 : とあるネットより)


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 で結局、聖徳太子は特に外国からの国防の危機を乗り切るために中央集権的な国家を構築して、国力の増大と主に防衛体制の強化を図ろうとし、

 今まで日本(当時は倭国)には、古来からの神道しかなかったのを新たに仏教も取り入れたうえで、さらに神道との融和を図り(神仏習合-これは江戸末期まで続く)、仏教の教えを通して末端の人まで教育していこうとし、

 冠位十二階制度や十七条憲法を通して、身分にこだわらず優れた人材を登用しようとしたり、儒教の精神を持って人としての道(特に為政者)を示し、蘇我氏みたいな強欲・強権的な貴族を諭そうとしたりもしました。




 特に微妙な宗教の問題は、聖徳太子がうまく神道と仏教と儒教との融和を図り、教えがなかった神道に仏教の教えがもたらされました。
 そしてうまく神儒仏の融和をおこなったおかげで、同じキリスト教国でありながら、カトリックとプロテスタントが強烈に何百年も宗教戦争をしている、というようなことは日本では起こらずに済みました。

 ゆえに聖徳太子が日本仏教の祖とあがめられている由縁ですね。



 またその後、達磨大師が始めたとされるインド禅(禅宗)が中国にもたらされ、「本来無一物」で有名な六祖慧能(えのう)禅師によって生活に密着した中国禅(南禅)となっていきます。

 それが鎌倉期に日本にもたらされ、その次の時代の室町期になると日本の禅宗となって開花し、お茶・お華・歌舞伎・田楽・書道・書院造りなどと禅宗とが結びついていき、以前の銀閣寺のブログでも触れましたように、さらに独自の日本文化が花開いていくことになります。


  (日本独自の文化が花開いた室町期中期に建てられた京都 銀閣寺 : 筆者撮影)

       
                   (ウィキペディアに掲載されている雪を頂いた銀閣寺)




        (筆者が撮影した雪景色の銀閣寺 : 2017.1.16撮影)



  (和風建築を代表する書斎 この写真は東求堂の同仁斎 : 筆者所有の絵葉書より)

 
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 法隆寺には現在、五重塔で有名な西院伽藍と、それから大宝蔵院、そして東院伽藍(とういんがらん)の3つからなっていますが、下3枚の写真は聖徳太子自身を祀っている東院伽藍からのものです。
 
 前にも触れましたが、聖徳太子の跡継ぎだった山背大兄王の上宮王家(じょうぐうおうけ)の皆様が蘇我入鹿に攻められて、この斑鳩の地で自決して聖徳太子の直系が途絶えた後、ここ斑鳩宮・法隆寺は荒れ果てたままだったそうですが、約100年後に僧・行信が東院の再興に尽力したそうです。


現存する八角形の夢殿の原型は、聖徳太子の頃にはすでに建てられていたのでしょうね、恐らく。

              (法隆寺 東院大伽藍の四脚門 : 筆者撮影)     


            (法隆寺 夢殿外観 : 2014.7.28 筆者撮影)




 1884(明治17)年、岡倉天心とフェノロサの2人が、自分たちはたたりを受けてもいいからと、1000年? 以上も白い布で巻かれていた秘仏の救世観音像を、布をはがして世に現したことはあまりにも有名です。

 現在でも聖徳太子像だといわれているこの救世観音は秘仏扱いで、年2回の春と秋に期間を決めて公開しています。筆者ももちろん今回初めて拝見しましたが、残念ながら個別の写真撮影は禁止となっているので、ここに掲載するにあたりとあるネットにあった画像をお借りしました。


 法隆寺が発行(編集は小学館)し、ご当地で販売している本「法隆寺」を買いますと、この中にはたくさんの秘仏の写真が鮮明な画像で記載されていますので、ご興味のある方は法隆寺境内でお求めになってくださいね。

(法隆寺夢殿 救世観音像 : とあるネットより)
 
Posted at 2012/04/25 22:18:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | その他
2012年04月23日 イイね!

2012.4.22 第2回中国コンテオフ会 (蒜山高原 風の家にて)

2012.4.22 第2回中国コンテオフ会 (蒜山高原 風の家にて) 
 事前の天気予報では、この4/22、最悪の予報が出ていました。

 オフ会の開催日の前日も翌日もそんなに悪い天気でなかったのに、なぜかこの当日だけは2つもの低気圧が、日本海側と太平洋側の南北にそれぞれ位置するという最悪のような気圧配置で、オフ会自体の開催もかなり危ぶまれました。


 それでも、オフ会ご参加予定の皆様、この日に向けて日程を調整された方もおられましたので、主催のミリコンテさんが開催しようと判断され、私も少し体調が悪かったけど、愛馬コンテRS号を蒜山高原へと向けて走らせました。

 蒜山(ひるぜん)高原は、鳥取県の大山のふもとに位置する高原地で、標高は500m?くらいはあり、もちろん豪雪地帯なのですが、もうこの時期になりますとさすがに雪は残っておらず、渋滞もなくスムーズに集合場所の道の駅に到着しました。

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 最も心配していました雨はほとんど降りませんでしたが、蒜山は山のくぼ地みたいなところのせいか、とにかく台風なみの強烈な風が吹き、参加者の中には薄着の方もおられて、体感温度はかなり寒く感じられました。

 帰宅後に見たニュースでは、鳥取県大山町内の山陰自動車道で大型車が横転したことを報じていました。そしてこの小雨と大風のせいで、お車の中とかあまり観察できなかったのが正直なところです。よって私の体調不良も重なって申し訳ないのですが今回は写真も少な目です。


 前回の鞆の浦オフの時には、埼玉県から角鹿RSさんが来られてビックリでしたが、今回もみんカラのオフ会の開催記事を見たからと、奈良県からグレンタ8さんがご参加してくださり、四国側からもけんじさんと、はるばる高知県からレン88さんもご参加され、今回初参加の星桃太郎さんも含めまして、この悪天候の中にもかかわらず6台も集合してくださいました。





