2012年12月02日
こんにちは。政治ネタや社会ネタは個人的には興味がある…というか趣味というか好きというか、ちょっと分かったようなことを言ってみて社会参加したいというか、私は根っからのそういう人間なんですな。書かないと寝られないので、長~く書きますので真面目に読むと目が疲れますよ。テキトーにスルーして下さい。
好きだとは言っても、こういうのは精神的にストレスをためる分野でもあり、鬱病にはすこぶる悪いようで最近は考えないようにしていました。ですが、特に原発を巡って様々な動きが毎日激しく起こっているのを見たりすると、選挙結果はどうであれ歴史的な選挙になることは間違いないのだろうとは思うのです。ここは書いておくことが、あとで読み返して日記らしくていいなと思うわけです。
私はどうも右だ左だとレッテルを貼られるのは好きではありませんが、おそらくいわゆる「左翼」と見られるのだろうなぁと思いますし、それならば光栄なことだなと思います。お前はアカか?と言われれば「今のところ共産党が近いですね」と答えるでしょう。客観的に見れば共産主義というより、「社会民主主義」に近いのだと思います(民社党とはだいぶ距離があると思います)。資本主義社会で北欧における社会学や政治学というのがイメージ的には近い。
<都知事選について>
一足早く出発している都知事選にも興味があります。私は東京で生まれ育った人間ですから、愛着があります。東京なんて…と高校時代は思っていましたが、45歳となった今では武蔵野の豊かな雑木林、枯葉に埋もれた玉川上水、霜柱を踏みながら友達と走り回った小学校、遠くに白く帽子をかぶった富士山…なんと哀愁溢れる故郷だろうかと懐かしく思います。
ですから、私は緑豊かな東京で子ども達がすくすく育って欲しいと思いますし、下町の人情や築地の文化も残して欲しいとおもいますし、オリンピックをするより福祉や雇用にお金を使っての景気対策をすべきだと思います。日本でもっとも電気をたくさん使用している都市として、原発に頼らない電源を全国にさきがけて先進モデルとしてチャレンジして欲しいとも思います。どんな地方の人でも受け入れてきた都市だからこそ、もっと優しく奥深い街になってほしい。
だから、「障害者なんて生きている意味があるのかね?」「オレはね、東京湾に原発を作ったらいいって言ったんだ」などと乱暴なことを平気で言う人が知事であることは恥ずかしく思ってきましたし、実際に待機児童は増え、お年よりは施設に入れず、貧困ビジネスで亡くなる人が増えても、まともに対策をとろうとはしませんでした。それを継承すると平気で言えるような人にはなってほしくないと思います。
あの小泉改革による規制緩和で不況の波が押し寄せ、日雇いや派遣労働者が溢れ、年越し派遣村を結成したとき、生活や住宅の支援で奔走した弁護士、宇都宮けんじさんが立候補してくれました。この人は多弁ではありません。でもオウム真理教被害者の救済では実態解明のために粘り強く調査をされた方ですし、裏づけのある話は説得力があります。言いたい放題で他人の話を聞こうとしない人とは大違いです。聞き上手は話上手とはよく言ったもので、有能な心理療法士みたいに安心できる人です。もし、私が都民なら間違いなくこの人になって欲しい。東京に住んでいる友達や親戚にもそう話をしているところです。
<総選挙直前の印象ついて>
総選挙については魑魅魍魎が蠢いて一寸先は闇という感じがします。なんせ数ヶ月で党を潰す人もいれば、5日間で潰す人もいる。自民党から維新へ、民主党から自民党へ、民主党から未来の党へという人もいて、渡り鳥か椅子盗りゲームかという状態です。つまり、そういうあっちゃこっちゃ右往左往している候補者のすべての判断基準は「今の一番人気は?」「どこに賭けたら勝てるか」という競馬や賭博のようなもので、そこには実は政策も党の方針も組織も存在しません。
それでも、一応人気にあやかりたいですから「反原発」とか「卒原発」とか言うわけです。ところが本心が違うものですから、言動がぶれたり「小異をすてて大道につくんだ」とか「最高の安全基準を満たして政府が認めたら手続き的には再稼動するという意味で…」などと、あとから理由をくっつけてくるわけですな。でもね~。一度口走ってしまった言葉は消しゴムでもリセットボタンでも消すことができないんですよね。
<原発について>
ここで原発について言えば、「原発ゼロ」はどういうことを指すのか?が焦点になると思います。原発ゼロといってもサリーちゃんが(古くてすいません。その世代なんです)「えいっ!」とステッキを振るとキラキラキラ~って原発が消えるわけではありませんもんね。その「ゼロ」の定義をはっきりさせずに「できっこない」「いや、できる」なんて言っても現実的ではありません。では「ゼロ」とは何か?