 この焼きそばの写真は、集合場所の道の駅・風の家の軽食コーナーで食べた、岡山B級グルメのひるぜん焼きそばです。

 私は食べ物には詳しくないのでうまく説明できないけどお味は、ソースが焼きそばというよりホルモン焼きのたれのような独特な味付けのようでした。麺は太めですがおいしかったですよ。

  

 そして、この悪天候(特に強風)のため幾人かの方は参加を断念されたとのことで、その挽回といいますかまだ日程は場所は決めていませんけど、もう一度中国コンテオフをしてもいいのでは、と思います。

 四国・近畿地区のご参加の方から、蒜山は遠すぎるとのご意見もありましたが、毎回オフ会の集合場所を決めるのに悩むところです。
 次回はいつするか全くわかりませんが、極力中国地区と四国地区と近畿地区の方が参加しやすいような、最大公約数的な場所がいいのではないかと思います。
  
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 次回のブログは、体調不良のため延び延びになったままになっている、桜が満開だった聖徳太子ゆかりの奈良斑鳩にある法隆寺を、文面と散策しながら写した写真とを織り交ぜながらご紹介したいと思います。
 
Posted at 2012/04/23 23:31:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | オフ会関係 | クルマ
2012年04月11日 イイね!

ムーヴコンテカスタム マイナーチェンジ (2012.7.4 下部に追記です)

ムーヴコンテカスタム マイナーチェンジ (2012.7.4 下部に追記です)
某大型掲示板とかではすでに情報が上がっていましたが、

今日帰宅後ダイハツのムーヴコンテカスタムのホームページを見ていると、どうやらコンテカスタムはマイナーチェンジ(2012.4.9)されたようで、詳細はまだ不明ですがターボ車のRSにもアイドルストップが付いたようです。


 あとコンテRSの象徴だったMOMOステが標準搭載でなくなったのと、RSの2WD車でもフロントブレーキディスクが、冷却風の通り道がディスクの中にあるベンチレーティドディスクに変更になった模様です (ちなみに掲載写真はダイハツのホームページのもの)。

 RSのモモステ、私が2WDのRSを買うときには贅沢仕様だと思っていまして、電動シート廃止と普通のステアリングにしてその分安くしてくれたほうがいいのに、とRSの購入前は思っていました。


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 でも電動シートはともかく、長距離をずっと走っていて確かにモモステハンドルは高いなりに、とても握りやすくて使いやすく手も疲れにくいので、通勤で毎日乗ることもありこれけっこう重宝していますよ。


 今回のマイナーチェンジでは、これまでRSでは標準搭載だったMOMOステアリング搭載が廃止され、下位グレードと同じステアリングになりました。

 MOMOステをどうしても取り付けたい人は、純正アクセサリーカタログから53550円支払って、新たに別途購入し取り付けなければならなくなりました。

 しかも現代のハンドルはエアバックが仕込まれていて、袋を瞬時に膨らませるための火薬が内蔵されていることから、元のハンドルはメーカーに回収されてしまいます。もし販売対抗上、RSの販売価格を下げたいのであれば、MOMOステは新車注文時に選択できるメーカーオプション扱いにするぐらいの配慮が欲しいですね。


 またアイドルストップの機構にお金がかかかってしまい、
 その分は装備の簡略化で補って販売価格が上がらないようにしたともとれますね。

  (新型では非搭載になったコンテカスタムRSのMOMOステアリング : 筆者のRS)


 それと合わせて、この車の電子パワステは油圧パワステと同じように違和感がなくて、よく出来ているのも運転が疲れにくくなっている大きな要素でしょうか。

 これはあくまで私の主観ですが、
フロントのシートの出来といい、モモステといい、長時間・長距離を乗っている私としては、へたなコンパクトカーよりずっと疲れにくくて、長距離の運転がかなり楽になりました。ただし私がコンテRSを購入した頃の車両価格はコンパクトカーよりも高かったですが。


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 ところで先のモチュールのエンジンオイルのブログで触れたように、「エンジンを回した後は人間ターボタイマーをせよ」、と私のコンテの取扱説明書には書かれていたのですが、アイドルストップ機構搭載のターボ車ではこの問題をどう解決したのでしょうね。そちらのほうがとても気になりますね。


 以前私のRS車で山中湖ほかでテストしましたが、エアコンを使わなければ丸一日中アイドリングを続けても、ガソリンは10L前後の使用 (外気温とかにもよりますが、多めに見積もったとしても12L以下みたい) のようです。

 アイドルストップ車のバッテリーは、市販品ではなく特殊なものを使っているようで (ムーヴカスタムの取説ではM-42と記載がある)、バッテリー代がかなり高ければ、あまりメリットがなさそうですが実際はどうなのでしょう。ちなみに部品単価を調べてみるとこの純正OEMのバッテリーは1万何千円かはするようですよ。


                  (ムーヴカスタムの取扱説明書)


 私の以前のブログでも触れましたが、代車で乗った最新のムーヴカスタムGのアイドルストップ車、真夏の暑いときに信号待ちで止まると、バッテリー容量の加減なのかエアコンが自動的に切れて送風モードになっていましたが、とても耐えられないのでアイドルストップは速攻でオフにしていました。


 ところがこのアイドルオフスイッチ、ムーヴカスタムGでは固定式ではなかったので、エンジンを切るとまたもとの設定に戻ってしまい、信号待ちなどで停車するとまたエアコンが切れるというふうになっています。

 エコカー補助金のからむ、わずかなカタログ燃費表示のアップのために、こんな物はいらないと私は正直思いましたが、ご時勢なので仕方ないとはいえ、とにかく夏場はエアコンが切れると暑くてたまらないので、せめて固定式のアイドルストップの選択スイッチにするべきだと思いましたね。


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 逆に冬場の極寒地では私は乗っていませんがどうなのでしょう。

 今年の1月の末ごろ、我が愛馬のコンテRSで極寒の長野県北部や山梨県の山中湖とかに行き、-10℃とか-15℃とかを体験しましたが、あまりにも寒くて暖房はオートエアコンを使用せずもちろん最強のHiの設定でしたが、エアコンを入れておかないと走行中は窓ガラスが曇って仕方なかったですね。

 極寒地などでは、もしかするとアイドルストップは自動的にオフになる?のかもしれませんが、山中湖あたりの標高の高い山梨県の富士吉田市あたりや、札幌とかの北海道内なら平気で-10℃以下になるような土地柄で、アイドルストップを渋滞とかで絶えず行うと弊害が多そうな気もしますね。

 あまりの寒さのため、エンジンがすぐ冷えてしまって暖房の効きが悪くなったり、エンジンを切ったり・動かしたりすることからブローバイガスが発生したり、水滴が発生してオイルに混ざったりしないのか、実験室レベルではともかく、現実の街中(例えば札幌や東北とか)ではどうなのでしょうね。

 実際ところはどうなのか、ムーヴカスタムGのフィーリングの悪いと思えた電子スロットルと同じになったのかどうかと合わせてとても気になります。


 国も本当にエコを追求し燃費を良くしたいのなら、エコカー補助金をばら撒くより (これは実質、景気対策としか思えないが)、衝突安全性の追求で車体が重くなってしまって、現状とミスマッチな軽自動車の排気量を、諸外国の小型車では一般的な800cc?か、もしくは990cc程度まで排気量制限を緩和するべきでしょうね。

 これだけ軽四が普及してしまったのだから、特に軽四NA車の不足していると思われる低速トルクを増やして燃費の底上げをしたほうが、アイドルストップなどよりよほどエコになると思うのは私だけでしょうか。

 
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      【2012.7.4 コンテカスタムRSの新エンジンについての追記です】

 約1ヶ月ほど前、我がコンテRS号は三角窓風切音対策部品に交換するためにディーラーへ二日ばかり入院することになり、その代車としてやって来たのが最新のタントカスタムRSの4WD車でした。もちろんターボ付きです。

 ダイハツの最新の軽ターボエンジンのKF-DETエンジン、以前当ブログの「ムーヴカスタムRSのマイナーチェンジ」のところで取り上げたことがありましたが、このたび実際に丸二日間たっぷりと乗車する機会に恵まれました。

 で、一度簡単におさらいいたしますと、

           旧コンテRS      新コンテRS      NA旧コンテ      NA新コンテ
 最高出力     64ps/6000rpm     64ps/6400rpm    58ps/7200rpm    52ps/6800rpm
 最大トルク 10.5kg・m/3000rpm  9.4kg・m/4000rpm  6.6kg・m/4000rpm  6.1kg・m/5200rpm
                               となっていまして、

  最大出力はRSのターボ車の場合、製造メーカーによる自主規制表示により、
      たとえ64馬力(ps)以上出ていようとも、
     カタログ上は64psとしか表示しないことになっています。



 よってターボ車の最大馬力表示はあてにはなりませんが、シャシダイナモで測ったわけではありませんが、実際は最大馬力70~80psぐらいは出ていると思われます。ただし最大馬力時の回転数の数値は参考になるとは思います。

 NAエンジン搭載車は旧コンテでも58馬力、アイドルストップ式の最新型のコンテでは52馬力なので、こちらは馬力表示の自主規制値にも届いていないのでこれは関係ないですね。



 で注目したいのが最大トルクのほうでして、アイドルストップが付く前の普通のターボのコンテRSが10.5kg・mの最大トルク値が3000rpmで出ていて、軽四の場合はこれは街乗りに適した設定だと思われます。

 我がコンテRS号が一般道の平坦地で車の流れに沿って普通に停止状態から発進する際は、たいがい2000~2500rpm付近でエンジンが回っているので、最大トルク時の3000rpmはちょうどバランスが取れていることになります。


 ところが最新型のエコカー対応エンジンでは、ターボ車で最大トルク値が1.1kg・mも低下したうえに、最大トルクが発生するエンジン回転数がなんと4000rpm!となっています。

 つまり今までのコンテよりさらなるエコ対応に変更しただけで1000rpm!も余分にエンジンを回しても、それでもまだ今までのコンテRSよりもトルクがわずかに薄い状態です。

 エコ対応で燃焼ガソリンも一昔前の車と比べるとかなり薄くなってるのに、さらにますます薄くしたのか、不足しがちな低速トルクを回転数で補っているNAの軽四車と同じような手法!が取られています。



 カタログから数値を理論的に読み取るお話はここまでにして、実際に乗車する機会に恵まれましたのでその感想はといいますと、

やはりカタログの数値通りの結果で、このときの代車はタントのターボの4WD車だったのでコンテの2WDより150kgほど、つまり大人2人分ほど車体が重たいことを考慮しても、おおよそ500~800rpmぐらいは旧コンテRSよりもエンジンをより回さないと、車の流れに乗るのはしんどかったですね。

 やはり走りは少しもさっとした感じで、ターボ車なのに発進時は3000~3500rpmほど回していました。


 普通、街乗りの場合には特に出力条件の厳しい軽四車の場合、常用回転数の直上に最大トルクが来るのが一番乗りやすい特性だと思われますけど、旧式のコンテRSを含む以前のKF-DETのターボエンジンは、その当時の補助金適用をあきらめて軽四ターボ車としての走りに徹していますね。

 ちなみにターボ車なのにアイドルストップが初めてついた、現行のコンテカスタムRSのターボ車の最大トルク発生時の回転数4000rpmは、旧来のNAコンテやNAムーヴの最大トルク値6.6kg・m発生するときの回転数4000rpmと同一ですね。