それは「原子力発電所の稼動をゼロにする」ということです。これ、簡単ですね。これ以上でもこれ以下でもありません。つまりいま大飯で動いている2台の原子炉の核融合を止めれば「ゼロ」になります。実際に半年前までは大飯原発は動いておらず「ゼロ」の状態だったわけですから、非常に現実的な「ゼロ」なわけです。
もちろん、新しい原発建設もストップ、破綻したもんじゅ、MOX燃料の生産、核燃料サイクル事業の停止、安全な廃炉への着手、核のゴミを数十万年管理する方法の研究、などを行いつつ、自然エネルギーの普及、発電・送電・売電事業を分け、地域主権型にしてエネルギーの地産地消をすすめていくことも急務です。この壮大な事業の全てが新しい技術と雇用を生み出し、経済の建て直しにも役立ちます。
その全ての出発点が「稼動ゼロを決断する」ということであり、その本気度が政党に問われているのです。ゼロをスタートにできない党に、次の廃炉・新しい事業に挑む度胸はないでしょう。だから「10年でゼロに」とか「2030年代には・・・」などという政党は、はっきり言って「原発を推進しますよ」ということです。
さて、そこでその「度胸」ですが、いわゆる「原発村」というのがありますよね。政治家・電力会社・ゼネコン・メガバンク・マスコミ・御用学者・・・と言われる巨大な利権ネットワークのことです。彼らから献金を受けたり、パーティー券を買ってもらったりしている政治家が彼らに大なたをふることができるでしょうか?「君たちに明日は無い」と言えば、お金が集まらない。これでは選挙ができません。選挙に負ければタダの人。それは怖いから度胸が出ない・・・。
だから「卒」とか「10年」とか、妙な言い回しになってしまうのです。「脱原発の票はほしいけど、お金がなければ当選できない」という矛盾の中で苦し紛れに絞り出した方便だと言えます。残念ながら企業団体献金というのは、ここまで政党や政治家を退廃させてしまうものなのです。しかし、そんな言い方をさせているのが、古い政治家たちを追い詰めている脱原発運動の力ではないでしょうか?
その意味では、原発推進を明確にしている政党は判断しやすいですね。その他の党はよく見極めが必要です。
<政党とはなんぞや?>
では、そもそも政党とはなんぞや?という疑問がわいてきます。そもそも「2大政党をつくれば、政策を競い合って、どんどん政治は進む」と政治家やマスコミが持ち上げて、政権交代しましたね。
ところが民主党は次々に公約を裏切って自民党みたいになるし、「消費税を上げるなら解散して信を問え」と言っていた自民党はいつの間にか、どさくさにまぎれて消費税増税はいっしょに強行採決してしまいました。そのあとで「解散しろ」だの「近いうち」だの、言い合って「ほたら解散したるわ!」いきなり野田さんが見栄を切ったわけです。三文役者とはこのことですな。吉本新喜劇の方が100倍面白い。
つまり、簡単に言えば2大政党は失敗したのです。「AかBを選びなさい」と言うほど政治は単純じゃない。国民の思いはもっと多様であって、二つにむりやり詰め込もうとしたのが間違いの始まりだったということです。結局自民党も民主党も信頼を失い、そのおこぼれを欲しかった維新の会もボロが出て、反原発に飛びついた小沢さんが嘉田さんを担ぎ出して「小沢隠し」に成功するか?というところでしょう。
悪いですけど、小沢さんは「有罪に足る証拠がない」という判断が下っただけの人です。田中角栄に可愛がられ、金丸信の右腕として金庫番をし、闇将軍として党を壊したりくっつけたりしてきた人です。更に民主党になってからは自民党と密談をして大連立を企てたりしました。小沢さん個人に恨みはありませんが、政治家としては信頼できる人ではありません。
2大政党が破綻し、小さな政党がたくさんできる。選択肢が増えたのだから本当は喜ぶべきことです。少数意見でも国会で反映するのが民主主義ですからね。しかし今は手放しで喜べないところがあります。なぜなら「地に足のついた政党」ではなく「ひとり、あるいは2人くらいの突飛なリーダーの顔だけの政党」だからです。いつ無くなるかわからない。いつ他の党とくっつくかわからない。公約を投げ出すかもしれない。自民や民主とくっつくかもしれない。自分の意見が選挙後に国会に反映されるかさえ確約できないわけです。
では政党らしい政党とは何なんでしょうか。元鳥取県知事で総務大臣を務めた片山さんという人が興味深いことを言っています。
以下抜粋。
・・・「政党というのは本来党員がいて、ちゃんと政策があって、組織があって、それを国民が選ぶのですけれども、党員もいない政党がぞろぞろ出てきて議員の人たちの何か仲間内のグループみたいな、なにかがどんどん出てくる。ちょっと政治的にはまずい国ですね。・・・」以上、抜粋終わり。