 ということは現行ターボ車は、ひと昔前のNAのコンテやムーヴ等のKF-VEエンジンに近いぐらいにエンジンを回さなければ走れないようになった感じです。


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 ところで、2012年 8月号のマガジンXの中のP.24の 「ユーザーメリットに乏しいマイナーチェンジが横行」…のところで読んで初めて知ったのですが、

 ここで書かれていたことのひとつに、発売後6ヶ月しかたっていないのにすでにマイナーチェンジしたスズキのアルトエコが10kg軽量化したらしいのですが、この車はもともとアルトと同じ30Lの燃料タンクを使いながら、タンクの中?を細工して未だにガソリン容量を20Lに制限しているとのこと。


             (スズキのアルトエコ : carviewのサイトより)

 その理由は少しでも軽量化して燃費数値を向上するためらしい?のですが、いくらNAの軽四でも今時20Lの燃料タンクはないだろうと思いますが、サブカーとして買っても田舎ならスタンドは少ないし、しかも夜間は閉まっているところも多いし、新車を買うときに燃料タンクの容量までチェックして買う人はそう多くないと思います。

 普通のユーザー感覚ならたとえ8kg程度なら重たくなっても、小細工などやめてガソリンタンクの容量が20L→30Lになるほうが、よっぽど消費者のためになると思いますよね。


 批判の多かったダイハツのミライースのリヤーヘッドレストは、安全上の観点から装着可能になりましたが(上級グレードは標準装備になったが、それ以外はオブション扱い)、後席に絶対に人を乗せないのならいいが (そういう人は4ナンバー車を選択しますね)、こちらも安全性を犠牲にしての低価格化と軽量化のためなのでしょうね。


             (ダイハツのミライース : carviewのサイトより)


         (ヘッドレストのないミライースの後席 : carviewのサイトより)


 どちらにしましても、エコを追求することは確かにいいことではありますが、安全性や快適性をかなり落としたり装備を削ってまでのエコの追求は私ははだはだ疑問に思います。ここには記載しなかったけど、同雑誌にはいずれ義務化される横滑り防止装置まで削った例が挙げられていました。

 あまりにも行き過ぎたエコの追求=タイヤも含めて今のエコ制度のあり方には疑問点も多く、特に燃費計測はプロの専属ドライバーが操縦するので、これに合わせた設定だと現実には街乗りがやりにくい設定となることも多く、軽四のようにエンジンに余力がない車では、だんだん乗りにくい車となっていっています。

 あの変なエコカー減税制度もそうですが、国ももっと消費者の立場に立って!制度を決めてもらいたいのと、我々消費者側ももっとメーカー側にアピールする必要もありそうです。
2012年04月08日 イイね!

オイル交換の重要性 と モチュール H-TECH MULTI STANDARD 5W-40 エンジンオイル(2015.9.26 フォルクスワーゲン不正排ガス問題を追記)

オイル交換の重要性 と モチュール H-TECH MULTI STANDARD 5W-40 エンジンオイル(2015.9.26 フォルクスワーゲン不正排ガス問題を追記) 
 今日はとてもいい天気でしたが、ちょうど我がコンテくん55000kmになっちゃいました。

 55000kmの達成場所は自宅の近所だったため、今回は残念ながら達成場所の写真とカーナビ画面は未掲載といたしますが、あと5000kmも走れば、一般保障部品の保障期間が切れちゃいますね。




 で、今日は天候に恵まれたため、エンジンオイルを初めてDIYで交換しました。

 そしてもうすぐの今月4/22の日曜日に岡山県の蒜山(ひるぜん)高原にて、西のコンテオフ会も開催されるのでまた距離を走ることもあり、前回オイル交換をしてから4000km近く走ったのもあり、仕事休みの今日はオイル交換のいいタイミングだったようです。


   (2012.4.22日曜日の蒜山の西コンテオフ開催場所 : 筆者撮影)



     (MOTUL H-TECH MULTI STANDARD 5W-40外観 : 筆者撮影)


 今回当方がチョイスしたのは、前回お試しでリンクにも掲載しています京都市内にある 「車の修理屋たけしくん」 さんで入れた、モチュールの一般的な 「H-TECH 100 Plus 5W-30」 ではなく、もう少し高温側の性能が良い方の 「H-TECH Multi Standard 5W-40」のほうです。


        【2013.8.24 追記】
   このエンジンオイルはモデルチェンジしたらしく、API SNになって
  “H-Tech Prime  5W-40” という名の商品に引き継がれたようです。



 コンテのターボ車の純正指定は低温側が5Wなので、今回のオイルの選択には柔らか過ぎないのも考慮しました。といっても実際にこのオイルを触ってみると、かなりネバネバしています。

 我がコンテRS号はターボ車のため、ターボの風車(タービン)が回る軸受け(タービンシャフト)のところが流体軸受?なのか、ベアリング式なのか未確認ですが、どちらにしても1分間に10万回転!ともいわれる超高速でタービンが回る軸受部分の発熱はものすごく、この部分をエンジンオイルが循環することにより冷却しています。

 車種によっては(コンテRSも含む)、別立てで冷却水(LLC)の通路も設けて、エンジンオイルと合わせてタービンを冷却している場合もあります。



 こちらの写真は、我が車のターボーチャージャーの写真が用意できなかったので、
 ウィキペディアで掲載されていたのを代わりに掲載です。

          (ギャレット製のターボチャージャー : ウィキペディアより)


 よってコンテの取扱説明書には、
    「ターボのRS車は、登りの坂道を走った後、および高速道路の走行直後は、
                     いきなりエンジンを切らないでください」
                と書かれています。 俗に言う人間ターボタイマーですね。