つまり、日常的に地域や職場で働いている党員がいて、生活や仕事の現場の声や願いがリアルにつかめる政党。あるいは地方議員が活動していて、国の政策によって地域が苦しめられていたら、そのことをちゃんと国会議員に伝わる政党。そうした見える活動を信頼して個人献金を安心してできる政党。そういう政党が政党らしい政党ということなのでしょう。党員もいない、議員は古い寄せ集め、こんな根無し草のような政治では、時々によって声の大きな人に左右される日本になってしまうということです。
「政策をちゃんと見る」というのと同時に、「この政党は政策実行に責任の持てる党か」という判断も必要なのでしょう。
<原発だけが争点か?>
さて、まじめに反原発運動をしている人もたくさんいますし、イメージを利用してやろうという輩もいます。また運動をしている人の中には従来の市民運動や労働組合運動として活動する人もいますし、若い人は自覚的にそれぞれの地域に結成された「原発ゼロの会」などに参加しており、これまでの日本の運動には見られなかった新しい運動が芽生えています。
同時に、なにもかも始めて経験した人たちの運動なだけに、日常の反原発運動から「政治活動」というこれまでと異なる活動に参加した人たちは、戸惑いを隠せないようです。その代表的な例が「どうして反原発の候補者を絞る努力をしないのか」という既成政党への怒りです。
つまり小選挙区で当選できる人は一人だけ。2位以下の少数意見は抹殺されるというのが小選挙区制度の欠陥であり、非民主的な制度であるゆえんです。だから必死になっている反原発運動をしている方々は「自民党・民主党・維新など原発推進派を少数にするためには、反原発の党は調整をして一人に候補者を絞り、ガチで勝負しないと負けるじゃないか」と危惧するわけです。
その思いは確かに分かります。この地震国日本で南海トラフにねじれが生じて大震災の危険性が差し迫っている。今、原発の判断を遅らせてしまえば、最悪の原発事故が連続的に起こり、他の政策や計画なんてふっとんでしまう恐れが現に存在している。ならば、それこそ「小異を捨てて大意につくのは当然」という思いになるのは、ある意味当然なのです。
<それでも、民主主義というのは階段がある>
それでも私は国民は「原発」への態度だけで党や候補者を選ぶことはできないと思いますし、政党というのは、原発以外の政策に無責任であっていいとは思いません。
例えば、2005年に「郵政解散」というのがありました。当時の小泉首相が「郵政民営化に反対する者はすべて抵抗勢力だ!解散で信を問う」と解散しました。そして「郵政民営化すれば、日本はよくなります。ムダをなくすことができる。経済もよくなる。財政難も克服できます」と大風呂敷を広げたのです。「郵政賛成」は善人。「郵政反対」は悪人。のイメージがマスコミや論者を使って大々的に繰り広げられ、その他の政策は隅っこに追いやられてしまいました。
ところが、選挙が終わって小泉劇場が終わってみれば、貧困と格差が広がり、首を切られた2百万人に及ぶ派遣労働者が途方に暮れ、不況で事業者や商売人がどんどん倒産し、正社員は給料は減り過労死が増え、自殺者は3万人を超え、孤独死・孤立死の高齢者が増え、子ども達までいじめ自殺に追い詰められるようなギスギスとした社会になっただけでした。
「改革を止めるな。」というキャッチフレーズに騙された国民は、反動で民主党政権にすがりつく思いで託したのです。このときは「政権交代」がキャッチフレーズでした。しかし、民主党政権への期待は裏切られたわけです。
「郵政民営化」「政権交代」どちらも、単体のテーマです。「郵政」は「国民は郵政のことだけ考えればよろしい。他の政策は全部白紙委任してくれ」というものです。「政権交代」に至っては政策ではありません。「あんたらは政策なんて考えんでええねん。とにかく政権交代したら、何でもええようにしたるさかい、とにかく選びや」というものです。
つまり、反原発だけで、あとの政策は考えるな・・・ということでは(そんなつもりはないとしても)、政治の中身は全部委任してくれと言っているのと同じになってしまうのです。貧困に喘いでいる人、就職先が決まらない人、学費が払えない学生、いじめに苦しんでいる子ども達、消えた年金が未だに解決してない人、基地の騒音と暴力に怯える毎日を送っている沖縄の人々、復興が全然進まず「俺らは忘れ去られた」とつぶやく東北の人たち・・・。そんな人たちに「あんたら原発のことだけ考えて投票すればええねん」という政党が、責任をもった政党と言えるでしょうか?