    私の場合、高速のSAに入ったときなどは30秒~1分程度、
    アイドリングしてからエンジンを切るように心がけています。



 (ターボチャージャーのカットモデル  赤が排気側 青が吸気側 : ウィキペディアより)



 こういう事情なので、ターボ車はNA車と違ってオイル管理がとても厳しく、
 取扱説明書でも
    最大で!5000km以内(距離を走らない人は年2回)
                              での交換がしっかりと書かれています。

私は日本ではチョイ乗りが多いことを考えると、
  ターボ車の場合は、5000kmでの交換頻度でも長すぎると思いますが、
よく聞くところですが、ターボ系統の故障はたいがいオイル管理が悪いか、オイル粘度の選択ミスの事例が多いようですね。

   ちなみに取説では、ターボ機構搭載のムーヴコンテRS車での指定オイル粘度は、
      SJ級以上の5W-30 の一択となっています。



 当方は整備屋ではないので、劣化したオイルによるエンジン内のスラッジ満載写真や、オイル通路のパイプの目詰まり写真などは一切ありませんで、しかもフリー画像も入手できなかったので、とりあえずそれらが掲載されているホームページにリンクを貼っておきます。 
    http://members.jcom.home.ne.jp/lotas.ishiyama/tubuyaki2/tubuyaki2.htm
    http://takeshi-kun.seesaa.net/article/418694332.html#comment

もしどなたさまか、ここに掲載させていただけるスラッジまみれなどの写真をご提供してくださるようでしたら、お礼はできませんけどメッセかコメントなどでご一報くだされば助かります。


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        【2013.8.24 追記】
 ところで、ネットを徘徊中に見つけた記事の中に、最近の車 超低粘度の 0W-20 のエンジンオイルを使用するものが散見されますが、その真相というのが、どうやら省燃費が目的というより冷間始動時の排ガスのコールドテスト (日本では外気温0℃ 欧州では-10℃) での排ガスを減らすのが目的だとの記事です。

 これ私は全く知りませんでしたがなるほどと思いましたよ。

よってあくまでその記事によると、そのような目的で0W-20を導入しているので、極寒冷地でない限り、普通はエンジンの保護のために 5W-30 を使ったほうが良い
                     … と 記事(リンク) は結んでいました(0W-20の怪!)
  リンク先のURLはこちらです → http://www.poweraccel.co.jp/engineoil.html


  
      まあ、我がコンテのNA車でも 0W-20 と 5W-30 の両方の純正オイルが
      ラインナップされているのはそういう事情があったのですね。



 ところで、最近ネットを徘徊するとよく見る事例に、欧州車などはエンジンオイルは20000km交換だとか、トヨタ車でも取説には15000km(シビアコンディションの場合7500km)交換とか書かれているので、これの交換基準で十分だとのご意見です。

 特にヤフー知恵袋とかにこの手の回答がなぜか多いのですが、車のことを知らなそうないい加減な回答も多いが、これらの回答者の通りのオイル交換サイクルをおこなってトラブルが起こっても、回答者たちは非常に罪作りなことをしていますが誰も責任は取ってくれませんよ。



 もちろん過剰整備は満足度以外に全く無駄なだけですが、あくまで私個人的な意見では、
 欧州車の20000kmのエンジンオイル交換サイクル、寒暖の差が激しく高温多湿で、渋滞も多く、しかもチョイ乗りも多いこの日本での、この欧州の交換基準では車のエンジン、スラッジで汚れてしまうのではないかと思われます。

 しかも特に冬場の冷間始動やらチョイ乗りでは、どうしても燃焼室やブローバイから
 ガソリンの燃えカスやら結露した水分やらがエンジンオイル内に混じって酸化する
ので、特にこれでエンジンオイルが劣化! していきますね。

 使用するオイルの質にもよりますが、時々ネット上で見かける、先ほどご紹介したホームページのように、20000kmにも渡りエンジンオイルを交換せず (ここの事例は条件の厳しい軽ターボ車だが)、スラッジでコールタール状のヘドロがこびりついたお車のエンジン内の写真を見るたびに、エンジンオイルの交換基準ってなんなのか? と思ってしまいます。




 このエンジンオイル交換周期が何万キロという異常に長い設定は、環境問題といいながら
    実は10万キロぐらい乗れれば良い程度の設定に、
    車の製造メーカー側がしているのではないのか?
 
とも、あくまで私個人的な考えですが、巧妙ですが考えようによってはそう受け取れもできますよね。


 まあ新車からのエンジンなどの重要部品の保障もちょうど10万キロだし、この保障期間をクリアーできるギリギリの線が、このノーマルコンディションの15000kmというオイル交換周期なのかとも勘ぐってしまいます。

 不景気のせいなのか、昔ほど新車が売れなくなってロングライフ化が進んでいるのが最近の世の中の状況ですが、10万キロ付近で車が不調になればメーカーとしては新車が売れていいのだろうが、本来ならちゃんとメンテすればまだまだ乗れる車を廃車にするほうがよほどエコに反してます。



ところで車メーカーが指示しているメンテナンスデータ、
   これ聞くところによりますと、

  外気温22度 湿度60~70% 無風平坦路、
             時速60km/hでの一定走行
という、
とても信じられない好条件で走行した場合のテストデータらしいのです。


   日本の車メーカーのテストコースのフリー写真は入手できなかったので
                              BMWのものを掲載しました。

              (フランス ミラマにあるBMWのテストコース)


 でも日本国内の一般道、地方都市でも信号が多いし、ちょっと街になると時間帯によってはすぐ渋滞するし、広大な土地を有するアメリカやアウトバーンをずっと走り続けるドイツなどと比べると、高温多湿かつ冬場はかなり冷えるといったこの日本独特の国土、

     普通に乗っているだけでも、何もせずとも初めから
    “ シビアコンディションに相当” なんじゃないでしょうか。



 それとエンジンの設計思想の違いもあるのだろうけど、
 日本車のエンジンは欧州車と違い、走行中にエンジンオイルが飛んで減ってくる、なんてことは普通ならあまりないですね。私の175000km走ったコンテRSでも、走行によるオイル減少は今のところ全く見られません (2015.9現在)。
 したがって過去のものになりつつある2stバイクのように、大量に新品オイルを継ぎ足すこともないでしょう。

 よって適切なエンジンオイル交換時期、これさまざまな説が飛び交っていますが、
 停車回数やチョイ乗りも多く、気候変化の厳しいこの日本の国土なら、タクシーなどアイドリング時間が極端に長いとかの特殊な場合は除外するとして、普通ならシビアコンデション時期でのメンテナンスが適しているように思えます。


  環境を守るためにオイル交換基準が非常に長い、と謳っている欧州車、
  理想論ばかり掲げるその一方で、
走行中にどんどんエンジンオイルが、ガソリン(または軽油)と共に燃えて、大気中に拡散してしまう … これ、どちらが悪影響が多いか考えれば分かりそうです。

 そしてこのことは、ヨーロッパに酸性雨が多いことと無縁ではないでしょうね。

 それにオイルレベルゲージもなく、日本車に比べ電子部品の信頼性もいまいち低いのに、
        警告表示だけと言うのも私から見ればちょっと不安を感じるところです。




         【2015.9.26 追記】
    やはりといいますか、ついに暴かれましたね
     ……フォルクスワーゲン VWの不正排ガス問題。


 ヨーロッパではいくら低硫黄分の軽油を使っているといっても、ディーゼル車は自然着火のうえ、さらに直噴が多いので、エンジンの構造上不完全燃焼による窒素酸化物の発生は避けられませんが、あのような不正をしたのでは大気汚染、かなり深刻だと思いますよ。

 日本では都知事だった石原慎太郎さんのときにこの問題が盛んに言われて、しかもいすゞ自動車のように不正に近い状態? でディーゼル車を販売していたメーカーもあったが、それでも昔みたいに黒煙を吹いて走るティーゼルトラックとかはかなり減ったけれども、まだ絶滅まではいっていませんね。


 ちなみに検索すると、パリのエッフェル塔とかがスモッグに覆われていて霞んでいる写真がいっぱい掲載されているではありませんか。

  すでに現代は21世紀になっているのにもかかわらず、
  ヨーロッパの各都市では日本の1960~70年代によく見かけた
      光化学スモッグ状態だとか
(下数枚の写真)


(富士山も見える2015年の東京の空と、排ガスで覆われている2014年のパリの街:2chのサイトより)



 そしてやはりヨーロッパ域内に多い酸性雨による森林被害、このディーゼル車が主原因なのはまず間違いないでしょうね。なにせ基準値の何十倍もの窒素酸化物とかを吐き出していたのですから。しかも乗用車の半分以上がディーゼル車といいますから。


 日本では過去には硫黄の含有率が高いという軽油の質にも問題があったのだが、窒素酸化物に対する規制のため現代の乗用車はガソリン車主体となったのは、今考えれば本当に良かったと思います。

 それに対してヨーロッパでは二酸化炭素の排出が少ないからと、ディーゼル化を推進しそれをことあるごとに自慢していたが、これらの不正を見るにつけ、NOx=窒素酸化物だけでなく、CO2排出も果たしてガソリン車と比べて本当に少ないのだろうか? 本当に疑問だと思えます。


(主にディーゼル排ガス規制で綺麗になった2015年の東京の空 : 2chのサイトより拝借)



(ディーゼルの排ガスで1km先のエッフェル塔が霞む2014年のパリの空 : 2chのサイトより拝借)


(世界中で最も最悪な大気汚染状態だと思われる2013年の北京の空 : 2chのサイトより拝借)



 ヨーロッパ各地の大都市、中国みたいにあんなに大気が汚染されているのに、何が環境対策に力をいれている……などと妄想を言っているのかと思います。


 自国の開発が遅れた自動車会社を保護するために抜け道だらけの検査で、日本車を締め出すためのクリーン規制や(日米に比べればNOx規制は相当に甘いが)、CO2規制だったのでしょう。だからと言って自国産業というより主にドイツの自動車産業を保護するために、住人の健康に絶対悪影響を及ぼしていると思われる、あんなにひどい大気汚染を放置していいはずがありません。


 まあ今回、フォルクスワーゲン社の不正がアメリカから暴露された本当の理由はもっと別のところにあるのかもしれませんが、どちらにしても公害まき散らしの車造りを平気でしてきた主にドイツは真剣に反省せざろう得ないですね。

 しかし報道を見るにつけ、実に巧妙なやり方で排ガス規制をすり抜けたものだと、そちらのほうに感心しちゃいますが、ロングライフを前提とした設定での劣化したエンジンオイルも、走行中に燃料と共に燃えて大気中に拡散してしまう問題も同類ですね。昔の2stバイクと同じ現象です。


 でもこれで独政府を巻き込んでの不正なディーゼル車は
     相当に規制され、下手すれば販売数はゼロになり、
 しかも大国なのにあまりにも自動車産業だけに偏っている
     ドイツ経済はかなり打撃を受けるだろうが、

 その反面、深刻なヨーロッパの大気汚染が改善されて、
     多くのぜんそく患者とかが救われることを思えば、
     長い目で見ればヨーロッパの人たちにとっても
            良かったと思います (追記はここまで)


   ----------------------------------


 とにかくそんなこんなで、自分の乗っている車やバイク以外のことは分からないので、いろいろ調べていたら、トヨタのノアやほかにも一時期よく採用されていた直噴エンジン車の吸気バルブ周りには、スラッジが非常に溜まりやすく、トラブルが多い……というのがありました。