やはり、雇用・産業・経済・税制・社会保障・外交など、全面的に日本の問題点と改革ビジョンを示すことが政党としての基本だと思います。その意味では綱領や規約など、大きな方針と党を運営するルールもしっかりもっている党が責任ある政党でしょう。こうして日本の全体像を明らかにしてこそ「原発利権」の構造があぶりだされてくるし、「原発ゼロ」の将来像も無理なく描くことができるのだと思います。
反原発でがんばっている人を批判するつもりはありません。ただ、日本の場所場所に生きている人は、みんな目の前にある困難は違うし、切実な願いは違うという事実をありのままに受け止めることが必要です。近視眼的に焦れば焦るほど反原発の運動はしぼんでしまいます。みなさんが「諦めない、原発ゼロが現実となるまで、息の長い活動をしよう」という初心まで折れてしまう危険があるのです。
<世論と民主主義>
世論というのはいつも揺れ動きじぐざぐとするものです。でも、少なくとも雰囲気だけで決めて痛い目にあってきた経験をした国民は、今までよりももっと目を見開いて党や候補者を見分けようと慎重に考えていると、僕は思います。できれば候補者が地域に入り、ひとりひとりが膝を突き合わせて「自分だったらこうしてほしい」「子どもや孫たちの時代はこうあるべきじゃ」と街角や集会所や学校でこもごも意見が語られる中で、「やっぱりワシはこの政党だな」と納得する。そんなひとりひとりの「納得」が砂粒のように積みあがって、富士山の裾野のように広がり、その上に「だから原発ゼロ」という揺ぎ無い高い頂ができあがるのだと思います。
いま無理やりに「納得せよ」というのは「愛国心をもて」という命令と一緒で民主主義ではありません。民主主義というのはいつでも「到達」です。ですから、原発だけが争点であるべきだ、と焦らず、「原発のない日本だったら、もっと美しい自然豊かな日本にできるよね」「原発の予算をもっと福祉や教育に使えたらいいですよね」と希望を語ることが必要なのだと思います。「そんなことを言っても時間がない」「悠長なことを言っていられない」というかもしれませんが、解散・総選挙というのはいつでも時間との勝負なのです。時の政権が一番都合の良い時に解散するわけですから、「民主主義が熟して世論が動いてから選挙」という時はないのです。
民主主義というのは、「全て国民は正当に選挙された国会を代表して行動する」という憲法前文の理想を具現化する行為です。原発ゼロの議員が当選できなくしている根源は小選挙区制度です。ならば憲法違反の小選挙区制度を廃止させることも原発ゼロの日本をつくるひとつの道です。あるいは、核兵器廃絶を被爆国の政府が国連で提案もできないとはなんと世界の恥さらしでしょう。アメリカの顔色を伺うことなく堂々と国民と世界の平和のために発言できる外交をつくることも、原発問題の解決で世界をリードする力に繋がるでしょう。
<それでも歴史は進む>
世の中の道理を説き、ひとりひとりの悲しみに心を寄せ、無慈悲な為政者への怒りに耳を傾け、英知を集めて新しい道をつくる。数万年の人間の苦難の歴史の上に私たちの社会があります。その連続性と先に続く可能性をしっかりと見ていきたいと思います。
反原発の運動は、3・11の震災と原発災害に「このままでいいのだろうか?」と思った人が自主的に作り上げてきた運動です。その運動を今度の選挙で「これは古い人たちのやり方」「これは私たちの意見を受け入れない党」と色分けしてしまえば、自主性は崩れていきます。選挙は選挙。運動は運動。その気持ちの切り替えこそが本当の連帯なのではないでしょうか。
この運動はすでに日本の歴史に刻み込まれました。後世の教科書に出てくるかもしれません。別にヒーローとして扱うのではなく、「民主主義の新たな活気をつくった」と胸をはれるようにこの運動を続けようじゃありませんか。数が少なくても「後期高齢者医療は廃止する」と民主党に言わせた運動だってこれまであるんです。道理の力を甘く見てはいけません。TPPも、基地問題も、もっと大きな運動にしないと日本の未来はありません。歴史を前に進める「1億2千万人の一人」であることに確信をもって下さい。
「古い人たち」と「新しい人たち」に挟まれている45歳のオッサンだからこそ、わかることがあると重い、長々と書きました。
Posted at 2012/12/02 21:25:05 | |
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