 3000km/毎のエンジンオイル交換でも、エンジンが焼きついて止まったとの報告も見ました。
 
                    (トヨタの大型ミニバン ノア)


 「スラッジ」 というからには、エンジンオイルが十分暖まらず温度が低すぎてヘドロ化したような感じも受けますが、私は専門家ではないので本当のところはどうなのでしょうか。まあお車を買うときにそんなところまで調べあげてまで買う人はまずいないだろうから、欠点といえば欠点なのでしょうけど、高価な買い物だけにちょっと考えさせられますよね。



 ちなみにウィキペディアで 「直噴エンジン」 を調べると、

 従来のタイプとは違い、吸気バルブから混合気を吸わずに空気だけを吸うので、圧縮時のノッキングを気にせず超希薄燃焼が可能で、圧縮比も高くでき、高出力化と低燃費との両立のメリットがある反面、圧縮された高圧の燃焼室の中に直接希薄燃料を吹くので、これがうまくいかないと不完全燃焼をすぐに起こして、燃焼室内やその周辺にススが溜まりやすく、メンテが大変だというのがありました。
  → そしてこのススの一部が、エンジンオイルに混ざって非常にオイルが劣化してしまう
                                   … とも書かれてありました。
 よって
 エンジンオイルも専用のものを選ぶ(純正の直噴用エンジンオイル一択?)必要があるようです。


 結局トヨタの低コスト主義のせいなのか? 設計段階で十分な耐久性テストをしていなかったのか、はたまた耐久テストは下請けにでも丸投げしているのかとも思えてしまいます。ミニバンなどの大型乗用車は、何百万円もする高い買い物なのに致命的なトラブルを抱えるのは、客軽視もはなはだしいとしかいえないですね。

   そう思ってさらに詳しく調べてみると、こちらに詳しいプログがありました。
   ここにご紹介しておきます。前後の連載記事も合わせて見てください。
     こちらです → 自動車学 
        http://blog.goo.ne.jp/carlogy2012/e/f0a6a2f3256b5b19b52a8e8bf0fd01fa
        http://blog.goo.ne.jp/carlogy2012/e/8487a3351e015b2560a68d69043860c2
        http://blog.goo.ne.jp/carlogy2012/e/c520aeeceb0a7e2aafb51347d93c7727




        【2015.11.18 追記】
 2015年 12月号の「オートメカニック誌」には(下写真)、直噴エンジン内に多量に発生するススの写真がたくさん掲載されていました。その雑誌の内容をここでご紹介するだけのスペースはありませんが、ポート噴射を併用しているトヨタ 86に採用されているD4-Sでも、たった20000kmの走行でかなりの量のススが吸気バルブ付着している写真が掲載されていました。

    (ポート噴射と直噴を採用しているトヨタ 86 : トヨタのホームページより)



同じトヨタの40000km走行したマークXにいたっては、堆積物状態となっている吸気バルブの写真が紹介されておりました。下手をすると圧縮漏れを起こしそうなレベルです。しかもこれらのお車は自然着火のディーゼル車ではなく、ガソリン車だからなおさらビックリです。
 
    


 現代のハイテク仕様のエンジンでも、不完全燃焼によるススの発生をなかなか抑えられないのに、車メーカーは今もなぜ直噴を採用するのでしょうね。今の状態なら明らかにデメリットのほうが大きいのは間違えなさそうです。

 技術の進歩も非常に大切だが、車は高額の買い物なので大きな欠点があるからと言って、そうそう簡単に買い替えられるものではないので、車メーカー側ももっと消費者側の視点に立った商品開発をしてもらいたいものです。



   ----------------------------------


 追記による余談が長くなりましたが、

 今回から車の修理屋たけしくんさんのアドバイスにより、より安全を期して価格が約2割ほど高くなるが、オイル粘度が5W-40となる 「H-TECH Multi Standard 5W40」 をチョイスしてみました。

 ちなみにコンテのNA車ならば0W-20か5W-30の二択となっていますが、コンテに限らず軽四のNA車は常用回転数が高いことから、特に夏場は5W-30を選択するほうが無難なように思えます。
 

       (H-TECH MULTI STANDARD 5W40のラベル : 筆者撮影)


 このエンジンオイル、メルセデス・ベンツのアプルーバル229.5等を取得したエンジンオイルですが、それよりもこのH-TECHシリーズ、表示は化学合成油となっているものの調べると、どうやら高VI(VHVI)の高度水素化分解精製の鉱物油系エンジンオイルのようなのです。

 このエンジンオイルのパーツレビューはこちらです。
     https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/car/879006/4443349/parts.aspx
 

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 こんにちでは高性能オイルといえば、化学合成オイル(シンセティック)というのが一般的なのですが、化学合成油でもいろいろな種類があるようで、エステル系は加水分解に弱くて高性能でも冬場やちょい乗りにはあまり向かず、PAO系は鉱物油と同様に加水分解に強い?ようですが、お値段がかなり高いみたいです。

 そして 「高度水素化分解精製油(ハイドロクラッキングオイル)」 とは、当方ではネットでかじった程度の知識しかありませんが、
 普通の原油から蒸留して生成する鉱物油に対し、さらに不純物を徹底的に除去して製品の色相・酸化安定性・粘度や粘度指数などのの品質を改善し安定させる為に、触媒を用いて水素を加えたりして分解処理を行い高粘度指数基油を作るのを水素化改質処理といいます。

 これらの高度な処理により、化学合成油のPAO系の品質までには届かない?ものの、一般的な鉱物油に対して、高度に生成して特性をそろえてベースオイルの粘度指数が高くなるためでしょうか、スラッジの元となる添加剤の量が少なくて済む?エンジンオイルのようです。

 ごく簡単に言えば、水素を加えて昔からある鉱物油をさらに高度に分解精製して不純物を取り除き、従来の鉱物油とは思えないような粘度・温度特性の良いベースオイルになっているということでしょうか。



 そしてその良質なベースオイルに加える添加剤にこそ、オイルメーカーのノウハウがあるようです。

 エンジンオイルは冬場の外気温の低温から、エンジン内の超高温に至るまで、過酷な状況にさらされていくうちに酸化していき、さらにはエンジン内とオイルパンとの中を循環していくあいだに、分子構造がせん断されそこから酸化が進んでいき、やがて寿命となります。

 そのオイルの劣化の原因となる「酸化」と「せん断」をどれだけ防げるか、といったところに専業オイルメーカーのノウハウがあるとのことで、せん断しにくい分子構造や、たとえせん断されても切れたところが酸化しにくいポリマーなどの分子構造を持っている、とかがメーカーの持ち味となるようです。


 もちろん元々のベースオイルの質が低いと、たくさんの添加剤で不足するオイルの性能をカバーしようとするので、使用していくうちに酸化やせん断が起こりやすくなり、時間と共にオイルの劣化が激しくなります。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 そして今回我がコンテRS号に入れた、「H-TECH MULTI STANDARD 5W-40」 は、その鉱物油系の改良である高度水素化分解精製油(高粘度指数鉱物油)のエンジンオイルでして、このエンジンオイルでは精製法から分かりますように、さすがに過激な運転にまでは向かないらしいです。

 でも、私は別にレースに出ることも一切なく、峠でエンジンを回すこともこれまた一切ないので、そんなにオイル油圧・温度とかに神経質になる必要もなく、普通の街乗りレベルなものの、走行距離がめっちゃ多くて(笑)、しかも高速道路の運転も多い当方としましては、ちょうど性能と価格とのコストパフォーマンスが高いように思えました。

 
     (エンジンオイルをゲージ部分から抜き取るオイルチェンジャー : 筆者撮影)


 なお今回、このオイルは5W-40の鉱物油系ということと、省燃費オイルの規格であるILSACのGF規格は、このオイルでは認定されていないことから、二輪のCD250Uにも試験投入しまして10kmほど走りました。

 常温で新品オイル同士を比較すると、見た目には今まで使っていた鉱物油のホンダ純正G1 10W-30より、この低温側が5Wのモチュールの5W-40オイルのほうが、はるかにネバネバしていますね。



 最初は新オイルを投入したCD250Uを十分暖機したうえで、そろりそろりと走り出し完全にエンジンが暖まった後、きつい坂であえてエンジン回転を上げてみましたが、とりあえずクラッチすべりは感じられず、かえってホンダ純正の鉱物油G1 10W-30オイルよりは、はるかにエンジン回転が滑らかに、かつすばやく上昇するようになっていてかなりビックリしました。

 とりあえず10kmほど走行した感じでは、クラッチすべりは大丈夫そうでしたが、四輪のオイル使用による長期的な影響 (特にどの程度入っているか全く不明な減摩剤の影響や、せん断による劣化) は、今のところ全く不明です。

 よってクラッチやミッションギヤーによるオイル分子のせん断やオイル酸化による粘度低下が、走行するにつれどの程度劣化していくのか、カムシャフトやミッションギヤーとかに悪影響を与えないのか、オイルシールに問題はないのか、今後注意深く経過を見守りたいと思います。

 後に2012年 6月の初めごろに1日で500km以上の日帰りの遠出走行してみましたが、とりあえずは無事走りました(追記)。

 もしこの四輪用エンジンオイルを二輪へ試される方がいらっしゃれば自己責任にてお願いします。


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


      【2013.1.6 追記です】
 先日知ったのですが、昨年2012年の夏ごろからとうとうモチュール(日本代理店はテクノイル・ジャポンKK)も、オートバックスとジェームス向けにJ-01シリーズという、H-TECHシリーズと同じようなエンジンオイル?を小分けして=4L缶と1L缶での販売を始めたようです。

     

 詳細な中身はもちろん私には分からないけれども、どうやらこのH-TECHシリーズのエンジンオイルを小分けしたような感じにみえますね。この100%化学合成油となっているJ-01シリーズでも、上位2種のみエステル配合と表記されていることから、その他の3種はH-TECHシリーズと同様にVHVIのハイドロクラッキングオイルのように思えます。

 なお、【関連情報URL】には、このJ-01のメーカーサイトをご紹介しています。


 やはり街の業販店では、激安オイルをペール缶で購入して差額で利益を出しているようなきらいがあるので、このシリーズのモチュールのオイルはあまり売れなかった=数をさばけなかった、ということでしょうか? げんに私の自宅周辺でもこの“プロフェッショナルオイル”と名づけられた、このH-TECHシリーズのエンジンオイルを置いているところをとうとう見つけられなかったし。


 モチュールのH-TECHシリーズのエンジンオイル、20Lのペール缶の購入となるものの、
 街乗りレベルならオイル性能に対するコストパフォーマンスはピカ一だと今も私は思うのだが。

プロフィール

「我がコンテ号、325327kmにて初めてCVTオイルパンを開封(写真)。

CVTは3~4万kmでのフルード交換ぐらいしかメンテはしてませんでしたが、左端の円形のマグネットにヘドロがこびりついている以外はきれいでした。

当然、新品のストレーナ・マグネット・ガスケットへと交換。」
何シテル?   10/26 21:55
カクシカおじさんです。 ニックネームの由来は、我が愛馬コンテカスタムRSの別称、ダイハツの『カクカクシカジカ』と現在の年齢がおじさんになっているところから...
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車の修理屋 たけしくん 
カテゴリ:車整備ほか
2024/07/05 03:08:28
 
コスパ最高なトヨタ車 プレミオ分解画像 
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2021/08/15 10:19:03
同車種・他仕様の純正部品を用いたシートヒーター流用取り付け - 序章 ~ 作業前の環境整備 ~ 
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